8.5話 白石恒一 自意識過剰
目が落ち着かない男だった。
誰かに呼ばれたわけでもないのに肩を震わせ、何かに怯えるように周囲を見回している。
白石恒一、三十四歳。
どこにでもいる会社員だった。
⸻
恒一の人生は、良くも悪くも“普通”だった。普通の家庭に生まれ、普通に学校へ通い、普通に就職する。特別な才能もなければ、大きな不幸もない。誰かに羨ましがられることもなければ、ニュースになるような転落もない。ただ静かに、社会の中へ埋もれていくような人生だった。
だが恒一には、一つだけ人より強すぎるものがあった。
“過去”への恐怖だった。
⸻
中学時代。
あの頃の記憶だけが、今でも頭にこびりついて離れない。
変な髪型。寒いギャグ。空気も読めずにはしゃぎ回っていた自分。好きな女子に送った痛々しいメール。急に不良ぶってみた時期。誰にも頼まれていないのに目立とうとして、盛大に滑った文化祭。
今思い出すだけで、全身が熱くなる。
「うわぁぁぁ……」
深夜、一人で突然声を漏らしてしまうこともあった。布団の中で悶えながら頭を抱え、なんであんなことをしたんだ、どうして止めなかったんだと、自分自身を責め続ける。
だが、どれだけ苦しんでも過去は消えない。
⸻
本当は、周りはもう覚えていなかった。
それくらいの出来事だった。
だが恒一だけは違った。自分の中では、今でも鮮明に残り続けている。
風呂に入っている時、仕事帰りの電車、寝る前の静かな時間。ふとした瞬間に中学時代の記憶が頭を殴ってくる。そのたびに恒一は全身から血の気が引いていくのを感じていた。
(消したい)
(忘れたい)
(知ってる奴ら、全員死んでくれ)
そこまで思ってしまうほど、過去が怖かった。
⸻
三十四歳になっても、それは変わらなかった。
会社では普通に働いている。同僚と話し、上司に頭を下げ、笑顔だって作れる。だが内心では、ずっと怯えていた。
もし昔の知り合いに会ったら。
もし過去を思い出されたら。
もし、あの頃の自分を笑われたら。
そんな妄想ばかりが頭の中で膨らんでいく。
⸻
ある日、仕事帰りの電車の中だった。
窓に映る自分の顔をぼんやり見つめながら、恒一はふと思った。
(……あ)
まるで答えが降ってきたみたいだった。
(俺が消えればいいんだ)
自分がいなくなれば、みんなも忘れる。
過去ごと消える。
もう思い出さなくて済む。
もう怯えなくて済む。
その考えは、不思議なくらい自然に胸へ落ちてきた。
⸻
樹海の中は静かだった。
風の音だけが聞こえる。
恒一はロープを握りながら、ゆっくり周囲を見回した。誰もいない。誰にも見られていない。それが少しだけ安心だった。
「……もう、いいだろ」
小さく呟く。
普通に生きたかっただけなのに。
ただ普通でいたかっただけなのに。
過去だけが、ずっと自分を追いかけてくる。
忘れたい。
消したい。
全部、なかったことにしたい。
恒一はゆっくりとロープを首へかける。
最後まで、目は落ち着かなかった。
まるで誰かに、自分の過去を見られているみたいに。




