加速する現実、踏み出す一歩
「考えさせて……」
そう口にした瞬間、それがただの空虚な時間稼ぎでしかないことに自分でも気づいていた。
カップの縁に触れた指先に残るじわりとした熱をなぞりながら、俺は視線をテーブルに落とし、逃げ場のない本音と向き合おうとする。
だが、わずか数秒の沈黙の中で、思考は俺の意図を追い越して別の方向へと滑り込んでいった。
驚くほど自然に、意識の奥底で言葉が組み替えられていくのを感じる。
――違う、そうじゃない。
俺がどうしたいかなんて、そんな青臭い話はどうでもいいんだ。
この身体になって現実に生きている以上、基準にするべき答えは最初からひとつしか用意されていない。考えるべきはロールプレイのその先……。
リエラなら、どうするか。
リエラなら、ここでどう動くか。
その問いが自分の中にすとんと落ちた瞬間、胸のつかえが取れたような確かな感覚があった。俺は迷いの残りかすを振り払うように顔を上げ、正面に座るミーナの瞳をまっすぐ見据えて唇を開く。
「やるわ」
紡ぎ出した言葉は、自分でも驚くほど軽やかで、それでいて妙にしっくりくる響きを伴って空気に溶けていった。
「あれ、はやっ!?」
即座に返ってきた彼女の反応に一瞬だけ呆気にとられたが、慌てて両手を振りながら頭を下げる様子がおかしくて、つい口元が緩んでしまう。
「あ、すいません! あの、私が言うのもなんですけど、一昨日であったばかり、ですよ? 急かすつもりじゃなくて、その、あまりにも決断が早かったので……!」
「いいわよ別に。正直、私自身が一番びっくりしてるんだから」
軽く肩をすくめながらカップを持ち上げる。
その動作を、できるだけ、イメージの中のリエラとシンクロさせて行く。その動きに合わせて、強張っていた全身の力を抜く。
「でもね、手順も機材も、配信の流れだって何ひとつ知らないのよ? ほぼ素人同然だけど、本当にいいのね?」
念を押すように問いかけると、ミーナは深く息を吸い込み、弾かれたように身を乗り出した。
「それはもちろんです――!」
そこから先の言葉は、もはや一度では処理しきれない速度の奔流となって押し寄せてきた。それは説明というより、熱を帯びた津波に近い。
プラットフォームの仕様からアカウント設計、サムネイルの重要性に始まり、初配信の構成やリスナーとの距離感、果ては収益化の条件や炎上リスクの対処法、SNSでのバズの仕組みまで。彼女の口から溢れ出す知識の量は、とどまることを知らなかった。
さすが事務所を作りたいだけあって、その情熱の下地にある知識がすごすぎた。
今の大学生ってこんな感じなの? すごすぎないか?
「まずはアカウントの導線設計が肝でして、それから初回配信のインパクトをですね――」
「待って、今のミーナの喋り、1.5倍速くらいで流れてるから」
「すいませんすいません! でもこれ、まだ導入なんです!」
導入でこれかよ、と内心でツッコミを入れながらも、俺はその圧倒的な勢いにどこか納得している自分を見つけていた。
「ミーナもやればいいじゃない」
「いえ、私は地味なので」
「え~……」
この熱量、この準備、そして膨大な知識。これほどのものを持ち合わせていながら、彼女は自分のことを「地味」だと切り捨てた。
――いや、あり得ないだろ。
これほど情熱を持って、これほど深く考えている人間が、自分を価値のないものとして埋もれさせている? ますます意味が分からない。
カフェラテのカップを回しながら聞き流すふりをしつつも、俺は彼女の言葉をひとつずつ丁寧に拾い上げ、胸の中でじわじわと膨らんでいく感情を確かめていた。
もったいない。あまりにも、もったいないじゃないか。
「ミーナってば……こんなにかわいくて、真面目なのにね」
気づけば、独り言のような本音がこぼれていた。ミーナは一瞬だけ言葉を止め、ぽかんとした顔でこちらを凝視する。
「え?」
「いや、なんでもないわ」
慌てて誤魔化したが、俺の中ではもうひとつの決意が輪郭を帯び始めていた。どうせやるなら、中途半端は性に合わない。リエラとして、徹底的にやるだけだ。そして――。
「それなら……まとめて面倒見てあげるわ」
俺は少しだけ身を乗り出し、彼女にだけ聞こえるような声で、わざとらしく含みのある笑みを浮かべてみせた。
「あなたも含めて、ね」
ミーナの目が大きく見開かれる。
「……ふふん、リエラ様に任せなさい」
「……はい、ふふ」
カップをテーブルに置き、指先で刻むリズムが自然と高揚感を刻んでいく。
カフェの空気を壊さないよう声は抑えたものの、その言葉には確かな手応えと、隠しきれない遊び心をたっぷりとにじませた。
それからの動きは、呆れるほど迅速だった。
やる、と言ったミーナの速さと言ったら、ずっと温めていたことを、やろうとしていたことをなぞるように、しっかりと下地を作っていく。
スマホを操作し、流れるような手つきで必要事項を打ち込んで行き。数分もしないうちに、SNSのアカウントとチャンネルの土台が出来上がってしまった。
エタファン運営への配信者申請も、配信者向けのカメラ機能の付与も、驚くほどのレスポンスの速さで完了の通知が返ってきた。
「こんなにあっさり……」
「大事なのは中身ですから、これからですよ!」
呟きながら、逆に怖くなるほどの手軽さに思わず笑みが漏れる。
◇
帰宅して自室のドアを閉めると、そこからは完全な単独作業が始まった。
深く息を吸い、改めて部屋を見渡す。営業時代から使い続けてきた、無機質で無難な、どこかくたびれた色合いの家具たち。まずはそれらを一新しようと、ミーナと別れた後に通販サイトを起動した。
あれこれとカートに入れていくと、なんと帰宅するまでには届く、という。
どうなってるんだ、現代。ありがとう文明。
「……よし」
気合を入れるように呟き、届いたばかりの段ボールを裂いた。
鮮やかなピンクのカーテンを窓にかけると、差し込む光が柔らかく色づき、部屋の空気が一変する。壁紙を貼り替え、PC周りのキーボードを新調し、シーツから布団カバーに至るまでを次々と取り替えていく。手を動かすたびに、俺の生活圏が、俺自身の居場所が塗り替えられていく感覚があった。
視界に入るものすべてを、徹底的にピンクで染め上げる。
「女の子の部屋って言ったら、こうだろ……!」
誰に言い訳するでもなくそう毒づき、最後のクッションを配置したところで、俺は一歩引いて完成した空間を眺めた。
……少しやりすぎたか? いや、これでいい。
これで退路は完全に断った。この空間で、この姿で生きていく。そう決めた以上、もう元の世界に戻るつもりなんて微塵もない。
「……有休消化が終わったら、そのまま辞める」
ぽつりとこぼしたその言葉は、驚くほど軽く、それでいて確かな現実味を持って俺の胸にすとんと落ちた。
◇
それからの数日間、俺は外界との接触を断ち、すべての時間を準備に注ぎ込んだ。
アカウントの微調整、設定の確認、ミーナとの密な打ち合わせ、そして配信構成の練り直し。
一度もログインはしていない。正直、逸る気持ちがないわけではなかった。
だが、それ以上に、ここで足を止めるわけにはいかないという強い確信が俺を突き動かしていた。
「……もう、止まれないんだよな」
VRMMO『エターナルファンタジアオンライン』のタイトルと並んで、SNSのタイムラインにじわじわと浮かび上がってきたのは、「リエラちゃんねる」という見慣れない名前と、妙に計算されたようでいてどこか危うさを含んだビジュアルの連続投稿だった。
最初に投稿されたのは、顎から下、そしてあまりに名刺がすぎるMカップの胸元までを切り取った一枚。光の当て方や構図が絶妙にコントロールされているせいか、顔が見えていないにも関わらず、見た者に「これは誰だ」と思わせるだけの強烈な引力を放っていた。
俺はその画像をスマホで見つめながら、数日の特訓を思い出し、苦笑いする。ミーナから「もっと顎を引いて!」「肩の力を抜いて!」「そのまま、動かないで!」と矢継ぎ早に飛ばされた真剣すぎる指示に、軽く遠い目をしてしまう。
次いで投下されたのは、指先や首元、髪の一部といったパーツごとの断片的な写真だった。
どれもがバラバラでありながら、並べて見ると妙な繋がりを感じさせる配置になっており、見ている側が勝手に「この人物はこういう雰囲気なんじゃないか」と、脳内で理想の姿を補完してしまう構造になっている。
さらにその流れの中で、目元だけにメイクを施した写真が差し込まれたが、これこそ俺が鏡の前で不器用にアイラインを引き、何度も失敗してはミーナに「ちょっと太いです」「左右非対称です」「でも雰囲気はいい!」とダメ出しされ続けた、文字通りの血と汗の結晶だ。
その後に続く、あざとい角度で首を傾けたマスク姿の自撮りも、すべては指示通り、狙い通りの産物。撮っている時の俺は必死すぎてテンパり倒していたのだから、ミーナの引き出し、人間の「見せ方」というものの恐ろしさを痛感せずにはいられない。
コメント欄や引用リプライには、「実在するの?」「でっっっっ」「この人がリエラ?」といった、驚きと疑念が入り混じった反応が津波のように流れ込み、その勢いに俺は思わずスクロールする指を止めてしまった。
「……これ、ほんとに俺なのか?」
思わず呟きながら画面を見つめても、そこに映っているのは確かに自分の一部なのに、どこか「演出された別物」のようにも見え、現実との境界線が少しずつ曖昧になっていく。
投稿はさらに止まらず、パソコンのキーボードに近づく手、デスクに置かれたネクサス・ギアに触れかける指先と、徐々に物理的な距離が縮まっていく写真が続き、まるで「ここから先は配信で」と無言の誘導をかけているかのようだった。
「ミーナPが恐ろしすぎる……」
そう呟きつつも、否定はできなかった。自然に見えるのにすべてが計算され、偶然に見えるのにすべてに意図がある。この一連の流れが「たまたまバズった」のではなく、「バズるように仕組まれていた」のだということが、当事者である俺の目にもはっきりと見えていたからだ。
そして、決定打となった動画。
顎から下、胸元までのフレームに収められた状態で、一瞬だけ息を整えるような間を置いた後に流れ出したのは、間違いなくゲーム内で使っているリエラの声だった。
「今夜22時、レアルタの冒険者ギルド前にて……冒険を再開するわ。みんな、楽しみにしててよね!」
自分で録ったはずの声なのに、どこか他人のように聴こえてしまい、俺はスマホを持つ手に知らずしらず力がこもる。
「べ、別に来てくれなんて頼んでないんだから……」
あの時、死ぬほど苦労して「できるだけ自然に」演じたツンデレの台詞。そして最後に、わざとらしくカメラが倒れて視界が揺れ、バッチリメイクされたリエラとしての顔が、本当に、本当に一瞬だけ映り込む。
「……やりすぎだろ、これ」
動画を見終わった俺はベッドの上に倒れ込み、天井を見上げながら、じわじわと早くなる鼓動と遅れてやってくる実感をどう受け止めるべきか、頭を抱えていた。
スマホを握ったまま「えー、わたくしリエラ、現在――バズっております」と、おどけたように独り言をこぼしてみる。画面に表示される通知の数は、もはや俺が今まで生きてきた中で目にしたことのない桁に達していて、その現実感のなさに逆に焦りが込み上げてくる。
「ちょ、有名人じゃーん……」
棒読みで呟きながらも、内心では「いや無理無理、逃げたい」と全力で後ずさりしている自分がいて、そのギャップに自分自身でツッコミを入れたくなるほどだ。しかも厄介なことに、他の配信者たちからも「これコラボある?」「会いたい」といった反応が見え始め、俺はいたたまれなくなってスマホを顔から遠ざけた。
ベッドに仰向けになり、改めて思う。恐怖はあるが、不思議と嫌じゃない。それ以上に、「何かがとんでもない方向に転がり出しそうだ」という、震えるようなワクワク感が確かにそこにはあった。
――見ていて面白い、予想できない、コンテンツになる。
ミーナが語っていた言葉を反芻しながら、俺はスマホを胸の上に置き、その重みを感じながら目を閉じた。急拵えの準備だったかもしれないが、この短期間でここまでの形を作り上げてしまったあのプロデューサーの熱量と設計力は、冗談抜きで異常だ。
「……こうなったら、もう乗るしかないよな」
小さく息を吐きながら目を開けると、そこにはピンクに染め替えられた俺の部屋が広がっていた。ここ
が現実。そして、ネクサス・ギアの向こう側にあるのが、リエラとしての舞台。
「今夜22時……ね」
時間を確認しながらゆっくりと体を起こし、俺は迷いなく、ギアへと手を伸ばした。心臓が少しだけうるさい。
「……さて。それじゃあ、派手にやるわよ」
誰に聞かせるでもないその呟きには、いつの間にかリエラとしての色が、しっくりと混じっていた。
ピンク一色に染まった部屋の真ん中で、次に踏み出す一歩が、自分の人生を決定的に変えてしまう予感を、静かな昂ぶりとともに噛み締めながら……。




