第11話 応援する側のプロ
応援する側のプロというのは、応援される側のプロよりずっと難しい仕事だ。
応援される側は、走り終われば評価が出る。
応援する側には、評価表がない。
評価表のない仕事を長く続けられる人間は、世界にそれほど多くない。
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[美咲・スタンド]
美咲はスタンドのいちばん下の手すりにつかまったまま、声を出していた。
声を出している、というよりは、声を出していた、という事実を自分でも後から知った、というほうが近かった。
「がんばれ」
「がんばれ、七番」
「がんばれ、お父さんの馬」
お父さんの馬、というのは彼女のいちばん新しい語彙だった。
昨日まで、彼女の語彙にはそれはなかった。
今日ここに来てから、彼女の語彙はひとつだけ増えた。
語彙がひとつ増えるというのは、子どもが世界をひとつだけ拡張する、ということだ。
彼女の隣で、見知らぬおじさんが新聞を丸めて振っていた。
そのおじさんは別の馬を応援していた。
応援している馬の名前は彼女には聞こえなかった。
聞こえないことに彼女はしなかった。
誰かが別の馬を応援しているということは、それでもいい、と彼女は思った。
応援する側のプロは、自分の応援している馬以外を悪く言わない。
彼女はお父さんからそれを習った。
習ったというよりは、お父さんがそういう人だ、ということをただ見ていた。
「お父さんは、応援する側のプロだよね」
二年前、彼女はお父さんにそう言ったことがある。
言ったあとで、お父さんはずいぶん長い間笑った。
笑いながら、ほんの少しだけ目をぬぐった。
目をぬぐう仕草を、彼女は見ていないふりをした。
見ていないふりは、彼女のお父さんへのいちばん最初の優しさだった。
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[矢野・馬の中で声を聞く]
最終直線の半ばで、僕は突然、娘の声を聞いた。
突然、というのは嘘で、それはずっと僕のいちばん奥のほうで流れ続けていた声だった。
流れ続けていた声を、僕は長いあいだ聞かないようにしていた。
聞かないようにすることは、ある時期、僕の生き方のいちばん上のほうに置いてあった。
「お父さん」
声は言った。
「お父さん、がんばれ」
「お父さんの馬」
「お父さんの馬」
お父さんの馬。
その四文字を、僕は馬の中でもう一度噛み砕いた。
噛み砕いたら、口の中にざらりとした、紙の繊維のような、温度のある塊が残った。
塊は、二年分の、僕が出さなかった手紙の紙の再生品だった。
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[夏目静・スタンド後方]
パドックにいた老婦人——夏目静——も、いつのまにかゴール前のスタンドの後ろのほうに移動していた。
帽子を両手で押さえていた。
帽子は夫の遺品の、夏の帽子だった。
帽子の中で、夫の頭の形がまだほんの少し残っている気が、彼女にはしていた。
「あなた」
彼女は心の中で亡き夫に語りかけた。
「あなた、見ていますか」
「あの子、走っています」
「いつもより、ずっとまっすぐ、走っています」
「ねえ、あなた」
風が吹いた。
風は、日高の風と東京競馬場の風の、ちょうど中間くらいのにおいをしていた。
中間のにおいは、夫がいつも最後に嗅いでいたにおいだった。
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[美咲・呼びかけ]
美咲は声を出し続けていた。
声を出すたびに、自分ののどのいちばん低いところが震えた。
震えた低いところは、お父さんの低いところと同じ場所だった。
血というのは、こういうところでようやく役に立つらしい。
「がんばれ」
「がんばれ、お父さん」
「お父さん、お父さん、お父さん」
彼女はいつのまにか、馬の名前ではなくお父さんを呼んでいた。
呼ぶというよりは、呼びかけていた、という方が正確だった。
呼びかけというのは、相手が聞いているかどうかわからないときに、人間がするいちばんばかげた行為で、いちばんまっすぐな行為だ。
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[矢野・全部を聞いている]
馬の中で、僕はぜんぶ聞いていた。
娘の声、老婦人の声、佐伯さんのこちらに伝わる息遣い。
ぜんぶ聞こえていた。
ぜんぶ聞こえているというのは、応援する側のいちばん内側にいる、ということだった。
応援する側のプロは、応援される側になって、はじめて応援のいちばん内側を知る。
二千八百万円分の祈りは、思っていたよりずっとたくさんの声で出来ていた。
借金の連帯保証分も、養育費の遅延分も、印刷会社の倒産分も、ぜんぶ、よく見ると誰かの祈りの引き受け先だった。
引き受け先は、引き受け先のままで生きていく方が楽だった。
ただ、引き受け先は自分のための祈りを長いあいだ忘れさせる。
忘れさせるけど、忘れていなかった人がこちら側にもいた、ということを、僕は馬の中でようやく知った。
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娘が僕の名前を呼んでいた。
名前というよりは、肩書きを呼んでいた。
お父さん、という肩書きを、二年ぶりに聞こえる距離で、彼女はこちらに向かって投げてきた。
投げられた肩書きを、僕は馬の中で両手で受け取った。
両手は馬にはないはずだった。
ないはずなのに、その瞬間だけは、僕にも馬にも両手があった。
(第12話へ続く)




