1.新しい神殿騎士
フィリスが新しい護衛騎士として配されたのは、新年より少し前のことだった。
平民の出であるフィリスは、貴族の子弟が集まる騎士団勤めにおいて、多くの平民がそうであるように長く不遇であった。せめて実力においては他に遅れを取るまいと努力し続け、今では騎士団の中でも一、二を争うまでに力をつけた。それでも生まれの差はどうにもできなかった……そんなフィリスも、ついに名誉ある神殿騎士の一員として選ばれたのだ。
神殿騎士とは、この国の中央神殿——そして、奇跡の御技をこの世に降ろす、『聖女』を守るための護衛騎士団である。「聖女を守る騎士」の物語を知らぬ子供はいない。フィリスも、あくまで仕事、と自分に言い聞かせはするものの、知らず知らずのうちに理想と期待に胸を膨らませていた。
「新しい護衛騎士だな」
中央神殿の長、神官長アレスティオンの護衛がフィリスの当面の仕事であった。その神官長は、手にした書面から顔を上げないまま、じろり、と視線だけを寄越した。
「初めにひとつ教えておこう。貴殿を選んだのは成績でも実力でも推薦でもない、貴殿が平民出で後ろ盾もなく、貴族の息がかかっていない騎士だからだ。貴殿には、護衛としての務めを粛々と全うする事以外何も期待していない。余計なことを考えないように」
「……はい、心得ております」
がっかりした、というのが正直なところだが、フィリスは顔には出さなかった。理想と現実とはこんなものであると、フィリスはよく知っていた。
「よろしい。よく弁えている」
神官長は満足そうに頷く。それから、一層声を低くして、警告するように言った。
「今代の聖女様はまだいとけない身であらせられる。そのことをゆめゆめ忘れないように」
「もちろんです」
『聖女と騎士』——その恋物語。騎士の間でも有名だ。それを目当てに騎士を目指す者だっているくらいなのだから。共に登殿した騎士達は、今代はまだおぼこいお嬢さん過ぎて、恋の鞘当てにもなりやしない、と嘯いていた。
偉大なる先の聖女様——その力に敬意を示し、人々からは大聖女と呼ばれている——は歴代に類を見ないほどの奇跡を起こせるお方であった。だが当時の神殿騎士であり、筆頭騎士だった伯爵家の嫡男に見染められ、妻にと請われて聖女の位を返上した。以来、かれこれ10年近く、後継となるべく立てられた聖女たちは、みな短期間で引き下がるのを繰り返している。
神殿として、これ以上の空位は避けたいと思うのは当然だろう。フィリスはそう納得した。
神官長の護衛としての仕事は、基本的には執務室の前に立つのが多い。だが、神官長が人と相対するときなどはすぐ側に侍ることもある。
その日、面会にと訪れたのは都でも一二を争う商会の代表であった。自身の側仕え達にいくつも木箱を持ち込ませ、応接室の一角に積み上げていく。中身が瓶であることは、運ばれる音でわかった。液体に満たされたそれを目視するまでもなく、濃く甘い香りで、フィリスにもその正体が察せられた。——酒だ。
商人は恭しくお辞儀をした。
「神官長さま、こちらを、どうぞお納めください」
神官長は、いかにも悩ましい、という顔をした。
「困りましたね、神殿では酒精は禁じられておりますゆえ……」
「もちろん、心得ております。これらはブドウの果汁です」
白々しい会話だ、とフィリスは思った。
にこやかな商人は、さらに隣へ目配せする。
「それからこれは、神官長へのお心付けでございます」
商人の側仕えが恭しく掲げたのは、古びた銘の貼られた瓶であった。
なんという不心得者だろう、とフィリスは顔には出さず憤慨した。神聖な神殿で、堂々とそんなことをするとは。だが、神官長は大きく頷くと、古い瓶を受け取った。銘をじっくり観察して、満足そうに目を細め、息を吐く。それから商人の方へ顔を向けた。
「神殿への御寄進、神もお喜びになりましょう」
「では、秋の祭礼の差配は……」
「ええ……貴方様の良きように」
薄く微笑んで、神官長が頷く。フィリスはわずかに目を見張るが、すぐに視線を逸らした。私的な感情など、仕事には不要だ。
今の神官長に変わってから、神殿には賄賂や裏金が横行しているとは聞いていた。神官長にまつわる黒い噂は絶えない。着任早々、噂の実態を目にするはめになるとは。フィリスは胸の奥が重くなるような気分だった。
神殿騎士の宿舎から詰め所を通り、フィリスは大神殿の方へと向かった。途中、怪我人の運ばれる診療所の前を横切り、神官見習いや聖女候補者たちの勉学に使われる校舎を過ぎて、小神殿まで来る。日々の祈りをささげる人が、いつもよりずっと多い。バタバタと忙しなく走り回る神官達も。
今日は朝からどこもかしこも慌ただしい。それもそのはず、大神殿にて、新年の行事が行われるからだ。
先の大聖女が残した偉大なる奇跡——首都を覆う、魔除けと浄化の帷である『大結界』——それを保つための、大事な儀式である。新年の祝祭の中で1番の山場でもあった。当然、王侯貴族達などの貴賓が多数参加する。いつも以上に警邏には力が入っている。そんな中、フィリスの役目は儀式における護衛、特に神官長と聖女の身辺警護であった。
フィリスは、大神殿の決められた場所に立ち、儀式の始まりを待つ。最も中央祭壇に近いこの位置からは、大神殿の床に彫り込まれた繊細な装飾の魔法陣が、よく見える。
神官長アレスティオンは、いつも以上に荘厳な衣装を纏っていた。恐ろしいほどよく似合う。その隣に立つのは、今代の聖女であろうか。フィリスは、その姿を初めて目にした。まだ十をいくつか超えたくらいの少女であるというのに、聖女様は、毅然と顔をあげ、静粛な雰囲気をまとっていた。それがかえって、衣装が重くのしかかって見えるほどに幼く見えた。
神官たち、そして神官長による口上の後、聖女が静々と歩み出た。大神殿の中央、複雑な魔法陣の刻まれた床の上、その円の縁にそっと触れるように両手を添え、聖女が祝詞を唱える。
「あまねく注ぐ天の光……慈悲深き神よ……」
細く高い声は、まるで鈴の音のように大神殿の高い天井に響く。祈りの言葉と共に、魔法陣にやわらかな光が通ってゆく。儀式を見守る貴賓たちから感嘆の声が上がった。フィリスもまた、仕事中であることを忘れそうなくらいに魅入ってしまった。光は陣を満たし、溢れるように床に広がってゆき、いつしか大神殿の床のほとんどを淡く照らしていた。
その時、空気が変わった。
フィリスはザッと背筋が泡立つような気配を感じた。地鳴りがする。小さいが、遠くない。足裏に微かな揺れを感じる。
聖女はまだ、儀式の初めの姿勢のまま床に膝をついていた。その後ろに立つ神官長もまた、いつもより険しい顔ながら静かに立っている。
異変を感じたのはフィリスだけではなかった。周りの騎士たちも不安そうに互いに顔を見合わせ、観客の中から、戸惑ったどよめきが生まれる。
揺れが、大きくなった。もはや無視できないほどに。悲鳴が上がり、誰かが外へと誘導する声が聞こえる。ばきり、みしり、と不穏な音が足元から立ち上がってくる。魔法陣の光がひび割れ、床の下からじわりじわりと侵食するように草木が伸びてきた。
それでもまだ、聖女も神官長も、儀式の手を止めようとしない。
いけない、早く2人を避難させなくては。
フィリスは、出口に急ぐ人の波に逆らって2人の元へ急いだ。人々は荒れ狂う草木に巻き込まれないようにと逃げ惑い、護衛騎士たちもほとんどが逃げていく。
その時、聖女がぐらりと上体を揺らし、倒れ込むのが見えた。神官長がその体を受け止める。
「聖女様っ! 神官長……!」
地鳴りと地割れの音で声がかき消される。フィリスは二人に手を伸ばそうとし、次の瞬間、見たものが信じられなくて立ち尽くした。




