白峰澪(しらみねみお)
俺は、いつもの喫茶店に行くのをやめていた。
麗華のことを考えると、胸の奥がざわつく。怖い。
あんな風に急に感情が消えて、機械みたいな声で話し出すのを、もう一度見るのは耐えられなかった。
でも、会いたいとも思っている。
それが一番情けなかった。
だから、約束の時間になってもカフェには向かわず、ただ街を歩いていた。
ふと目に入った本屋の看板を見て、俺は足を止めた。
(……本でも、探してみるか)
麗華と話した本のことだった。
あの時、彼女が嬉しそうに語っていた本を、もう一度手にとってみたら、少しは彼女の気配を感じられるかもしれない。
そんな弱い思いが、俺を本屋へと向かわせた。
店内を歩いていると、ふと目にとまった、一冊の本。
あの時、麗華が「この本、すごく好き」と話していた一冊だった。
俺は無意識にそれを手に取り、表紙を眺めた。
……懐かしい。
あの日のカフェで、向かい合って話していた時間が、急に鮮やかに蘇ってくる。
でも同時に、図書館の前で見た彼女の無表情な顔、カフェで見せた『何か』に操られたような表情も、頭の中に重くのしかかってきた。
俺は本棚の前に立ち尽くしたまま、長いことその本を見つめていた。
胸の奥が、じんわりと痛む。
「大丈夫ですか?」
急に声がして、俺ははっとして顔を上げた。
茶色い髪をポニーテールにまとめた女性が、少し離れた場所からこちらを見ていた。
背が高くて、豊かな胸のラインが目立つ。
柔らかい笑顔を浮かべているが、目には明らかに心配の色があった。
「さっきから、ずいぶん辛そうな顔をしていましたよ……?」
俺は慌てて本を棚に戻そうとしたが、彼女はそれを制するように近づいてきた。
「お姉さん、つい人の顔色を見ちゃう癖があって。
なんか、すごく辛そうだったから……声かけちゃいました」
彼女は、俺が手にしていた本に目をやった。
「ああ、その本。いい本ですよね。
……何か、思い出のある本ですか?」
俺は答えられなかった。
ただ、黙って俯くことしかできなかった。
澪は少しの間、俺の様子を観察するように見ていたが、やがて静かに言った。
「ここにずっといても、多分……余計にしんどくなるだけだと思います。
よかったら、少し外に出ませんか?
外の空気を吸ったら、少し気分が落ち着くと思いますよ」
断る理由が、すぐには浮かばなかった。
連れられて本屋を出ると、近くの小さな公園へと向かった。
木々がほどよく日陰を作っていて、ベンチがいくつか置かれた静かな場所だった。
彼女はベンチに腰を下ろすと、俺にも隣に座るように促した。
「ここ、お姉さんのお気に入りなんです。
人が少なくて、風が気持ちいいでしょ?」
俺は黙ったまま、ベンチに体重を預けた。
澪は俺の様子を見て、少しだけ間を置いてから、穏やかな声で話し始めた。
「最近ね、夜に散歩するのが好きなんですよ。
この辺、意外と静かで……。
あと、甘いものが好きで、よくこの近くのケーキ屋さんに行くんです。
あそこの生クリームは程よい甘さでお気に入りなんです」
俺がほとんど返事をしないのに、淡々と自分の好きなことや最近のことを話してくれた。
無理に明るくするわけではなく、ただ自然に、俺の沈黙を埋めるように。
話の途中で、彼女はふと口を閉ざした。
「……ごめんね? お姉さん、話しすぎた…かな?」
俺は小さく首を横に振った。
「いや、そんなことない。
むしろ……気持ちが落ち着いてきたよ。
それに、少し元気が出た気がする」
彼女は少し驚いた顔をしたあと、すぐに柔らかく笑った。
「そう? よかった。
お姉さん、よくおせっかいし過ぎだって言われちゃうの。
つい、放っておけないと思っちゃうから。
でも……元気が出たなら、良かった」
彼女の笑顔を見ていると、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
麗華のことを思い出すと痛むのとは、明らかに違う感覚だった。
彼女は、少し照れくさそうに自分の膝の上で手を組んだ。
「じゃあ、せっかくだし……お互い名前、ちゃんと名乗っておきましょうか。
私は白峰澪、みお、でいいです」
「……高嶺ハルト。ハルト、でいい」
澪は嬉しそうに微笑んだ。
「ハルトくんね。
また、どこかで会えるといいですね」
俺は小さく頷いた。
二人は、そのまま少しの間、並んでベンチに座っていた。
やがて澪が立ち上がって、軽く手を振った。
「じゃあ、お姉さん、そろそろ行きますね。
またね、ハルトくん」
俺は、彼女の背中を見送りながら、静かに返事をした。
「……ああ。また」
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