第14話 応援する側のプロ
人生は、確率じゃなくて、選択肢だ、と僕は長いあいだ、口だけで言い続けてきた。
口だけで言い続けたものは、自分がいちばん信じきれていない言葉である。
信じきれていない言葉を、信じているふりをするのは、けっこう疲れる。
信じているふりをやめると、その言葉はようやく、自分の中にいちばん楽な姿勢で収まる。
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病室のベッドの上で、僕が「馬券、どこ」と訊いた半日後の話だ。
「ああ」
ジャンボはなぜか、自分の上着の内ポケットのファスナーの上をぽんと叩いた。
「俺、忘れてた」
「は?」
「ベンチの下に落ちてた。拾った。お前に返すために」
「なんで、ずっと忘れてたんだ」
「お前が起きるまで、忘れることにしてた」
「忘れることにしてた?」
「忘れることにしてないと、お前を起こす、いちばんいい預かりかたが、出来なかった」
ジャンボは自分の言ってる意味を、自分でも半分は分かっていなかった。
半分分かっていない人間が、半分分かっている人間よりしっかり覚えていることが、たまに世の中にはある。
ジャンボは内ポケットから、しわくちゃの緑の紙を取り出した。
単勝。
七番。
ナミダフクザツ。
1,000,000円。
ゼロが六つ。
六つのゼロは、しわになっていたが減っていなかった。
「お前、ばかだろ」
「ばかだ」
「ばかだろ」
「ほんとに、ばかだ」
僕たちは「ばか」を、しばらくふたりで言い合った。
ばかをふたりで言い合うことを、世の中では友情と呼んでいる。
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数ヶ月が経った。
借金は片付いた。
払戻金、二千八百万円は、神様のけっこう律儀な計算結果だった。
律儀な計算結果から、税金分を引いて、連帯保証分を整理して、養育費の過去分をまとめて振り込んだ。
最後に残ったのは、思っていたよりずっと少なかった。
ずっと少なかったが、ずっと少ないということは、ぜんぶちゃんと片付いたということでもあった。
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ナミダフクザツはその後、二勝追加で上げた。
二勝ともハナ差ではなかった。
体半分くらいの、しっかりした勝ち方だった。
調教師の先生は、馬が別の馬になったみたいだ、と言った。
別の馬にはなっていない。
ようやく、自分の馬になったということだ。
佐伯巧さんは、五十歳のベテラン中堅のまま、相変わらず堅実な騎乗を続けている。
ただ、最近は「行けたら、行きます」と言わなくなった。
「行けるところまで、行きます」と言うようになった。
あの日、ハナ差で勝った瞬間に、鞭のちょうどいい重さを覚えた、ということだろう。
覚えた重さは、もう忘れない。
ジャンボは相変わらず、ジャンボを自称している。
痩せ型のままである。
ただ最近、「俺、本当は痩せ型なんだけどな」とぽつりと言うようになった。
自分の本当の輪郭を、一日だけ本気で痩せて立っていた、あの夜から、彼は覚えている。
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僕と美咲は、月に二度、会うことになった。
元妻——いや、神田真琴さんがそれを許してくれた。
許してくれたのは、二年分の書類のコピーのいちばん深いところに、まだ残っていた何かがあったから、だと思う。
ある日曜日、僕と美咲は東京競馬場にいた。
パドックをふたりで覗き込んだ。
黒鹿毛の、痩せた、目つきの相変わらず悪い馬がいた。
ナミダフクザツだった。
「お父さん」
美咲は言った。
「これ、お父さんの馬?」
「お父さんの馬じゃないよ」
「うそ」
「ほんとうに」
「じゃあ、誰の?」
「夏目さんという、おばあさんの馬」
「ふうん」
「お父さんは、応援していただけ」
「ふうん」
美咲はしばらく馬を見ていた。
見ながら、ぽつりと言った。
「お父さんは、応援する側のプロだもんね」
二年前と同じセリフだった。
二年前と同じセリフなのに、二年前より声がほんの少しだけ低かった。
声が低くなるというのは、子どもが子どもを卒業しはじめている合図だった。
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帰りの電車の中で、美咲は僕の上着の内ポケットを指でつついた。
「お父さん、これ、まだ入ってる?」
「うん」
「見せて」
僕は内ポケットから、よれよれの折り鶴を取り出した。
二年と少し、僕の鞄のいちばん奥の内ポケットで眠っていた、一羽の紙の鶴。
翼の谷の部分のほつれが、二年分深くなっていた。
深くなっていたが、それでもたしかに、鶴の形をしていた。
形をしているというのは、人間のいちばんしぶとい特徴だ。
美咲はそれを両手で受け取った。
受け取って、しばらく眺めた。
眺めたあとで、ふっとこちらに返してきた。
「これ、ずっと、お父さんのポケットに入れておいて」
「うん」
「私が千羽折るまで、それ、頑張って」
「千羽?」
「うん。私が千羽折ったら、お父さんの人生は、ぜんぶちゃんと叶う」
「いまさら、そんなこと信じてんのか」
「信じない」
「信じないのか」
「信じないけどさ、一羽だけなら、信じる気がする」
二年前、僕がジャンボに言った台詞だった。
二年分行ったり来たりしながら、その台詞はようやく、いちばんふさわしい人のところに戻ってきた。
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僕は折り鶴をもう一度、ポケットに入れた。
ポケットの中で、折り鶴は馬券ではなかった。
馬券はもう、ジャンボの上着の内ポケットの中にも、僕の上着の内ポケットの中にもない。
馬券は二千八百万円分の祈りにちゃんと化けて、世界の別のポケットへ行った。
折り鶴だけが、僕のポケットに残った。
折り鶴は馬券よりずっと軽かった。
軽いのに、二千八百万円分の祈りをぜんぶ運んできた紙の強度を、たしかに持っていた。
応援する側のプロというのは、こういう種類の軽さと強度を、両方ポケットに入れて生きていく仕事のことを言う。
(了)




