6.5話① 伏見悠人 偽りの善行
一人は、痩せた男だった。
背を丸め、視線を落とし、まるで最初から“そこにいない”ように立っている。
伏見悠人、十六歳。
高校一年生。
どこにでもいる、ごく普通の少年だった。
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中学時代の悠人は、特別目立つ人間ではなかった。
部活をして、友達と笑って、たまに好きな子を目で追う。青春と呼べるほど眩しくはないが、それでも確かに“普通”の毎日を生きていた。
それでよかった。
悠人は、普通でいたかった。
誰かの中心じゃなくていい。
ヒーローじゃなくていい。
ただ平穏に、みんなと同じように笑っていたかった。
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だが、中学三年になった頃、その日常は突然壊れた。
クラスの一人が、いじめられ始めたのだ。
最初は、悠人も見て見ぬふりをしていた。
怖かった。
関われば、自分も巻き込まれる。
だから他のクラスメイトと同じように、気づかないフリをしていた。
だが、ある日。
教室でその男子が囲まれているのを見た時、悠人はつい口を挟んでしまった。
「……もうやめろよ」
本当に、ただそれだけだった。
正義感なんて立派なものじゃない。
ただ、見ていられなかった。
だが、それが終わりの始まりだった。
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いじめられていた男子は、しばらくして転校した。
そして空いた場所に、悠人が入った。
教科書を隠される。
机に落書きをされる。
陰口を叩かれる。
LINEグループから外される。
笑い声が聞こえるたび、自分のことを言われている気がした。
誰も助けてくれなかった。
かつて自分がそうだったように、みんな見て見ぬふりをしていた。
悠人は少しずつ、喋らなくなっていった。
目立たないように。
見つからないように。
息を殺すように生きる癖だけが残った。
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それでも高校に入る時、少しだけ期待していた。
ここから変われるかもしれない。
また普通に笑えるかもしれない。
普通でいい。
本当に、それだけでよかった。
だが。
入学式の日、教室で名前を見た瞬間、悠人の身体は凍りついた。
あの時、いじめられていた男子がいた。
同じクラスだった。
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最初、相手は悠人に気づいていないようだった。
だが数日後、視線が合った瞬間、男の顔が歪む。
そして、笑った。
嫌な笑い方だった。
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いじめは、すぐに始まった。
今度は、あの男子が中心だった。
「お前見ると、あの頃思い出すんだよ」
そう言って笑う。
「だから消えてくんね?」
悠人は、何も言えなかった。
意味が分からなかった。
助けたはずだった。
なのに。
どうして。
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学校へ行くのが怖くなった。
教室の扉を開けるだけで吐き気がする。
誰かの笑い声が聞こえるだけで、心臓が跳ねる。
夜も眠れない。
気づけば、ずっと思っていた。
(消えたい)
(もう、見つからない場所に行きたい)
誰にも見られず。
誰にも気づかれず。
最初から存在しなかったみたいに。
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放課後の校舎は静かだった。
屋上のフェンス越しに見える空は、やけに綺麗だった。
悠人は、小さく息を吐く。
制服のポケットには、短い遺書が入っていた。
『ごめんなさい』
それだけだった。
本当は、もっと色々書こうと思った。
苦しかったこと。
辛かったこと。
でも結局、何も書けなかった。
どうせ誰にも伝わらない気がしたからだ。
悠人はフェンスへ手をかける。
怖くはなかった。
もう疲れていた。
「……消えたいな」
小さく呟く。
その声は、風の音にすら負けそうなくらい弱かった。
誰にも見つからないまま。
誰にも気づかれないまま。
ただ静かに、消えてしまいたかった。




