表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/14

第12話 ハナ差

 ハナ差というのは、馬の世界でいちばん短い勝ち負けの単位だ。

 馬の鼻先がほんのわずかに前に出た、その分の勝ち。

 ハナ差は距離としてはいちばん短い。

 ハナ差で勝った馬と、ハナ差で負けた馬の、その後の人生は、世界でいちばん距離が出る。


---


 ゴール板まで百メートル。

 馬の感覚で息を四回吐ける距離だった。


 エンペラーはまだ半馬身、前にいた。

 半馬身というのは、馬一頭の半分の長さである。

 半分の長さは、馬にとって人間が思っているよりずっと遠い。

 遠いのに、僕たちはその半馬身をぐっと近づけていた。


 エンペラーがちらりとこちらに目を向けた。

 馬のちらりは、人間のまじまじとほとんど同じ強さがある。

「来たか」

 エンペラーは低く言った。

「うん」

「お前の馬、勝つ気になったか」

「……うん」

「そうか」

 エンペラーはそれ以上、何も言わなかった。

 言わなかったのに、たてがみの揺れ方が少しだけ変わった。

 誇らしさが緊張に混ざった。

 緊張が混ざった誇らしさは、生まれつきの誇らしさより強い。


---


 佐伯巧は、五十歳の人生のいちばん深いところで鞭を振った。

 振ったというよりは、ようやく振ることができた、という方が正確だった。

 三十年軽すぎたままだった鞭が、その日その瞬間、佐伯の手の中で初めて、ちょうどいい重さになっていた。

 ちょうどいい重さは、優しさを捨てた重さではなかった。

 ちょうどいい重さは、優しさをようやくちゃんと馬に届けるための重さだった。


 ナミダフクザツは、鞭を痛みとは感じなかった。

 感じたのは、誰かの長い迷いのようやく抜けた、ぬるい温度だった。

 佐伯さんの迷いの抜け方を、ナミダはなぜか知っていた。

 馬は騎手のいちばん深いところを、人間が思っているよりずっとよく知っている。


---


 馬体が伸びた。

 伸びるというよりは、馬と人間の両方の意識が、世界に向けて自分たちの輪郭をぐっと押し出した、と言うほうが近かった。

 輪郭を押し出した瞬間、僕たちのたてがみとエンペラーのたてがみが、同じ高さに揃った。


 半馬身が首差になった。

 首差が頭差になった。

 頭差がハナまで縮んだ。


 ゴール板まで二十メートル。

 二十メートルは、馬の感覚で息をひとつ吸う距離だった。


---


 僕たちは息を吸った。

 吸い込んだ息の中に、いろんな声が混ざっていた。

 娘の声。

 老婦人の声。

 佐伯さんの、迷いから抜けた声。

 馬主の、亡くなった夫の頼みごとの声。

 借金二千八百万円分の、僕の祈りの声。

 全部の声が一回の息の中に入った。


 全部の声でふくらんだ肺は、思っていたよりずっと軽かった。

 軽かったのは、預けられた声は、預けたぶん、こちらの息を軽くしてくれるからだ。

 応援は、そういう仕組みで出来ている。


 最後の一完歩。

 馬の最後の一完歩は、人間の一歩よりずっと長い。

 その長い一完歩のいちばん最後、ふっと地面を蹴った瞬間、僕たちの鼻先がほんのわずかに前に出た。


 わずか、というのはハナぶんだった。


---


 ゴールの瞬間、世界が——


 止まった、と書くべきか、抜けた、と書くべきか、戻った、と書くべきか、僕にはまだわからなかった。

 わからないまま、馬の中の、僕たちの二つの意識の結ばれた糸が、ふっとほどけた。

 ほどけた糸は、それぞれ別の方向に滑り落ちていった。

 馬の意識は馬のほうへ。

 僕の意識は僕のほうへ。


 戻るというのは、こちら側の、ずっと長いあいだ空けっぱなしだった部屋に、明かりがぱちんと一回点くような感覚だった。

 明かりが点いた瞬間、僕は最後に、馬の中でナミダの低い声をほんの一拍だけ聞いた。


「お父さん、よろしく」

 馬はそう言った。

 誰の父親に向けて言ったのか、僕にはわからなかった。

 わからないまま、世界は——


(第13話へ続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ