6.祈りの宛先
フィリスの振るった一太刀は、容赦なく野盗の背中を切り裂いた。だが、フィリスの顔色は青かった。
「神官長!」
倒れた野盗の向こう、立ったままのアレスティオンと目が合う。
一瞬だけ期待してしまった。間に合ったか、と。
野盗の手から小剣が落ちる音で、すぐに希望は塗りつぶされた。腹を押さえたアレスティオンが、かすかに息を呑み、たたらを踏んだ。その顔色が、どんどん悪くなっていく。
「——アレスティオン様っ!」
崩れ落ちそうになる神官長を、フィリスは咄嗟に抱きかかえた。頭が、がくりと肩に落ちる。フィリスは息を詰めた。できるだけ体を揺らさないように、ゆっくりと地面に膝をついた。
女神官が悲鳴を上げた。
「し、神官長さま……っ! 血が……!」
「医務官を呼んできてくれ!」
女神官は涙目で頷き、よろよろしながら天幕を走り出る。既に襲撃の音は止んでいた。
「フィリス、外は……」
腕の中から掠れた声に呼ばれ、フィリスは思わず息を震わせた。
「……神官長、大丈夫ですか? 外は制圧済みです」
「そうか……」
「……すみません、天幕に侵入を許したのは俺の手落ちです」
ずるずると力の抜けていく神官長の身体を支えながら、フィリスが呻くように謝罪した。フィリスの膝上に頭を乗せたまま、アレスティオンは、苦く笑った。
「あれは初めから、聖女を、狙った……野盗は、陽動だ」
「……っ」
フィリスは、悔しさで奥歯を噛んだ。やけにしつこく、命など惜しくないかのようにまとわりついてきた外の野盗たちを思い出す。自分は足止めにまんまと乗せられてしまったのだ。一番守らなくてはいけない人を、守れなかった。知らず、手が震えた。
「……すぐに人が来ます。だから、しっかりしてください」
絞り出すようにフィリスは言ったが、アレスティオンはかすかに頷くばかりであった。
「ど、して……」
その時初めて、奥で立ち尽くしていたエレノアが悲鳴のような声を上げた。
「どう、して、神官長……どうして私なんか、どうして……」
動揺したまま、エレノアは床に膝をついた。横たわった神官長の腹部に、じわじわと血の染みが広がっていく。
「なんで、庇ったの……私、私ただのニセモノなのに!」
しゃくりあげるエレノアを、アレスティオンが薄目を開けて見上げた。
「エレノア、君は今から、偽物を返上しろ……」
目を見開いたエレノアにむかって、さらに続けた。
「祈れ、祈って、くれ。それで傷は治る」
「無理だよ!」
「無理じゃ、ない」
浅い息の下、アレスティオンはエレノアをまっすぐに見た。
「……素質を見込んで、君を聖女に、選んだ」
エレノアが、ハッと大きく息を呑む。
「それしか方法が、ない」
「だって、私、一人で、どうやったら……」
「いつも通りでいい、だから、頼む……」
「神官長?」
「神官長!」
青ざめたまま、アレスティオンが口をきかなくなった。フィリスとエレノアが口々に呼ぶが、反応がない。エレノアが、アレスティオンの体に縋った。
「どうしよう……どう、しよう。神官長が、このままじゃ……やだ、死んじゃやだ、やだ……!」
「大丈夫、落ち着いて」
フィリスは、エレノアに触れかけ、一度止まると手甲を外し、革手袋を取る。
「——神は慈悲深い、と」
フィリスは、アレスティオンの服を掴んでいるエレノアの手の上に、そっと自分の手を重ねた。その手は、まだかすかに震えたままだった。
「神官長が、そう言っていました」
「神官長、が……」
エレノアがしゃくりあげながら、顔を上げた。
「聖女の祈りに、神様はいつでも良きようにしてくださる、とも」
フィリスはきっぱりと言い切る。
本当は、一呼吸ごとに膝上に乗ったアレスティオンの重みが減っていくような気がして、恐ろしかった。だが、今はエレノアに全てを託さなければいけない。彼女のために、少しでも気丈に振る舞わなくては。
エレノアは、まだ涙でいっぱいの目を瞬かせた。
「本当に? 本当に大丈夫? わたし……」
フィリスは青ざめたままの顔で、けれど安心させるように笑みを浮かべた。
「大丈夫です、エレノア様。一緒に祈りましょう」
「……」
かけらも迷いなく言い切るフィリスの言葉に、エレノアは震えながら、フィリスの手を握ったまま手を組んだ。組んだ手をアレスティオンの胸の上に置く。エレノアは、それでもまだ不安の拭えない視線をフィリスに向ける。フィリスは優しく手を握り返し、もう片方の手も添える。
「あなたの祈りは、必ず届きます」
「……は、い」
「だから、大丈夫です」
「はい……!」
フィリス自身も、かつては祈りが届くなど知らなかった。だが、大結界ができた時に、祈りが人を守ると知った。神殿で働くうち、神は居ると素直に信じられるようになった。他ならぬ、奇跡を体現したアレスティオンその人の存在が、フィリスに神の意志を見せてくれたのだ。だからこそ、届く……届きさえすれば、神は答えてくれる。必ず。
「あ、あまねく、注ぐ、天の光……」
震えながらエレノアが祝詞の最初の一文を唱える。だが、それ以降はもはやただの懇願だった。
「お願い、お願い神様、この人を助けて、お願いします……!」
形式も何もない、ただあるがままの願いを言葉に乗せて、エレノアが必死に祈る。
フィリスもまた心から祈った。
——どうか、彼女の祈りが届きますように。
——エレノア様が、神官長を助けられますように。
どのくらいそうしていたか、フィリスにはわからない。ただ、さらさらと砂のこぼれ落ちるような、かすかな音が聞こえた気がして、フィリスは目を開けた。
「……!」
柔らかな光が、エレノアの手元から広がっていく。フィリスは息を呑んだ。ゆらり、と揺れる仄かな輝きは、少しずつ、じわじわと神官長の体を覆っていく。血で汚れた服の染みまでが、巻き戻るように消えていく。アレスティオンの顔色が、少しずつ良くなっていった。
なんて美しい光だろう。フィリスは、涙が出そうになった。美しく儚く、優しい光だ。聖女のもたらす奇跡の光、癒しの力。
きっともう、大丈夫。神官長は大丈夫だ。安堵が広がると共に、張り詰めていた糸が切れそうになる。フィリスはまるで魅入るようにぼんやりと光を見ていた。
エレノアの息が上がっていく。汗が、手の上にぽたりと落ちた。
「エレノア様、エレノア様……」
フィリスがそっと声をかけるのと、女神官の呼んだ医務官達が入って来るのはほとんど同時だった。
ハッとエレノアが顔を上げる。フィリスは、手を握られた格好のまま、空いた手で肩に触れた。
「もう大丈夫です、あとは医務官に任せましょう」
「……は、い……」
エレノアは、返事するのもやっとの様子だった。かろうじて頷くと、がくりとその場にへたり込んだ。
医務官達に運ばれる神官長を見送ると、エレノアは、ほろほろと涙をこぼし始めた。フィリスの指を強く握ったまま、嗚咽もなく、ただ呼吸だけが少し大きく聞こえた。あまりにも静かな泣き方だった。
フィリスは、彼女が泣き止むまで黙ってそばにいた。
天幕の外はまだ暗く、けれど雲ひとつない夜空からは、穏やかな星あかりが静かに降り注いでいた。




