1.初めての巡礼
今年の聖女巡礼は、例年通り初夏の頃に出発する。期間は二ヶ月ほどである。
神殿の敷地内でも、倉庫から引き出された荷馬車の数が日に日に増えている。荷運びの雇人が出入りしたり、神官たちが積み込みしている姿を頻繁に見かけるようになった。
いつもより騒がしく活気ある敷地内を、フィリスは今日も神官長の元へ急ぐ。
襲撃での怪我はすっかりと良くなり、少しばかり鈍っていた体も調子を取り戻した。むしろ、またいつ襲われても対処できるように、基礎練に加えて対人戦への取り組みを増やした……増やそうとした。
ただ、襲撃犯とはいえ同僚である護衛騎士を切り伏せたフィリスと対戦してくれる人は、随分と減ってしまった。毎度打ち合っていた騎士団長からは、『これ以上は付き合いきれん。いっそのこと、他の騎士の底上げを手伝え』と指南役を押し付けられるようになった。結局、個人的な訓練時間はかえって少なくなった。
それでなくても、神官長の専属護衛は忙しい。夜勤自体は交代があるとはいえ、夜遅くまで拘束される日も増えた。今日もフィリスは、寝静まった神殿の中、大量の地図を抱えてアレスティオンの後をついて歩く。
「さて、巡礼が始まると二ヶ月もの間大結界の保守ができん。堅牢にしておくほかない」
前を歩くアレスティオンはいつものように眉間に皺を寄せている。
「この時ばかりは、大聖女の力が羨ましい。あいつは年初の儀式で『良きように』して、それで終わりだからな。まったく、なぜ私ばかり……」
ぶつぶつと愚痴るアレスティオンに苦笑しながら、フィリスは話題を変えた。
「ところで、今年の巡礼はどちらまで?」
「西だ」
大神殿の扉を開けながら、神官長が答えた。がらんとした大神殿の中は、天井近くの明かり取りから入るわずかな夜の光に照らされ、暗く静かに、そしてひんやりとしていた。
「西方はここ数年横槍が入ったりで後回しにせざるを得なかった。平地が多く比較的魔物の報告も少ないから許容していたが、今年は流石に無視はできん。ようやく回れるというわけだ」
荒れてないと良いが、と少し懸念を滲ませながら神官長は言った。
どこにどのように巡礼に行くか、決定までのややこしいやりとりは、護衛騎士に就任してからの短い期間でも嫌というほど見てきた。順序、滞在地、滞在期間、何もかもが地方貴族と中央貴族の繊細な綱引きに振り回される。その上に神殿側も一枚岩ではなく、地方神殿の規模や寄進の量、派閥内有力者の在籍の有無などで、こちらもまた、じわりじわりと駆け引きが起きる。フィリスは、そういった会議に連れられた時は途中から頭を無にして、できる限り聞かないことにしている。どのみち発言権もないただの護衛である。何も困りはしない。
ただ、神官長までもが険しい表情をしながら時々目を泳がせているのも見て取れた。どうやら似たような心境らしい。
さて、大結界の補修をしながら、アレスティオンは難しい顔で結界を操作していた。
「結界を強くし過ぎると、今度は人が入れなくなるのが困りものだ」
「へぇ……そうなんですね」
強ければ強いほどいいわけではないらしい。それが、細かく調整しなければいけない理由なのだろう。フィリスは、改めて神官長の苦労を思った。
「まぁ、このくらいまでなら強めても大丈夫だろう。人によっては通行で気分が悪くなるかもしれんが、背に腹はかえられん」
むしろ、とアレスティオンはあまり良くない顔で笑う。「これで気分が悪くなるならば、すなわち神力に対する感受性が高いということになる」
「ああ、なるほど」
「聖女候補の選抜も捗るというものだ! 二ヶ月後の通行記録が楽しみだな!」
「……そうですか」
次代探しというのは、フィリスが思うより地道で、なりふり構わないものらしかった。
いよいよ、巡礼の朝が来た。
王都の中央神殿から、隊列が静かに出発した。朝早くというのにちらほらと見送りの住人たちが手を振る中、街中を抜けて行く。
正門から出て少し行った先が、大結界の境目である。と言っても、目には見えないのだが。
「これより、大結界の外へ出る!」
先頭で、騎士団長が声を張るのが聞こえた。フィリスはなんとなく姿勢を正した。
外に出るのは、討伐隊として遠征して以来である。各地の澱みとそこに発生する魔物の駆除が任務の討伐隊は、年に数回組織され派遣されるのだ。神殿騎士になる前、フィリスは積極的に討伐隊に参加していた。久々に見る王都の外に、フィリスは懐かしさを感じた。
隊列が見えない大結界を潜る。何が変わったかフィリスにはわからない。ただ、ここからは守られていない場所だ。そう思うと、手綱を握る手に自然と力が籠る。
そういえば、人によっては気分が悪くなるのだと言っていた。二人は大丈夫だろうか。フィリスは馬車をチラッと見た。だが、おそらくは二人とも深く腰掛けているのだろう、窓枠の影に隠れてよく見えなかった。
神官長と聖女の乗る馬車の少し後ろに控えるように馬を歩ませながら、フィリスは周囲に静かに目を配る。
農地の広がる街道沿いは、夏の青々とした景色が広がっている。農作業をしている人々が、隊列に気づいて顔を上げるのが見えた。中には大きく手を振る子どもたちもいて、フィリスは思わず振り返しそうになるのを抑え、一層背筋を伸ばすに留めた。
最初の巡礼先は、王都に最も近い街、その神殿であった。
街中に入った途端、大きなざわめきと賑わいが起きた。今代の聖女を一目見ようと、人々が沿道に押しかけていた。神殿までの道すがら、硬い顔の聖女がそっと窓から手を振ると、それだけで歓声が上がる。また、聖女の隣にいる神官長が、あまり見たことのないような優しげな表情で手を振ると、黄色い悲鳴がそこかしこで上がった。そういう顔もできるのか、とフィリスは感心した。眉間の皺は固定されているのだとばかり思っていたが、違ったらしい。ただ、『女神官を惑わす言動』とやらの一端を見た気がした。
神殿に着いた一行は、早速儀式の準備を整える。王都の小神殿ほどの建物は古く、けれどよく手入れされて清潔だった。
神殿の中央祭壇に向かい、聖女が立つ。その後ろには神官長が。
「あまねく注ぐ天の光、慈悲深き神よ」
新年に聞いたのと同じ、細く高い声が響く。
「これよりこの地に巣食う悪しき物を遠ざけ、祓い清め賜え」
聖女の足元がほんの少し光る。柔らかな光は、神殿の床に吸い込まれるように消えていく。それから、フィリスはかすかに頬を撫でるように空気が揺らぐのを感じた。窓から吹き込んだかのように、清らかな風が神殿の中を通っていく。新年の儀式のような派手さはない。だが、確かに神秘のひとひらを身に受けて、フィリスは静かに感嘆した。
神殿の『祝福』の儀が終わった後も、聖女の仕事は後を絶たない。怪我人への治癒の奇跡は重病人に限るとあらかじめ通達されているにもかかわらず、治療院はごった返していた。病人たちを数人ずつに区切って治癒を施しながらも、次第に聖女の顔色が悪くなっていくのがフィリスにも見えた。
「——本日は、ここまでにいたしましょう。これ以上は聖女様のお体に障ります」
穏やかに、しかし有無をいわせぬ強さで神官長が言い切ったのは、元より予定していた人数を少し超えたあたりであった。途端に落胆の声が次々に上がった。フィリスは、人々の前に立ち塞がるように位置を変える。その間に聖女を連れて、神官長は宿泊棟へ向かった。
戻りすがら、神殿の重鎮から『個人的な治療』を頼まれるのを神官長が微笑みながら遮った。
「聖女様はお疲れでございます」
「しかし、神殿長様は此度の巡礼を誠に心待ちにして……」
「治癒の人数が多すぎましたな。元々お聞きしていた数で収まったのなら、いくらか余力もありましたでしょうに……残念でなりません」
「しかし、しかしですな」
「どうぞ、ご寛恕願います。今代聖女は、幼い身ながらも精一杯お勤めくださったのです」
——巡礼が始まってからもこの手の駆け引きが続くのか
後ろを歩きながら、フィリスはいよいようんざりしてきた。よくもまぁ神官長は笑顔でいなせるものだ、と感心していたが、よくよくその顔を見るとそろそろ眉間の皺が復活しつつあった。
——おや、まずそうだ
フィリスが目を瞬かせる。それと同時にあてがわれた客間に着いたのは、幸いだった……誰にとってかわからないが。




