添え花
それからの日々はイヌマキからすれば、自分が体験したことのないくらいに忙しく、充実した日々だった。カクシノの小道具政策を手伝い、カガリが会場の電子機器に干渉する方法と、それを発生させるタイミングについて話し合った。スズリは密かに誰よりも闘志を燃やしていたため、観客に紛れ、ロクマの怪異化を極致にまで追い込むための演技の習得に努めた。
「そのピンクの粉、何に使うんですか、カクシノさん」
「まあ見ていてくれよ、イチジョウ君。ミツメさんにはもう話したんだけど、当日のお楽しみさ」
「分かったぞ、キュート・リフレクションのようなことをするのだな、カクシノ殿!」
「……なんだいそれは」
「まあ、それはいつかお話します」
「ねえ、あなたってパルクール以外もできるのね」
「失礼な奴だな。機械いじりは昔から好きだったんだ。骨董知識はないが、寄る辺商のホームページとかを作って貢献してるんだ」
「ああいうお店ってホームページ作るの? ひっそりあるのがいいんじゃない」
「今は色々と厳しいんだ。京都で儲けるのは楽じゃない」
「もっとこう、切羽詰まった感じ……。ギャー、みたいな」
「申し訳ありません。私、まだ恥ずかしさを捨てられていませんでした」
「いや、謝らないでください。私も別に、スズリさんが恥ずかしいなら無理にしなくていいと思ってるので。だから別に……」
「キャーーーー!!」
「…………凄いです」
「あら、ヨツツジ様もまで頷いてくださるなんて、光栄です」
「……怖かった」
学園祭の準備というものは、きっとこんな感じなのだろうと、イヌマキは賑やかな談話室をひっそりと俯瞰して思った。
「これで、一通りの準備は整ったな」
「新生寄る辺商のみんながいなかったら、ほんとにどうしてたことやら」
たった数日間の出来事ではあったが、イヌマキの華の無かった高校までの学生生活に、文字通り花を添えてやることができた。
「改めてだけど、本当にこれで良かったの?」
作戦前日、全ての準備が整い全員が岐路に着いた後、ミツメはイヌマキを談話室二に呼び止めた。いつの日か、苦渋の別れを告げた時のように。
「……何がでしょう」
イヌマキは彼女の質問の意味を理解していながらも、意地悪っぽく分からないふりをした。
「生意気になったわね」と笑いながらミツメは言った。
「……まだ踏みとどまれるのよ。逆に言えば、最後のチャンス。あなたが普通の学生でいられる、最後のね」
夜の談話室二はお互い初めてだったようで、全てが昼間とは違っていた。窓から見える学校も、そして明日の主戦場となる学生記念会館も、月に照らされた巨大な古城みたいに聳えていた。
「私が今一番怖いことは、普通の学生に戻れなくなることなんかじゃありません」
イヌマキは続ける。
「ロクマと対峙することでも、奥の院が無くなることでもない……」
一月の冴え渡った空気は、月の光をこれでもかと言うほどに増幅させ、大学を神秘的なまでに照らし出していた。
「真に怖いのは、このまま私が去って、すべて元に戻ってしまうことです」
ミツメは返事をしなかった。イヌマキがまだ言いたいことがあることを悟っていたからかもしれない。少し間を置いて彼女は再び話し出す。
「これまで私は、怖いものから逃げてきた人生でした。人間関係も、学校行事も、アルバイトも、全ては自分が傷つくのが怖かったから避けてきたのです。だからこそ、一歩踏み出す勇気がどれだけ私を変えたか、奥の院での経験がどれほど私を強くしたか、最近になるまで気が付かなかったのです。逃げたら、普通の人生にはなるかもしれない。でも、そうすれば私は、傷つくのを恐れてすぐ逃げる人間になってしまう。そんな自分を捨てるために、私は奥の院で戦い続けるのです」
イヌマキは本心からの言葉を恥じらいも捨てて羅列したのだが、文字に起こしてみるとどうも月並みで面白くない文章である。しかしそれでも、彼女の目の前で瞬き一つせずに聞き入っていたミツメには、確かに響いた。
ミツメはこくりと頷き、談話室の出口へ向かった。あなたも早く帰りなさいとでも言うように、ミツメはイヌマキの背をポンと押してから歩き出す。
「一人じゃないよ。イヌマキちゃん」
晴れ曇りだった夜空が、今や神が天に向けて光矢を放った後のように雲一つない。
「一人じゃない」
その言葉を、一人になってから口に出してみるイヌマキ。
蒼く薄暗い談話室で一人佇む彼女は、だがもう一人ではなかった。




