5.5話 黒瀬宗一郎 しはいしゃ
黒瀬宗一郎は、人を信用したことがなかった。
細いフレームの眼鏡を指で押し上げながら、相手の視線や声色を観察する。どんな言葉を欲しがっているのか、どんな不安を抱えているのか、それを見抜くのが昔から得意だった。
人間は単純だ。
金。
承認欲求。
孤独。
そこを少し撫でてやれば、驚くほど簡単に転ぶ。
宗一郎は、それを理解していた。
いや、それしか信じていなかった。
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幼い頃から、周囲に馴染めなかった。
神経質で、細かくて、空気を読みすぎる子供だった。クラスの輪に入れず、笑い声の輪郭ばかりを遠くから眺めていた。
だが、ある時気づいた。
人間は“操作”できる。
小さな嘘を混ぜる。
少しだけ相手の欲しい言葉を与える。
それだけで、人は驚くほど簡単に動く。
宗一郎は、その感覚に安心した。
支配している間だけは、傷つかなくて済むからだ。
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大人になる頃には、その才能は完全に“裏側”向きになっていた。
詐欺。
情報売買。
名義飛ばし。
最初は小遣い稼ぎの延長だった。
だが宗一郎は頭が良かった。誰よりも慎重で、誰よりも人間の弱さを理解していた。
気づけば、自分の周りには人が集まっていた。
「黒瀬さんがいれば安心です」
「宗一郎さんの指示通り動きます」
そんな言葉を聞くたび、宗一郎は心のどこかで笑っていた。
こいつらは、自分の掌の上だと。
誰も自分を裏切れない。
自分だけは、常に上にいる。
そう思っていた。
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崩れる時は、一瞬だった。
仲間の一人が捕まった。
そこから芋づる式に情報が漏れ、宗一郎の名前も警察に渡る。
逃げ切れると思っていた。
だが、甘かった。
薄暗い部屋に警察が踏み込んできた時、宗一郎は初めて理解した。
裏切られたのだと。
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出所した頃には、三十九歳になっていた。
街は変わっていた。
知らない店。知らない人間。知らない流行。
だが宗一郎自身は、何も変わっていなかった。
いや、変われなかった。
真っ当な仕事をしようとしたこともある。
だが無理だった。
人を騙す以外の生き方を、宗一郎は知らない。
結局また、裏側へ戻るしかなかった。
だが一度捕まった人間は、もう自由には動けない。
警察は常に目を光らせている。
仲間たちも、昔ほど忠実じゃない。
宗一郎は苛立っていた。
人は操れる。
支配できる。
そう信じてきた。
だが現実は違った。
人間は、自分の都合で裏切る。
金で揺れる。
恐怖で逃げる。
結局、誰も完全には支配できない。
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逃亡中の雑居ビルだった。
息が荒い。
階段を駆け上がる音が遠くで響いている。
携帯には、最後の仲間からの短いメッセージが残っていた。
『悪いな』
それだけだった。
宗一郎は、しばらく画面を見つめていた。
やがて、小さく笑う。
「……くだらない」
掠れた声だった。
結局また裏切られた。
昔からそうだ。
誰も信用できない。
誰も自分のものにはならない。
支配したつもりになっていただけだった。
宗一郎は近くに落ちていたナイフを拾う。
冷たい刃を、静かに眺める。
次に捕まれば、もう長くは出られない。
逃げ続ける人生にも、少し疲れていた。
「……人間ってのは」
ぽつりと呟く。
「最後まで、思い通りにならないな」
その言葉だけが、妙に静かに響いた。
宗一郎は、ゆっくりと刃を首へ当てる。
震えはなかった。




