7.聖女の器
翌朝、仮設された医務官の天幕は怪我人でごった返していた。その奥、白い布に区切られた場所に、神官長は寝かされていた。
「……よくやった、エレノア」
上体をわずかに起こしたまま、枕にもたれるようにしてアレスティオンは言った。エレノアが、疲れ泣き腫らした顔で、けれども喜びで溢れるような笑みを浮かべた。
「よかったです、私、本当に……」
口を開くとまだ涙が出てくるらしい。慌てて両目を擦ると、恥ずかしそうににこりとした。
「今日は無理をするな」
「はい」
「少し落ち着いたら、一番近い街に向かうことになっている。まずはそこで体勢を立て直す」
「は、はい」
「巡礼は……このまま続けるか、一旦帰還するかはまだわからん。なんにせよ、今後については改めて予定を組むことになるだろう。それまでよく休んでおくように」
「はい!」
元気よくエレノアが頷くのを見て、二人を見守っていたフィリスはようやく安心した。
エレノアが退室し、部屋で二人きりになると、フィリスは、大きく息を吐いた。張り詰めていたものを吐き出すように。それから、にこやかに言った。
「本当に、ご無事で何よりです、神官長」
アレスティオンはこの国の真の要であり、何よりフィリスにとっては、神の奇跡を信じるに至った、ある意味では信仰の拠り所だ。それを、こんな形で失うかもしれない、とまざまざ感じた瞬間の絶望は言い知れない。胸を撫で下ろしながら、できれば、二度と味わいたくないな、とフィリスは思った。
フィリスの胸の内を知ってか知らずか、アレスティオンはジロリとフィリスを睨んだ。
「貴殿も少しは残される側の気持ちがわかったか?」
「? ……ええと、はい」
投げかけられた神官長の言葉に、フィリスは戸惑ったように首を傾げながら、頷く。しかし神官長には、半目でチラとみられたうえにため息までつかれてしまった。何かしらの嫌味を言われたのはわかるのだが、ピンと来なかったことで機嫌を損ねたようだ。
困った顔で見つめ返していると、神官長もまた複雑な顔でフィリスを見ていた。
「——ところで、フィリス」
「はい」
しばしの沈黙の後、おもむろに神官長が手を差し出した。
「祈ってみろ」
「……え?」
突然の言葉に、フィリスは目を瞬かせた。手招かれるのに素直に従って、神官長の枕元の椅子に座る。再び手を差し出されたのでフィリスはとりあえずその手を取ってみた。けれど何をすればいいかわからず、首を傾げる。
「ええと……祈れって、どういう意味ですか?」
「そのままだ。祈って……私の怪我を治せるか、試してみなさい」
「えっ?」
ますますフィリスは困惑した。
「それは……その、自分が聖女様の真似事をするということですか?」
「そうだ」
何故、と問いかけたフィリスは、けれども視線に黙殺されたように言葉を呑んだ。仕方なく神官長の手を両手で持ち直す。
「えーと、天の……」
「祝詞はいい」
「は、はい」
「……エレノアと一緒にやった時のようにすればいい」
「……ああ、なるほど」
神官長の言葉に、ようやく得心がいってフィリスは頷く。ぎゅっと神官長の手を握り、そのまま手を組む。それから床に膝をつき、寝台に肘を立てると、神官長の手ごと額に当てた。
静かに時間だけ流れる。フィリスは一心に祈り、アレスティオンはみじろぎもせずフィリスを見つめ続けた。
「……」
チラ、とフィリスが上目遣いで神官長を見る。
「あの、何か変わりました?」
「いや、何も」
「ですよね……」
フィリスは苦笑した。初めからわかってはいたが、そう易々と奇跡は起きはしない。
もう良いですか、と尋ねたのに神官長が頷くのを確認してから、フィリスは立ち上がる。手を離すと再び椅子に座り直した。
すかさずアレスティオンから問われた。
「何を祈った?」
「え? ですから、傷が癒えますように、と」
「それだけか? 他には?」
「えっ、と……傷が、痛まなくなるといいなって……」
「他には?」
「あの、だから、その、神官長が、少しでも楽になるようにって、神様に……お願いを……」
言いながら、フィリスはじわじわと赤くなった。神官長が何を聞きたいのかわからないが、何やら答えるたびに恥ずかしい気がしてくるのだ。
「……他には」
「それだけです!」
頬の熱を感じながら、フィリスは言い切った。視線を逸らしてそっぽを向く。神官長は、そうか、とだけ言った。その顔は随分と真剣で、少しも揶揄いを含んでいない。フィリスは不思議に思った。
仕切りの中、一人になった神官長は黙って枕にもたれていた。医務官のざわめきはまだ続いている。アレスティオンの腹の傷口は、刺し傷が浅くなるような形で奥から塞がっており、流れた血は染みもなく綺麗に体に戻っている。あの時は臓腑まで傷つけられたような痛みを確かに感じたが、今はごく浅く刺された、という程度に変わっていた。
——聖女エレノアは良い塩梅に治癒の奇跡を使えたようだ。
全くもって聖女相手にはお優しいことだ、と一人アレスティオンは宙に向かって嫌味をこぼした。
だが、神への愚痴など今に始まった事ではない。そんなことよりも、アレスティオンの頭の中では、一つの懸念が渦巻いていた。
あの時、朦朧とする意識の中で、確かにアレスティオンは祈りの気配を感じた——二つの祈りを。
一つはよく知るエレノアのものだ。それはすぐにわかった。だがもう一つは、知らないものだった……いや、違う。その気配はよく知ったものだ。
——フィリスだった。
気のせいだと思った。エレノアに寄り添うような、か細く、弱々しい祈りは、気を失いかけた中で感じる幻か、錯覚のようなものだと。
だが、こうしてフィリスに再び祈らせてみれば、よくわかった。
今、枕元で、フィリスは確かに祈りを送ろうとした。祝詞もなく、聖別もしていない。だから神に届くはずがない。それなのに、確かにフィリスから祈りが……細く弱い、蜘蛛の糸のような何かが、ゆらりと天に向かって飛んで、風に流れるように消えた。
似ているものを、アレスティオンは、かつて見たことがあった。
幼い頃、一人の少女が天に向かって祈りを捧げた。その時アレスティオンは、透き通るような、光に似たものが真っ直ぐに神の元へ届くのを見た。
——彼女は後に、大聖女、と呼ばれるようになった。
アレスティオンはこれまで、聖女候補者について、神力を受け止めるための器ばかり見ていた。祈りを届けられるかどうかは重視していなかった……自分が補えばいい、と無意識に考えていたのだ。だが。
——そもそも、祈りを届けられる力さえあれば、奇跡は成立するのではないか?
——何故なら神は、慈悲深い。聖女に……神力を受け取る側に合わせて「良きように」してくれるのだから。
「間違っていたのか? ずっと……」
候補者探しが根本から違っていたなら……いや、しかし神力を蓄える資質が重要なことに変わりはない……だが、もし……。
考えても考えても、アレスティオンの思考は同じ場所に行き着いた。
——細い祈りだ。
——神力を湛えるには器の容量が小さすぎる。
——数年も持たずにすり潰されるのが見えるようだ。
——だが、あのとき、フィリスの祈りは、確かに届いていた
細い細い糸が、天までまっすぐ伸びていた。不安そうに揺らぐエレノアの祈りを、ただ静かに導くように……寄り添うように。
祈りが届けられるなら。
たとえ偶然だとしても、聖別も祝詞もなしで天に届けられるほどに純粋に祈れるのなら。
——それこそが本来の『聖女の資質』なのでは?
アレスティオンは、頭に浮かんだ可能性を否定できなかった。同時に、何よりも否定したくてたまらなかった。
「……くそ、よりにもよって」




