11.5話 鷹山蓮 はじめの一発
もう一人は、がっしりとした男だった。
短く刈った髪に、無駄のない立ち方。黙っているだけで張り詰めた空気を纏っている。
名は鷹山蓮、二十八歳。
プロボクサーを目指していた男だった。
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蓮が初めてボクシングに憧れたのは、子供の頃に読んだ漫画がきっかけだった。
主人公は、たった一発の拳で相手を沈める。
圧倒的な一撃。
誰よりも強く、誰よりも真っ直ぐなその姿に、蓮は心を奪われた。
ページをめくるたび、胸が熱くなる。
自分も、こうなりたい。
本気でそう思った。
小学生の頃には、鏡の前でシャドーボクシングを真似していた。漫画の必殺技の名前を叫びながら拳を振るう。その時間だけは、自分が本当に強くなれた気がした。
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だが、蓮は昔から感情の抑え方が下手だった。
すぐ熱くなる。
頭より先に拳が出る。
喧嘩も多かった。
高校時代、ついに暴行事件を起こし、そのまま退学になる。
夢だったボクサーへの道も、その時一度終わった。
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その後は普通に働いた。
スーツを着て、頭を下げ、営業先を回る。
だが蓮は、どうしてもその生活に馴染めなかった。
上司に怒鳴られるたび、胸の奥が煮えくり返る。
理不尽を飲み込むことができない。
ある日、ついに殴った。
気づいた時には、上司は床に倒れていた。
当然、会社にはいられなくなった。
実質クビだった。
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だが、その時。
蓮は少しだけ、嬉しかった。
終わった、と思ったからだ。
ようやく戻れる。
子供の頃、本気で憧れていた場所へ。
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二十八歳。
遅すぎる挑戦だった。
それでも蓮は、プロボクサーになることを諦めなかった。
ジムへ通い、働きながら練習を続ける。
誰より走った。
誰より殴った。
身体が壊れても止まらなかった。
才能がないことくらい、自分でも分かっていた。
若くもない。
センスも飛び抜けていない。
だから、努力で埋めるしかなかった。
限界を超えるしかなかった。
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蓮は、“一撃”に異常な執着を持っていた。
どれだけボロボロになっても、最後に一発当てれば勝てる。
漫画みたいに、たった一撃で全部ひっくり返せる。
その瞬間を、ずっと夢見ていた。
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深夜のジムは静かだった。
サンドバッグを叩く音だけが響いている。
蓮は汗だくのまま、何度も拳を振るっていた。
腕が痛い。
息が苦しい。
視界が揺れる。
それでも止まらない。
「まだ……!」
掠れた声が漏れる。
「まだ足りねぇ……!」
もっと速く。
もっと重く。
もっと強く。
身体が悲鳴を上げているのは分かっていた。
だが蓮は、それを無視した。
止まった瞬間、自分は終わる気がしたからだ。
夢を諦めたまま終わるのが、何より怖かった。
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拳を振り抜いた瞬間だった。
心臓が、嫌な音を立てた。
全身から一気に力が抜ける。
膝が崩れる。
呼吸ができない。
「……は……?」
視界が滲む。
冷たい床が近づいてくる。
倒れ込みながら、蓮はぼんやり天井を見上げた。
昔読んでいた漫画の主人公が、頭の中に浮かぶ。
最後の最後まで立ち上がる、あの男。
蓮は、小さく笑った。
「……一発くらい」
掠れた声が漏れる。
「決めたかったな……」
その言葉を最後に、鷹山蓮は静かに動かなくなった。




