第三話「恋人」
手紙が来たのは、陽介が残業から帰った夜だった。
玄関のドアを開けて、靴を脱いで、鞄を置いて、コートを脱いだ。それからいつもの習慣で郵便受けを確認した。電気代の請求書。スーパーのチラシ。そして白い封筒。
宛名を見た。
「朝倉陽介様」。
差出人はなかった。でも消印に、長野、と読めた。
胸の奥が、一度だけ、強く動いた。
陽介とはるかは、二年間付き合っていた。
特別な二年間だったとは思っていない。ただ、一緒にいることが自然だった。休日は近所を歩いて、気が向いたら映画を見て、夜ご飯を一緒に食べた。それだけのことが、積み重なっていた。
はるかが消えた日、陽介は仕事だった。
夜に電話をしたら、繋がらなかった。翌朝もかけた。繋がらなかった。昼休みにも。夜にも。
三日目に、はるかのアパートに行った。
表札が、なくなっていた。
封を開けた。
便箋が一枚。
陽介へ
急に連絡が取れなくなってごめん。
ちゃんと説明できなくてごめん。
好きな人ができた。
だから行かなくちゃいけなかった。
幸せになってください。
はるかより
陽介は便箋を持ったまま、台所の椅子に座った。
読んだ。もう一度、読んだ。
好きな人ができた。
その一行を、三回、読んだ。
嘘だ、と思った。
根拠はなかった。でも確信があった。
はるかは嘘が下手だった。誰かの悪口を言う時、目が泳いだ。サプライズを隠している時、声が上ずった。二年間、ずっとそうだった。
手紙は読めない。声も聞こえない。目も見えない。
でも、嘘だと思った。
なぜ嘘をついたのかは、わからなかった。
陽介は便箋を折って、財布の中に入れた。
探しに行こうとは思わなかった。
行かない理由を考えた。住所がない。仕事がある。はるかが望んでいない。理由はいくつも並んだ。
でも本当のことを言えば、怖かった。
見つけて、会って、それでも帰ってこないと言われたら。
その場面を想像すると、足が動かなかった。
だから動かなかった。
それから三ヶ月、陽介はいつも通りに生きた。
朝起きて、会社に行って、仕事をして、帰ってくる。飯を食って、風呂に入って、寝る。休日は洗濯をして、近所を歩いた。
特別なことは、何もなかった。
ただ、財布を開けるたびに、便箋の端が見えた。
白い紙の端が、カードの隙間から少しだけ出ていた。
ある夜、陽介は財布から便箋を取り出した。
折り目がついていた。何度も開いたり閉じたりしたせいで、紙が柔らかくなっていた。
もう一度、読んだ。
好きな人ができた。
その一行の前に、二行ある。
急に連絡が取れなくなってごめん。
ちゃんと説明できなくてごめん。
陽介は、その二行を何度も読んだ。
ごめん、と書いてある。二回。
好きな人ができたなら、ごめんとは書かない気がした。少なくとも、二回は。
でも確かめる方法が、なかった。
便箋を折って、また財布に戻した。
次の日、陽介は仕事の帰りに本屋に寄った。
特に目的はなかった。ただ、まっすぐ家に帰りたくなかった。
文庫本のコーナーを歩いていたら、旅行雑誌のコーナーに長野特集があった。
手が伸びた。
手に取って、パラパラとめくった。山の写真。湖の写真。古い町並みの写真。星空の写真。
長野の夜空は、星がきれいだ、と書いてあった。
陽介はその一行を読んで、雑誌を棚に戻した。
買わなかった。
でも、その写真の星空が、しばらく頭の中に残っていた。
家に帰って、財布をテーブルに置いた。
白い紙の端が、また見えていた。
陽介はそれをそのままにして、電気を消した。
暗い部屋で、少しだけ、長野の星空のことを考えた。
はるかが今夜も見ているのかもしれない空を。
それだけ考えて、目を閉じた。




