2.聖女の涙
結局、朝一番に神殿長の『治癒』を行うことになった。
小さな光が解けた後、聖女エレノアは言った。
「御加減が少しでも良くなりますように、お祈りいたしました」
「おお、誠にありがたいことでございます……聖女様の奇跡を賜れたこと、老い先短い身の励みにいたします」
年老いた神殿長が、聖女の手を握り拝礼した。エレノアは戸惑ったような、けれどもはにかんだ笑みを浮かべている。昨日に比べれば、いくらか顔色は良くなっていた。その背後に静かに控えたアレスティオンは、素知らぬ顔をしていた。
神官長は一体どういう約束を取り付けたのか、出発の荷物はいくらか余分に積み込まれていた。抜け目ないお人だ、とフィリスは半ば呆れつつ感心した。
最初の地方神殿を離れ、さらに大きな街に向かう途中、土地の澱みの浄化と休憩を兼ねて、道沿いに陣を張った。
初めて見る澱みに驚いたのか、エレノアは目を見開き、何度も不安そうに神官長を振り返る。どうやら、澱みに近寄ると気分が悪くなるようで、つらそうに顔を顰めていた。フィリスにとっては、暗くてジメジメした場所だなあ、くらいにしか感じない。これが神力の感受性の違い、というやつなのだろうか。
森の入り口で、聖女が膝をついて祈る。囁くような祝詞はフィリスの元までは聞こえなかったが、暗い森に風が通るのがわかった。聖女のベールが翻り、後ろに立つ神官長の長衣もはためく。立ち込めていた草いきれがさらりと払われ、涼しい風が通り抜けた。
ほっと息を吐いた聖女が立ち上がり、浄化は終わった。
「澱みって初めて見ました」
乾パンとハムだけの食事を齧りながら、エレノアがポツリとこぼした。
「大結界の中には、ほとんどありませんからね」
隣に座ったフィリスが、水を差し出しながら頷く。聞けば、エレノアは王都から出るのすら初めてらしい。彼女の年齢からして、生まれた時には既に大結界があったはずだ。大結界の加護の外で生じる自然の澱みは、さぞかし奇異に映ったのだろう。
パンの塊を水と共にごくりと飲み込んでから、エレノアは尋ねた。
「なぜああいったものができるのでしょう?」
「……さあな、わからん。あえて言うなら、自然の新陳代謝のようなものだろう」
問われたアレスティオンは、肩をすくめた。エレノアは不思議そうに首を傾げた。
「神官長でも、ご存知ないのですか?」
「当たり前だ。流石の私でも、この世の全てを知り得たわけではない」
「そうなんだ……」
あまりにしみじみとつぶやくので、フィリスは微笑ましく思った。彼女にとっての神官長は、随分と万能の存在に見えているらしい。
「理屈は知らんが、放っておくと良くないことくらいはわかるぞ。魔物のほとんどは、澱みから生じるからな」
乾パンの最後の欠片を口に放り込み、神官長は立ち上がる。そろそろ、昼食の時間も終わりが近い。
焦ったように残りのパンを口に詰めようとするエレノアに、フィリスはもう一度水を注いでやった。
「大丈夫ですよ、ゆっくり食べてください。聖女様を置いて行ったりなんてしませんから」
「……!」
エレノアが、目を白黒させながらこくこく、と頷く。フィリスは、さりげなく尋ねた。
「そういえば、御加減はいかがですか? 澱みに近づくのが随分と辛そうでした」
エレノアは、首を振った。もぐもぐと口の中身を咀嚼して飲み込むと、にこりと笑った。
「もう浄化できましたから、大丈夫です」
「そうですか」
なんとなく無理をしているような気もしたが、フィリスは深く問わなかった。せっかく彼女が気丈に振る舞っているのだ。それを無下にするのも気が引けた。
次の街に近づくにつれ、草地の多かった景色は次第に華やかに変わっていった。遠くまで花畑が広がる光景にエレノアは一気に顔を輝かせた。色とりどりの花は夏の日差しによく映えた。
「すごい……!」
窓から身を乗り出しかけたエレノアは、馬車に並ぶフィリスをチラと見て、恥ずかしそうに座り直した。フィリスは、窓から景色がよく見えるように、少しだけ馬の歩みを緩める。
「あれは全部養蜂場だ。このあたりの特産品だからな」
アレスティオンが、そっけなく言った。
「そうなんですね」
相槌を打つエレノアの視線は、窓の外に注がれ続けた。
馬車が領主の屋敷に着いたのは、その日の夕方であった。この街での滞在の間、神官長や聖女は客間を借りることになっているのだ。広大な敷地に建つ、小さな神殿がすっぽりと収まりそうな立派な屋敷に着いた途端、エレノアは目を丸くしていた。領主から歓待され、屋敷の中を案内される間中、神殿の中とは大違いの豪華な滞在場所にすっかり縮こまっていた。
その日の夕食は、領主の同席するこれまた豪華な食事会だった。もちろんフィリスは護衛として侍るだけなのだが、目にも鮮やかな食事を見るだけでワクワクした。何より、主賓の夕食が終わったあと、護衛騎士達にも用意があるとのことだったので、益々楽しみであった。
夕食の席では、銘品らしきワインを神官長が褒めそやしながら、少しの遠慮もない速度で飲んでいた。さらには二本目を要求していたので、全く図太い人だとフィリスは呆れた。とはいえ、聖女に対し個人的な相談などを持ちかけられそうになる度にやんわり跳ね除ける手腕は、相変わらず鋭い。こういうところは頼もしいのだけどなぁ、とフィリスは思った。
翌日からは巡礼仕事も本格化した。この街の神殿の祝福と治癒、さらには神殿騎士達の討伐用武具の聖別も行った。朝からやけに頭の痛そうな神官長は自業自得として、フィリスはエレノアの様子が気がかりだった。一つ儀式が終わるたびに、顔色が悪くなっていった。夕方ごろには受け答えもぼんやりとした様子だった。
「代役」たる彼女が聖女の力を使う仕組みについて、未だフィリスは正確に理解できていない。だが、神官長から力を受け渡される形だとしても、神力の行使における当人の疲弊は免れないらしかった。
聖女様が朝から青ざめて食事も召し上がらない、という女神官からの報告がアレスティオンの元に入ったのは、翌日の昼前になってからのことだった。
すぐさま見舞いに行く神官長に、フィリスも随伴した。
部屋に入ると、エレノアは寝台の上にいた。ちょうど医務官から診察を受けているところらしかった。
「調子が良くないと聞いたが」
「あの、申し訳ありません、神官長」
萎縮し切ったエレノアが、小さな声で謝罪する。
「謝罪はいい。回復までどのくらいかかる?」
「えっ、と」
戸惑ったエレノアの代わりに、医務官が口を開く。
「慣れない場所で、お疲れが出たのでしょう。一晩ほどおやすみになれば、良くなるかと」
そうか、と神官長は頷く。
「今夜の会食は、聖女様は欠席すると伝えておく。しっかり休むように」
「は、はい……あの、申し訳……」
「謝罪はいい」
アレスティオンは、再び手を挙げて遮った。エレノアは俯いた。
「明日は森の魔除けと西神殿の訪問がある。この二つはできる限り予定を繰り下げたくない。いけるか?」
「は、い」
「澱みは三箇所、まぁ急げば午前中には回れるとして、最低限の浄化で今回は済ませるか。街中の巡礼式は……短縮するか。時間を繰り下げても夕方までに神殿に入れば建物の祝福と怪我人の治療の時間くらいはあるだろう。会食は……もう一度やっていることだし、これ以上は領主殿には諦めていただくか。説得には骨が折れるぞ、あれは……。あと明後日以降に遅らせていいものは……」
予定表をめくり、アレスティオンがぶつぶつと呟くあいだ、エレノアは俯いたまま肩を落としていた。
「……神官長」
フィリスが横から囁く。
「何だ。いま組み直しを考えて……」
「神官長」
再びフィリスに呼ばれてようやく顔を上げたアレスティオンは、ギョッとした。
俯いたエレノアが、ぎゅうっとシーツを握っていた。その拳の上に、ポタポタと雫が落ちている。
「……泣いてるのか」
「す、すみませ、私……ごめん、なさ……」
「泣く必要はない。体調を整えるのを優先しろ」
「神官長」
また、フィリスが囁く。今度はいくらか咎めるような響きがあった。ごめんなさい、とエレノアが繰り返し、ますます雫が落ちた。
「あー、その、なんだ」
咳払いし、予定表を畳むと、アレスティオンは一歩下がった。
「今夜は良く休み、明日に備えなさい」
それだけ言うと、返事も待たずくるりと身を翻し、退室する。慌ててフィリスは後を追った。
神官長が随分と早足で進むものだから、フィリスは少し小走りにならなければいけなかった。
「神官長」
「——明日の予定はなしだ」
歩きながら、目も合わせずにアレスティオンは言った。
「えっ?」
「明日の予定は、全て白紙にする」
「……いいのですか?」
「良くはない。良くはないが、仕方ない。何とかする」
あてがわれた客間の前に立ち止まり、それからアレスティオンはフィリスを振り返った。
「明日の朝、聖女様の調子が良くなっていたら、フィリス、貴殿に聖女様を任せる」
「えっ? 自分ですか?」
「まずは、一日休みだと伝えろ。それから、あー、その、そうだな、適当に気晴らしにでも連れ出せ」
「はあ、わかりました。でもいいのですか?」
「……いいも何も、他に思いつかない」
アレスティオンは渋面のままだったが、その声色は途方に暮れているようにも聞こえた。フィリスは神妙に頷く。
「わかりました、お任せください」
「ああ……頼む」
神官長らしからぬ、なんとも素直な返事だった。




