3.息抜き
翌日、昼には少し早い頃、フィリスは屋敷の玄関先で、エレノアを待っていた。
程なくして現れたエレノアは、いつもと違い、一般的な神官見習いの格好をしている。不安そうな顔で、白地の頭巾の裾を引っ張っている姿は、本当に幼い子どもに見えた。
フィリスも、甲冑を脱いで、最低限の革の装備だけである。帯剣こそしているが、いつもよりずっと軽装だった。
「御加減はいかがですか?」
「はい、昨日休息をいただいたおかげで、すっかり良くなりました」
「それは良かった」
良くなった、という割には覇気のない表情だったが、無理もないと思い、フィリスは深くは聞かなかった。
「それじゃあ、行きますか」
「はい」
エレノアは、頷く。それから困った顔でフィリスを見上げた。
「あの、一体どこに……?」
「行きたいところ、ありますか?」
エレノアは、首を振って俯いた。
「ごめんなさい、何も思いつかなくて」
「大丈夫ですよ。そうだ、この街にはかなり大きな市場があると聞きましたから、そこに行きませんか?」
「……はい、それでいいです」
エレノアがますますベールを強く握る。了承の言葉とは裏腹に不安が増したように見えた。
行きの馬車の中で、エレノアは始終落ち着かなそうに窓の外を見たり、モゾモゾと座り直したりを繰り返していた。それでも街の活気が近づいてくると、景色にわずかに目を見張った。
市場の近く、少し人通りの少ない場所に降りたエレノアは、ぼんやりと辺りを眺めていた。そうしていると、まさしく知らない街で迷子になっている子供のようであった。
「何を見ましょうか?」
「ええ……その……、なんでも」
「気になるものはありますか?」
エレノアは、静かに首を振った。
少し歩いてみましょうか、とフィリスは促した。エレノアは、素直に後をついてくる。
露店の並ぶ繁華街を、人の流れに乗るように歩く。「神官のお嬢ちゃん」と呼び込みに声をかけられるたびにエレノアはびくりと肩を揺らし、フィリスの陰に隠れるようにする。
何度目かの声掛けで、フィリスは試しに聞いてみた。
「……ねぇ、一つ買ってみますか?」
「……あ、いいえ……」
エレノアが、また首を振る。フィリスは、少し考えたあとにこりと笑いかけた。
「自分が買いたいので、良ければおひとつ付き合ってくださいませんか?」
フィリスの言葉に、エレノアはおずおずと頷いた。
鶏肉と香草の串焼きを渡されたエレノアは、しげしげと手の中を見たあと、隣のフィリスに倣って恐る恐る齧り付いた。フィリスが一串食べる間に、エレノアはようやく一欠片を口にする。
「お口に合いませんか?」
焼きたての熱い塊にびっくりした顔で、上品に口を抑えたエレノアは一生懸命に首を振った。
「……あの、食べたこと、ない味です」
ようやく口の中身を飲み込んで、エレノアは言った。
「俺も、この香草焼きは初めてです」
にこりと笑って、フィリスは次の串に齧り付いた。
それから二人は、あちらこちらの露店にどんどん足を運んだ。大きな市場には、王都では見ないようなものがたくさんあった。食べ物や飲み物、装飾品に日用品、生き物を丸ごと売っている店や、何やら用途のわからない怪しい物を置いている店、果ては武具を扱う店まであった。フィリスはほとんど迷わず食べ物の露店に向かい、どの店でも目を輝かせては二人分……よりも多くを買い込み、一つを必ずエレノアに渡した。甘く煮た豆のスープ、山羊バターの白パン、蜂蜜に漬けた鶏肉の塩焼き、柑橘の絞り果汁、平パンに薄切り肉と焼き野菜を挟んだもの……。
「あの、あの!」
エレノアが、困惑しきった顔で声を上げた。両手には平パンと塩焼きを持ったままで、どちらも手をつけられていない。
「私、あの、もうお腹いっぱいで……!」
「ええっ?!」
川魚の香草焼きを買おうとしていたフィリスが、振り返った。
「そんな、遠慮なさらず」
「ち、違います!」
ブンブンと首を振るエレノアとフィリスのやりとりを見ていた店主が苦笑した。
「兄さん、騎士団の人だろう? あんたに付き合ってたら、あんなちっこい妹さんはあっという間に腹一杯になるだろうさ」
「あ、そうか……」
しまった、と顔に出してフィリスが肩を落とした。
フィリスが、エレノアから平パンと塩焼きを受けとる。両手の空いたエレノアはようやくほっとした顔になった。
二人は、炭焼き店の脇にあるベンチに腰掛け、揃ってしょんぼりと肩を落とした。
「すみません、気が利かずに……」
「いえ、私こそ、全部食べられなくてごめんなさい」
パチパチとはぜる音と炭のいい匂いの中、互いに謝罪し合ってため息をつく。フィリスはエレノアから預かったパンや塩焼きを、落ち込んだ顔のままもぐもぐと食べ始める。手持ち無沙汰になったエレノアは、食べ続けるフィリスを見ながら、ゆらゆらと足を揺らした。
その時、露店の店主がフィリスに向かって焼きたての川魚を渡した。
「ほれ、兄さん。焼きたてだよ」
「ありがとうございます」
串焼きを二本も受け取るフィリスを見て、エレノアは目を丸くした。
「フィリスは……その、たくさん食べるんですね」
「はい、あの、すみません、俺ばかり……」
フィリスは、恥ずかしそうに縮こまった。
「いえ、あの、楽しかったです。いろんな食べ物があって、初めて食べるものばかりで」
エレノアがにこりと笑った。
「そうなんです、俺も普段あまり食べないものばかりで、楽しくて!」
フィリスがはしゃいだような声を出し、それからエレノアに尋ねた。
「気に入ったものはありましたか?」
「えっと、山羊のパンと、ジュース……」
「じゃあもう一度買いに」
「いえ! もう! 本当に!」
「あ、すみません……」
エレノアが必死にブンブンと首を振る。フィリスは、再びしょんぼりと眉を下げて、魚を齧った。
焼き魚がスルスルと消えていくのをしばらく眺めていたエレノアは、ポツリと呟いた。
「……果物を絞って果汁を売ってるお店、昔、ずっと見てたことがあります」
揺れていたエレノアの足が、はたと止まった。
「怒られないギリギリまで近寄って、いい匂いを嗅いで、それだけで、その日はすごく良い気分になれて、本当に大好きだったんです」
「……ああ、わかります。いい匂いのする露店、俺も大好きでした」
フィリスは笑顔を向け、それから神妙な表情を浮かべた。
「でも、すごくいい匂いなんですけど、余計にお腹空きませんでしたか?」
ふふ、とエレノアは笑って頷き返した。フィリスは、コソコソと耳打ちした。
「……実は俺、あんまり大きな音で腹が鳴るので、追い払われたことあります」
「……!」
驚き、咄嗟に両手で口を押さえたエレノアは、小さく肩を振るわせた。けれどとうとう我慢しきれなくなって、声を上げて笑った。
帰り道、馬車の中でエレノアは言った。
「私、今日初めて露店のジュースを飲みました」
ボソボソと、エレノアは続けた。
「お屋敷でも、とっても美味しい果汁の蜂蜜割りが出ました。すごく甘くて、濃くって、もったいないくらい美味しかった。でも、今日飲んだのはずっと薄くて、お水みたいで、だけどとっても優しくていい香りがして……暑かったから、一気に飲んじゃいました」
エレノアは、照れくさそうにはにかんだ。
「ずっと、どんなだろうって思ってたんです。だから、ああ、こんな味だったんだって……」
フィリスは、静かに微笑んだ。
「また買いに行きましょう」
エレノアはしっかりと頷いた。
その日の晩、今夜も聖女様はお夕食をほとんど召し上がらなくて、と心配そうな女官達の話を聞いて、フィリスは申し訳なさで縮こまった。




