9.5話 竹中奏多 天は二物を与えない
竹原奏多は、自分を“特別な人間”だと信じていた。
いや、そう信じていなければ、自分を保てなかった。
幼い頃から絵を描くのが好きだった。ノートの隅、教科書の裏、広告の白紙部分。気づけばいつもペンを握っていて、頭の中に浮かんだものを夢中で描き続けていた。
初めて描いたのは、母親の絵だった。
丸い顔に、ぐしゃぐしゃの髪。子供の落書きみたいな線。それでも母は、その紙を見た瞬間、少し驚いたように目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。
「すごいじゃない」
その声を、奏多は今でも覚えている。
「奏多、絵の才能あるかもしれないね」
たぶん、ただの親の言葉だった。
子供を喜ばせるための、何気ない一言。
それでも奏多にとって、その言葉は特別だった。
あの瞬間、自分は“選ばれた側”なんだと思った。
誰とも違う。特別な才能を持っている。いつか世界に見つかる人間なんだと、本気で信じた。
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だが現実は、そこまで甘くなかった。
奏多の絵は、決して上手くはない。
人体は歪み、背景は描けず、構図も単調。それでも中性的な顔立ちと独特の雰囲気もあって、周囲は直接的なことを言わなかった。
「個性的だよね」
「なんか独創的」
「逆に天才っぽい」
そんな曖昧な言葉だけが積み重なっていく。
奏多は、それを都合よく信じ続けた。
私は天才なんだ。
世界がまだ理解できていないだけ。
そう思っていた。
そう思い込むことでしか、自分を守れなかった。
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高校を卒業しても、漫画家にはなれなかった。
専門学校には行かなかった。金がないから。
アシスタントにも応募しなかった。才能を潰される気がしたから。
賞にも出さなかった。どうせ審査員に見る目がないと思っていたから。
結局、何一つ始めないまま、時間だけが過ぎていった。
気づけば狭いアパートでコンビニ弁当を食べながら、安い酒を飲むだけの毎日になっていた。
フリーター。
二十九歳。
机の上には描きかけの原稿が積み上がっている。
どれも途中で止まっていた。
「……クソが」
舌打ちが漏れる。
SNSを開けば、自分より年下の漫画家たちが連載を勝ち取り、アニメ化され、才能だの天才だのと持ち上げられている。
「こんなの、運だろ……」
呟く。
「編集が悪い」
「時代が悪い」
「読む側のレベルが低い」
そう言い続けるたび、少しだけ楽になった。
自分が悪いわけじゃないと思えたからだ。
だが、本当は分かっていた。
一番、自分が分かっていた。
描いていない。
本気で向き合っていない。
努力して壊れるのが怖くて、“天才のまま”逃げ続けているだけだと。
認めた瞬間、自分には何も残らない。
母親に褒められた“特別な自分”まで消えてしまう気がした。
⸻
夜のビル街を、奏多はふらつくように歩いていた。
風が冷たい。
高層ビルの屋上から見える街の灯りは、やけに綺麗だった。
世界は今日も普通に回っている。自分なんかいなくても、何も変わらない。
「……はは」
乾いた笑いが漏れる。
フェンスに手をかけながら、奏多はぼんやり夜景を見下ろした。
頭の中には、ずっと理想の自分がいた。
天才漫画家。
自分の描いたキャラクターが世界を変え、人を熱狂させ、誰もが自分を認める未来。
だが現実はどうだ。
何も描き切れず、何も始められず、誰の記憶にも残らないまま終わろうとしている。
「世界が悪いんだろ……」
小さく呟く。
その声は、驚くほど弱かった。
「私は、悪くない……」
言えば言うほど、胸の奥が空っぽになっていく。
視界の向こうに広がる夜景は、残酷なくらい綺麗だった。
奏多は静かに目を閉じる。
「私はただ……」
震える声が、夜風に溶ける。
「認めて欲しかっただけなのに」
その言葉と共に、竹原奏多は夜の街へ落ちていった。




