2.神官長の秘密
「あまねく注ぐ天の光、慈悲深き神よ」
——聖女が口にするはずの祝詞が響く。低い声で。フィリスは目を見張った。神官長アレスティオンが、割れた床の上に膝をつき、ぐったりとした聖女を片手に抱えている。もう一方の手を、煌々と光を放つ陣の端に添えた。
アレスティオンが再び口を開く。続く言葉は、祝詞らしからぬ指示だった。
「聖女に与えた力を私に移動させろ、残らず。大地に注いだ力を注いだ分だけ減らせ。割れた大地の穴を元に戻して、床のひび割れを閉じる、ヒビはつなぎ合わせ、材質は変えず、元通りに。そうだ、今日の朝と同じに、床を、土地を、草木を、何も起きなかったかのように」
誰かと会話するように話し続けるアレスティオンの手元から光が消えた。伝播するように陣の光も収束し、時間を戻すように草木は地面に吸い込まれ、ひび割れた瓦礫が繋がっていく。
地鳴りがおさまった時、儀式の前に巻き戻ったような大神殿の中で、アレスティオンが大きくため息をついて肩を落とした。汗を拭うのも忘れているらしかった。
「あぁ、全く……この娘も限界か……?」
わずかなヒビすら残さず綺麗に修復された床を、アレスティオンは見つめた。
フィリスは、動けなかった。神聖なものを見てしまった、神秘の力を。静かに視線を落とした神官長の横顔から、目が離せない。聖女を腕に抱き、神殿の中央で魔法陣に手を添えた姿は、荘厳な絵画のようだった。
息をする音すら不敬な気がして、フィリスは必死で呼吸をひそめた。けれど、ごくりと唾を飲む音は、止められなかった。
ハッとアレスティオンが顔を上げる。フィリスはびくりと肩を震わせた。神聖な空気を邪魔してしまった、美しい空間を壊してしまったような申し訳なさに襲われた。
「…………」
「……」
互いに無言で見つめ合った。アレスティオンの顔がみるみる険しくなる。
「…………見たな」
返事もできず、フィリスはコクコクとうなづいた。嘘はつけない。そんな雰囲気だった。
アレスティオンは、険しくなる眉間を抑えるようにしながら、低く唸った。
「今のは違うぞ」
「……」
「応急処置として仕方なくだな」
「……」
「そういうんじゃない、私じゃないぞ」
「……」
「決して、聖女の力では……」
「……」
ひたすらに無言のままのフィリスの前で、神官長は勝手にあれこれと喋り続けた。そうして自ら墓穴を掘り続けていると気付いたのだろう、とうとう目を伏せ、額を手で覆って項垂れた。
「……なぜ、お前は逃げていない」
「……あ、の……」
カラカラに乾いた口を無理矢理に動かして、かろうじてフィリスは答えた。
「自分は、神官長の、護衛騎士なので……」
「真面目もここまでいくと馬鹿だな」
辛辣に吐き捨てられ、フィリスはウッと肩をすくめた。
ぐったりした聖女の体を抱えて、アレスティオンは立ち上がった。
ついてこい、と短く告げる神官長の背中を、フィリスは慌てて追いかけた。
夕刻、神官長の執務室にフィリスは居た。
「知られたからには帰すわけにはいかん。貴殿には悪いが、生涯ここで働いてもらうぞ」
神官長が、恐ろしく凄んだ顔で、重々しく言った。
「あっはい」
しかしフィリスはきょとんとした。それから、気まずそうにおずおずと口を開く。
「あの、自分は最初からそのつもりなので……」
「何?」
「自分は平民の出なので、他の騎士のような仕官先もありません」
「……」
「元より帰る家もない身なので、生涯神殿にお勤めさせていただけるとなれば、この上ない喜びです。ありがとうございます」
「……そうか」
神官長は毒気を抜かれてしまったのか、所在なさげに首の後ろを触っていた。それから気を取り直して再び口を開いた。
「とにかくだ、誰にもいうな、さっきのことは」
「はい、もちろんです」
「私が聖女の力を持っていることもだ」
「えっ?!」
フィリスは驚いた。
「さきほどの奇跡は、聖女の力だったんですか?!」
「……」
アレスティオンが額を抑えるのにも気づかないくらいに、フィリスは動揺していた。
「神官長が聖女の力をお持ちなのですか? えっでも今代の聖女様は……あれ? じゃあ、あの聖女様は一体……」
「……」
これ以上の失言をすまいとするかのように神官長は口元を覆って目を逸らす。それが後ろめたさを誤魔化しているようにも見えて、フィリスは急に悪い想像が走った。
「まさかとは思いますが、代役としてあの子を利用しておられるのですか?!」
「……そうだ、と言ったら?」
観念したように神官長が呻く。あるいは挑発するように。
「なぜそんなことを?! 子供を利用するなんて」
「ふん、私とて好きでやってるわけではない」
アレスティオンは、開き直ったように腕組みした。
「大聖女様の退位以来、我々は必死で聖女たりえる器を持つ人間を探してはどうにか立てている。それを貴殿らのような神殿騎士や貴族連中が、やれ伝統だの色恋沙汰だのと愚かな事をぬかしては連れ去っているのではないか! おかげでほんの小娘くらいしか残っていないのは誰のせいだ?」
「……そ、それは……」
皮肉げに口端を上げるアレスティオンに、反論の言葉を思いつかずフィリスは俯いた。
ふと、フィリスは気づいた。アレスティオンが今の神官長に就いたのは大聖女の退位と同じ頃だ。その時以来、神官長は聖女の管理をより厳しくするといい、聖女候補の選抜に深く関わり、また選ばれた聖女には必ず付き添うようになったのだという。これもまた彼にまつわる黒い噂——神殿に都合の良い娘を聖女に仕立てている、という——の一つだ。そして、大聖女様がお下がりになって以降、在位の短い聖女がずっと続いている。けれども大結界は一度も失われていない。皆、大聖女様には遠く及ばない力の持ち主だったというのに。だが、もし……そのころから聖女たちは『代役』なのだとしたら……。
「……神官長は、いつから聖女の力をお持ちだったのですか……?」
「……」
神官長が、ぐっと唇を引き結ぶ。それが答えのようなものだった。フィリスは驚愕した。代替わりの激しい聖女、過剰なまでに聖女に関わる神官長、大聖女様の退位以降も王都を守り続ける大結界、それらが一つの線でつながっていく。まさか、と思ったが、辻褄があってしまう。
「……もしや、神官長が今代の……大聖女様の跡目を継いだ、真の聖女様でいらっしゃる……」
「違う」
「えっ」
あまりにキッパリと否定されて、フィリスは少し肩透かしにあったような気分になった。
「で、ですが」
「違う」
ピシャリ、と音がしそうなくらい冷たい声で遮られる。フィリスは項垂れた。
アレスティオンが、はぁ、と大きなため息をついたのが聞こえた。
「優秀なのはよいと思っていたが、余計な頭が回るのは考え物だな」
忌々しそうにつぶやいたアレスティオンは、じろり、とフィリスを睨む。
「聖女などではない。私に向かって冗談でもそんな浮ついた呼び名をするな」
それから、重々しく宣言した。
「今この時から、貴殿は私の専属にする」
険しい視線が、射殺しそうな強さでフィリスを貫いた。
「無駄口を挟まず、仕事に専念しろ」




