3.5話① 佐藤旬 痛みからの解放
佐藤旬は、痛みに慣れていた。
幼い頃からそうだった。
酒臭い息。重い足音。壁を叩く音。そのどれかが聞こえた瞬間、身体が勝手に強張る。父親の機嫌が悪い日は決まっていた。仕事で嫌なことがあった日。金がない日。酒が切れた日。そして、理由なんて何もない日。
旬は殴られた。
蹴られた。
熱い灰皿を押し付けられたこともある。
だが、一番苦しかったのは痛みじゃなかった。
怖かった。
次にいつ来るか分からない、その瞬間が怖かった。
だから旬は、妄想するようになった。
自分は無敵なんだと。
どれだけ殴られても平気で、どれだけ蹴られても傷一つ付かない、鋼の身体を持った超人なんだと。
そう考えている間だけは、少しだけ耐えられた。
父親の拳が飛んでくる。
頬が切れる。
腹が痛む。
それでも旬は、心の中で呟く。
(効いてない)
(俺は無敵だから)
(こんなの、痛くない)
涙を流しながら、何度もそう唱えた。
⸻
高校二年の冬だった。
父親は、その日も酒を飲んでいた。
機嫌が悪かった。
旬は、それだけで理解した。
今日は長い。
逃げようと思った。だが遅かった。胸ぐらを掴まれ、そのまま床に叩きつけられる。
「お前みたいな出来損ないが……!」
怒鳴り声。
飛んでくる拳。
腹を蹴られる。
呼吸ができない。
視界が滲む。
その時だった。
台所に落ちていた包丁が、目に入った。
次の瞬間には、もう握っていた。
覚えていない。
本当に、一瞬だった。
気づけば父親が倒れていて、血が広がっていた。
静かだった。
さっきまで響いていた怒鳴り声も、足音も、全部消えていた。
旬はその場に立ち尽くす。
震える手から、包丁が落ちた。
「……あ」
掠れた声が漏れる。
ようやく終わった。
そう思った。
だが違った。
そこから先も、何も終わらなかった。
⸻
旬は、結局まともな人生を歩けなかった。
高校も辞め、仕事も続かず、気づけば半端な連中とつるむようになっていた。
ヤクザ。
その言葉に、どこか憧れていた。
強い人間。
誰にも舐められない世界。
無敵の男たち。
だが現実は違った。
旬は組の中で下っ端にもなれない。ただ都合よく使われるだけの存在だった。
パシリ。
取り立て。
危ない仕事。
失敗すれば殴られる。
だが、それにも慣れていた。
痛みには、昔から慣れていた。
⸻
逃亡中の車の中だった。
助手席には拳銃が置かれている。
組から渡されたものだ。
“責任を取れ”という意味くらい、旬にも分かっていた。
窓の外を眺める。
雨が降っていた。
静かだった。
「……結局」
小さく呟く。
「俺、何だったんだろうな」
憧れた。
強くなりたかった。
無敵になりたかった。
でも実際は、ずっと怯えていただけだ。
殴られるのが怖かった。
痛いのが怖かった。
捨てられるのが怖かった。
だから強いフリをしていただけだった。
旬は拳銃を手に取る。
冷たい。
ゆっくりと、自身の額に銃口を当てた。
引き金を引く指に、恐れはなかった。




