4.神官長の心配
その日の夜、すっかり意味を成さなくなった予定表を前に、アレスティオンは眉間の皺を指で押さえていた。
午後の早いうちはまだいくらか組み直しができていたのだ。だが、あと一息というところで、次の巡礼地への途中にある橋が崩落したという報告を受けた。もはや予定どころではない。
客間の机に置いた灯籠の光が揺らぐ。アレスティオンは幾つもの取り消し線が引かれた紙を睨みつけた。火がちらつくせいか、次第に文字すら霞んで見えてくる。とうとう、アレスティオンは机の上に羽根ペンを放り投げてしまった。紙に少しばかりインクが散ったが、もはやどうでも良かった。
ちょうどその時、入室の許可を求めるフィリスの声がした。アレスティオンは、腕を組んだままぶっきらぼうに応じた。
「……聖女様は、随分と顔色が良くなられた。良くやった」
入室したフィリスが口を開くより前に、目を合わせないままアレスティオンは言った。フィリスは破顔した。
「お役に立てて光栄です」
「しかし、今夜の夕食はほとんど召し上がらなかったようだ」
「あっ」
じろり、とフィリスを睨むと、バツが悪そうな顔で肩を落としているところだった。
「聖女様は、昼間に食べすぎたのだと仰っていたが。貴殿、いったいどんな気晴らしをしたのだ?」
「はい、露店で、買い食いを」
「買い食い?」
「食べ歩きというか、出店で買ったものを食べながら、こう他の店を回るというか……」
何だそれは、とアレスティオンは呆れた表情を浮かべた。
「食べながら歩き回るのか。随分とまぁ、行儀の悪い遊びだな。それだけか?」
「はい。えーと、ちょっと自分が楽しくなってしまって……その、買いすぎて……」
「楽しかったのか……いや、なぜ貴殿が楽しくなっている? 聖女様のための気晴らしだぞ」
「すみません」
フィリスが、ますます縮こまる。いつもの甲冑がないせいで、余計に小さく見える。騎士団随一の実力者、などという評判からは程遠い、間抜けな姿だ。眺めていると、ささくれた気分が多少落ち着いてくるのだから不思議なものだ。アレスティオンは、ふん、と鼻で笑った。
「……まぁいい、聖女様は随分とお元気になられた。明日の巡礼は……まぁ全てが予定通りとはいかないが、いくらかは片付けられるだろう」
途端にほっとするフィリスの顔を、アレスティオンはじっと見た。
「なんですか?」
「いや、ときに貴殿は……少し、その、あー、……自覚がないのか?」
「……え? あっ、はい、そのう、自分に付き合わせてしまって、聖女様がお小さい方だとすっかり忘れて。大変申し訳なかったです……」
「……そうではない」
思い出すのは、屋敷に戻った聖女のあまりに年相応な笑顔だった。フィリスに嬉しそうに話しかけ、フィリスもまた、優しく微笑んで頷いていた。まるで年の離れた兄弟のようでもあった。
エレノアが元気になったことに安堵したのは、紛れもなく本心だ。だが、朗らかな笑みを浮かべるフィリスを見ているうちに、言葉にできない重いものがアレスティオンの胸に沈み込んでいった。
確かにフィリスは、良くやった。だがやり過ぎではないか? 楽しい場所に連れ出してもらって、優しくされて、あんな風に微笑まれて、果たして幼い少女はどう思うか。まだ憧れと恋心の区別もつかないような幼子だ……そこまで考えたところで、アレスティオンは急に不可解な焦りを感じた。
——何を考えてる? そんなこと起きるわけ……いや、しかしあのフィリスは……
——待て、そもそもあの子はまだ十三歳だ。そういうのは早……いや、でも十三歳……いやいや早いに決まっている!
疲れ切った頭では、明後日の方向へすっ飛んでいく思考を止められない。焦燥はどんどん膨らむ一方だ。神官長は、とにかくフィリスに釘を刺すべきだと思い直した。
「時に、聖女様はいとけない身であらせられる、と言ったのを忘れてないだろうな」
「はい、もちろん」
フィリスは、突然の話題転換にキョトンとしたが、すぐに頷く。
「いいか、思わせぶりな態度をとるんじゃないぞ」
「……? はい……?」
フィリスは素直に返事をした。だが、その顔を見れば頭の中に疑問符が大量に浮かんでいるのは明らかだった。
——こいつ、鋭い時と鈍い時の差が極端だな。
神官長は苛立たしげに足を組み直し、けれどそれ以上言っても無駄だと言葉を飲み込んだ。何より、このモヤモヤした焦りが何なのか、アレスティオンにも掴めていなかったのだ。
二人の間に沈黙が流れた。灯籠の中で、蝋燭の芯がジリジリと燃える音がやけに耳につく。わずかに開いた窓からは、夜風が緩やかに吹き込んでいた。
報告すべき事は言い終えたというのに、まだ何か言いたげにフィリスが立ちすくんでいる。珍しいこともある、とアレスティオンは思った。フィリスは、言いたいことをほとんど隠さない……口で言わずとも結局顔に出るのだ。それがこうして、言いにくそうに口籠っている。言うべきだと思った時はアレスティオン相手でも臆せず非難するような男が。
「あの、神官長」
しばらくして、フィリスは意を決したように口を開く。
「エレノア様……聖女様に、今のお役目は重荷過ぎるのではないでしょうか」
アレスティオンは、ジロリとフィリスを睨んだ。
「何が言いたい?」
「ええと」
フィリスは、言葉を探しながら答えた。
「聖女様を、その、普通の子どもに戻してあげることは、できないのでしょうか?」
「……何を言うかと思えば」
ため息をついて、アレスティオンは腕を組んだ。だが内心では納得していた。今日一日で、この護衛騎士はいっそう聖女に心を寄せたらしい。元より、子どもを利用していると真っ向から非難された事もあるのだ。フィリスがその考えに至るのは当然の帰結というものだ。昨日、聖女を任せた時から、薄々ながらこうなる気はしていた。
「——そんなことは不可能だ」
アレスティオンは、あえて冷たく言い放った。尚も言い募ろうとしたフィリスを視線だけで制し、続ける。
「聖女となって、既に半年近い。新年の儀式で貴族連中に顔見せもした。日々神殿や王都での儀式にも出席なさっている」
淡々と、アレスティオンは事実を積み上げた。
「巡礼も始まっており、より多くの人々に顔を知られた。今更戻せるわけがない」
「ですが、王都の外なら、まだ……」
「では、誰も彼女を知らない辺境に放り出すのか? 我々の庇護の届かぬ場所に」
「あ、それは……」
フィリスが、ハッと気づいた顔になった。アレスティオンは続けた。
「仮に地方の、小さな神殿で神官として暮らすとする。数日、あるいは数週間なら、安寧な暮らしができるだろう。だが噂はすぐに広まるものだ。第一、『元聖女』などという肩書きを貴族連中が放っておくはずもない」
「……」
フィリスは俯いた。こちらの懸念するものが理解できたのだろう。自分が叱られた時よりも落ち込んだ顔をしながら、フィリスは素直に頭を下げた。
「申し訳ありません、差し出口をききました」
「……わかったなら、いい」
ふい、とアレスティオンは視線をそらした。苦い顔だった。




