7.5話 田所誠 死ねない。
一人の男が、静かに立っていた。
痩せ細った身体に青白い肌。落ち窪んだ目の奥には、常に怯えのようなものが滲んでいる。
名は田所誠、四十五歳。
彼は、生まれた時から“死”の気配と共に生きてきた。
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幼い頃の誠にとって、病院は家のような場所だった。消毒液の匂い、白い天井、規則的に鳴り続ける機械音。それらは物心ついた頃から当たり前に側にあった。
小学校にもまともに通えなかった。運動会も、遠足も、放課後に友達と遊ぶ時間も、誠にはほとんど存在しない。窓の外から聞こえる子供たちの笑い声を、ベッドの上でぼんやり聞いているだけの日々だった。
だが、一番辛かったのは退屈でも孤独でもない。
死ぬことが、怖かった。
夜になるたび、誠は不安に押し潰されそうになっていた。このまま眠ったら、次の朝は来ないんじゃないか。気づかないうちに、自分だけ静かに消えてしまうんじゃないか。そんな恐怖が、小さな胸の中をずっと支配していた。
だから誠は、毎晩祈っていた。
(死にたくない)
(お願いだから、死にたくない)
神様なんて本当にいるのかも分からない。それでも祈るしかなかった。怖かったからだ。
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その願いが届いたのか、病状は少しずつ回復していった。
二十歳を迎える頃には、医者からも「もう完治と言っていいでしょう」と告げられるほどになっていた。
誠は、ようやく“普通”を手に入れた。
働いた。友人もできた。酒も覚えた。恋愛だってした。仕事終わりに誰かと飯を食べ、他愛もない話をしながら笑う。健康な人間にとっては当たり前みたいな毎日が、誠には奇跡のように思えた。
もう死を考えなくていい。
ようやく自分も、普通に生きていける。
本気でそう思っていた。
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再発したのは、四十歳の時だった。
最初はほんの小さな違和感だった。息苦しさ。妙な倦怠感。疲れが抜けない感覚。
病院で検査結果を見た瞬間、誠は医者の顔だけで全てを悟った。
あぁ、また始まるんだ、と。
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そこからの五年間は、地獄だった。
治療、副作用、終わらない痛み、吐き気、眠れない夜。少し良くなったと思えばまた悪化し、そのたびに希望を持っては叩き潰される。
身体はどんどん壊れていき、鏡に映る自分は、昔病室で泣いていた子供の頃と同じ顔をしていた。
誠は、怖かった。
四十五歳になっても、結局怖かった。
死が。
終わることが。
自分という存在が、この世界から消えてしまうことが。
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病室の天井を見上げながら、誠は静かに息を吐く。痩せた手は小刻みに震え、指先にはもうほとんど力が入らない。
窓の外では夕日が沈みかけていた。
「……嫌だ」
掠れた声が漏れる。
「死にたくない……」
情けない声だった。子供みたいな声だった。
だが、それが誠の本音だった。
最後まで強くなんかなれなかった。
もっと生きたかった。
普通に明日を迎えたかった。
コンビニへ行って、くだらないテレビを見て、眠くなったら寝る。そんな当たり前を、まだ終わらせたくなかった。
誠は涙を流しながら、震える手をぎゅっと握り締める。
(死にたくない)
(お願いだから)
(まだ、生きていたい)
その願いだけを、最後まで手放せなかった。
そして、その願いは。
最悪の形で叶うことになる。




