第12話 ハナ差
ハナ差というのは、馬の世界でいちばん短い勝ち負けの単位だ。
馬の鼻先がほんのわずかに前に出た、その分の勝ち。
ハナ差は距離としてはいちばん短い。
ハナ差で勝った馬と、ハナ差で負けた馬の、その後の人生は、世界でいちばん距離が出る。
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ゴール板まで百メートル。
馬の感覚で息を四回吐ける距離だった。
エンペラーはまだ半馬身、前にいた。
半馬身というのは、馬一頭の半分の長さである。
半分の長さは、馬にとって人間が思っているよりずっと遠い。
遠いのに、僕たちはその半馬身をぐっと近づけていた。
エンペラーがちらりとこちらに目を向けた。
馬のちらりは、人間のまじまじとほとんど同じ強さがある。
「来たか」
エンペラーは低く言った。
「うん」
「お前の馬、勝つ気になったか」
「……うん」
「そうか」
エンペラーはそれ以上、何も言わなかった。
言わなかったのに、たてがみの揺れ方が少しだけ変わった。
誇らしさが緊張に混ざった。
緊張が混ざった誇らしさは、生まれつきの誇らしさより強い。
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佐伯巧は、五十歳の人生のいちばん深いところで鞭を振った。
振ったというよりは、ようやく振ることができた、という方が正確だった。
三十年軽すぎたままだった鞭が、その日その瞬間、佐伯の手の中で初めて、ちょうどいい重さになっていた。
ちょうどいい重さは、優しさを捨てた重さではなかった。
ちょうどいい重さは、優しさをようやくちゃんと馬に届けるための重さだった。
ナミダフクザツは、鞭を痛みとは感じなかった。
感じたのは、誰かの長い迷いのようやく抜けた、ぬるい温度だった。
佐伯さんの迷いの抜け方を、ナミダはなぜか知っていた。
馬は騎手のいちばん深いところを、人間が思っているよりずっとよく知っている。
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馬体が伸びた。
伸びるというよりは、馬と人間の両方の意識が、世界に向けて自分たちの輪郭をぐっと押し出した、と言うほうが近かった。
輪郭を押し出した瞬間、僕たちのたてがみとエンペラーのたてがみが、同じ高さに揃った。
半馬身が首差になった。
首差が頭差になった。
頭差がハナまで縮んだ。
ゴール板まで二十メートル。
二十メートルは、馬の感覚で息をひとつ吸う距離だった。
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僕たちは息を吸った。
吸い込んだ息の中に、いろんな声が混ざっていた。
娘の声。
老婦人の声。
佐伯さんの、迷いから抜けた声。
馬主の、亡くなった夫の頼みごとの声。
借金二千八百万円分の、僕の祈りの声。
全部の声が一回の息の中に入った。
全部の声でふくらんだ肺は、思っていたよりずっと軽かった。
軽かったのは、預けられた声は、預けたぶん、こちらの息を軽くしてくれるからだ。
応援は、そういう仕組みで出来ている。
最後の一完歩。
馬の最後の一完歩は、人間の一歩よりずっと長い。
その長い一完歩のいちばん最後、ふっと地面を蹴った瞬間、僕たちの鼻先がほんのわずかに前に出た。
わずか、というのはハナぶんだった。
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ゴールの瞬間、世界が——
止まった、と書くべきか、抜けた、と書くべきか、戻った、と書くべきか、僕にはまだわからなかった。
わからないまま、馬の中の、僕たちの二つの意識の結ばれた糸が、ふっとほどけた。
ほどけた糸は、それぞれ別の方向に滑り落ちていった。
馬の意識は馬のほうへ。
僕の意識は僕のほうへ。
戻るというのは、こちら側の、ずっと長いあいだ空けっぱなしだった部屋に、明かりがぱちんと一回点くような感覚だった。
明かりが点いた瞬間、僕は最後に、馬の中でナミダの低い声をほんの一拍だけ聞いた。
「お父さん、よろしく」
馬はそう言った。
誰の父親に向けて言ったのか、僕にはわからなかった。
わからないまま、世界は——
(第13話へ続く)




