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開幕、伝説の一夜

 派手にやる、と息巻いたもののやはり、時間を刻むごとに心臓の音は大きく早くなっていく。

 リアルではスライムボディ由来ではなく、じんわりと手に汗がにじんでくる。


「……緊張するな、やっぱり」


 小さくこぼした呟きは、ピンク色の壁紙に吸い込まれてやけに柔らかい残響を返した。

 心臓の鼓動が、今まで経験したことがないほど速い。これは強敵との戦闘を前にした高揚とも、闘技場で絶望的な多人数を相手にした時の緊張とも違う、もっと生々しく人間に近い感覚だ。自分の内面を、リエラという仮面を通して大勢の目に晒すことへの畏れが、胸の奥をちくちくと刺してくる。


 プロの配信者の初配信も、これほどまでに喉が乾くものなのだろうか。アバターとはいえ自分が映り、声が届き、見知らぬ誰かがそれを見て反応する。その連鎖を想像すればするほど、胃のあたりが重くなるのを感じたが、それでも足を止めようとは思わなかった。不思議なことに、怖さと同じくらい、自分の知らない自分に出会えることへの期待が、俺を突き動かしていたからだ。


「……リエラなら、ここで逃げたりしないわよね」


 自分に言い聞かせるようにそう呟いてから、俺はネクサス・ギアを両手で持ち上げた。手のひらに伝わる硬質な感触と内部にこもった微かな熱が、異世界へと繋がる扉の存在を確かなものに変えていく。深く、一度だけ呼吸を整えてからゆっくりとそれを装着すると、視界の端から現実が黒く塗りつぶされ、部屋の色彩が遠ざかっていった。

 ミーナとの入念な打ち合わせを思い出す。すっかりプロデューサー顔になったあのたくましい相棒を。


(大丈夫、大丈夫)


 瞼を閉じ、自分の中だけで秒読みを開始する。

 3。心臓が大きく跳ねる。

 2。指先が、わずかに震えた。

 1。


「ダイブ・スタート!」


 視界が、真っ白に弾けた。

 意識が底知れぬ深淵へと落ちるというより、一瞬だけ足元が消失するような浮遊感に包まれ、次の瞬間には全身が細かな光の粒に分解されて再構築されるような、独特の感覚に翻弄される。耳元を風が駆け抜ける音が響き、肌の上を透明な水が流れていくような冷たさが走った直後、足裏にしっかりとした石畳の感触が戻ってきた。


 ゆっくりと視界が開ける。

 俺は、いつものレアルタの冒険者ギルド前に立っていた――はずだった。


「……え?」


 目の前に広がっていたのは、レアルタの街とは思えないほど、視界を埋め尽くさんばかりの「人、人、人」の群れだった。


 普段なら行き交う冒険者が点在する程度の広場に、今はびっしりとプレイヤーたちが詰めかけ、足元の石畳がほとんど見えないほどの過密状態になっている。頭上には名前の表示が何重にも重なり、凄まじい熱気となってこちらへ押し寄せてきた。



「おい、マジかよ……本物だ、リエラだ!」

「NPCじゃないぞ! 生身のプレイヤーだ!」

「リエラ様……捕食されてえ……」

「うわ、すっげえ、これは正気を保てない……」


 あちこちから飛んでくる野次や歓声が、広場のざわめきを巻き込んで巨大な波のように膨らみ、俺の耳に次々と叩きつけられる。


「え、は? ちょっと、何よこれ」


 あまりの光景に、思わず素の困惑が漏れそうになった。いや、無理だろ、これは。何も聞いていない。いや、ミーナは言っていたのかもしれない。先に待っているとか、初動の盛り上がりが重要だとか、何かしらそれらしい説明は受けていた気がするが、これほどの群衆が集まるとは夢にも思っていなかったのだ。仮に聞いていたとしても、俺の脳がその異常な事態を処理しきれず、勝手に拒否していた可能性が高い。


 混乱のあまり一歩後ずさったその時、横からすっと、流れるような動作で誰かが姿を現した。ミーナだった。……いや、ミーナではあったのだが。


「……あれ、ミーナ、そんな装備だったっけ?」


 思わず零れた俺の言葉は、広場の喧騒にかき消されるほど微かだったが、本人にはしっかり届いたようで、彼女はいたずらっぽく片目をつむって見せた。


「私なりに、この数日間で精一杯の準備をしてたんですよ」


 そこにいたのは、俺がよく知る「赤いマントの火魔法使い」の姿ではなかった。


 深紅を基調とした豪奢な儀礼服を身に纏い、金の縁取りと緻密な刺繍が胸元から袖口まで走り、彼女が動くたびに鋭い輝きを放っている。ローブというには裾が短く、ミニスカートに近いデザインからすらりと伸びる脚が、儀礼的な威厳と少女らしい軽やかさを不思議なバランスで両立させていた。さらに左手には魔法陣が描かれたグローブがはめられ、その模様は未発動ながら、ただならぬ魔力を秘めていることを予感させる圧倒的な存在感を放っている。


 将軍――その言葉が、直感的に浮かんだ。

 それも、ただの将軍ではない。高貴なリエラに仕え、その道を切り開く「火の将軍」だ。


「リエラ様、お待ちしておりました」


 ミーナはそう言うと、俺の前で流麗な動作とともに片膝をつき、まるで主君を迎え入れる忠義の従者のように深く頭を垂れた。その瞬間、広場のざわめきがさらなる熱を帯びて一段と跳ね上がる。


「うおおお! なんだあの演出!」

「絵面が強すぎるだろ!」

「もはやこれ、公式のイベントじゃないのか?」


 俺は一瞬だけ、息を呑むのを忘れた。

 すごい。これは、理屈抜きに絵になる。目の前のミーナがこれを演出だと割り切っているのも、すべてが配信の数字のためだということも理解している。それでも、彼女の立ち居振る舞いから伝わる確かな迫力に押され、俺は無意識のうちに背筋を伸ばしていた。


 ここで素に戻るわけにはいかない。リエラとして立ち、リエラとしてこの期待に応える。それが、今の俺に課せられた役割だ。


「ええ、待たせたわね……それにしても」


 俺はゆっくりと視線を巡らせ、広場を埋め尽くす見知らぬ人々の顔を一人ずつ確認しながら、胸に湧き上がる緊張を無理やり飲み下した。


「何なの、この群衆は。一体どういうつもり?」


 ミーナは顔を上げ、涼しげな表情を崩さないまま、俺にしか見えない角度で小さく口角を上げた。


「皆様、リエラ様の伝説の幕開けをひと目見ようと集まった有志たちでございます。どうか、慈悲深いお言葉をかけて差し上げてください」


 完全なる無茶振りだ。だが、この流れに乗らない選択肢など最初から存在しない。

 俺は深く息を吸い込み、広場に集まったプレイヤーたちの視線を真正面から受け止めた。視界の端では配信ポットが静かに浮遊し、小さなレンズがこちらを一心に見つめている。その横には半透明のウィンドウでコメント欄が流れ、人間の動体視力では到底追い切れないほどの速度で文字が奔流のように過ぎ去っていく。

「本物だ」「リエラ様降臨」「かわいい」「SNSまんまじゃん」「非実在性美少女じゃなかったのか」「ミーナ何者だよ」「従者ムーブ助かる」といった断片的な言葉だけをかろうじて拾い上げながら、俺は顎を上げ、ブロンドの髪をさらりと手で払い、両手を胸の前で軽く組んだ。


 それはさながら、アニメのヒロインが取るような誇張された動きだった。だが、今のリエラの姿を借りている俺がやると、それが不思議なほど様になってしまうのだ。


「そう……いいわ、あんた達! リエラ様がこうしてわざわざ来てあげたんだから、退屈なんて絶対にさせないわよ」


 その言葉を放った瞬間、広場に爆発的な歓声が沸き起こった。

 物理的な振動として音が身体にぶつかり、地面さえ震えているのではないかと錯覚するほどの熱狂に、俺は思わず目を見開きそうになる。それを必死で抑え込み、口元には余裕を湛えた不敵な笑みを作ってみせた。


「臣民たち――リスナーの皆も、リエラ様のご降臨を心より祝っております」


 ミーナが横からさらりと追撃を加える。臣民、と今こいつは言ったのか。俺は内心で盛大にツッコミを入れながらも、表面上は堂々とした態度を崩さず、流れるコメント欄と群衆に向かって優雅に微笑んだ。

 

「ふぅん……熱心ね。いいわ、しっかり見てなさい。とびきり楽しませてあげるんだから」


 再び上がる歓声。濁流のようなコメント。

 「リエラ様ー!」「踏んでください!」「例の捕食シーンは?」「ミーナ様もめちゃくちゃ可愛い!」「これ本当に個人勢の配信なの?」何だこれは。所属タレントでもないただの個人が始めた配信で、どうしてこれほどまでの盛り上がりを見せているんだ。というか、当たり前のように捕食を求めるな。

 こっちはそんなに安っぽく人を食べたりしない。たぶん。いや、前はやったけれど、あれはあくまで不可抗力だったはずだ。


「さあ、行くわよ、ミー……」


 そこで、俺はあえて足をもつれさせた。これもミーナとの打ち合わせ通りの演出だ。「最初に一度だけ、完璧じゃない隙を見せましょう。ドジ成分こそが親しみやすさを生むんです」という彼女の言葉を思い出す。正直、俺からすれば現実でもゲームでもしょっちゅう転びかけているので、これを演出と呼んでいいのかは甚だ疑問だったが、やるからには徹底的にやるしかない。


 足先を石畳の凹凸に引っ掛け、身体の重心をわざと前へ流す。豊満な胸元の重みに一拍遅れて引っ張られるようにして、バランスを崩した。


「あっ」


 そのまま、勢いよく石畳に沈み込む。


「へぶっっっ!!」


 顔面着地こそ免れたものの、我ながら耳を疑うような情けない声が出てしまった。広場が一瞬、水を打ったように静まり返り、その直後に先ほど以上の爆笑と熱狂が弾けた。


 「リエラ様!?」「伝説のドジっ子降臨!」「テンプレ通りの展開助かる!」「さっきまでの威風堂々はどこ行ったんだ!」「痛そう、大丈夫!?」

 ミーナが慌てた様子で駆け寄ってきて、かいがいしく俺を抱き起こす。

 「リエラ様! お怪我はありませんか!」

 そう叫びながら、彼女は俺にだけ聞こえるような微かな声で、満足げに囁いた。

 「ナイスです」


 こいつ。やはり恐るべきプロデューサーだ。

 俺は顔を真っ赤にしながら起き上がり、髪についた埃を払うふりをしながら、広場に向かってびしりと指を突きつけた。


「あんた達、今の……何も見てないわよね!? 絶対に見てないわよね!」


 コメント欄の速度がさらに加速する。

 「ばっちり見た」「録画した」「保存確定」「切り抜き動画職人がアップを始めました」「これぞツンデレ」「ドジっ子属性まであるのか」「完璧すぎて怖い」やめろ、保存するな、切り抜くんじゃない。いや、わかっている、これは確実に切り抜かれる。むしろ、ミーナは最初からこの爆発的な反応を計算に入れていたのだ。俺は内心で頭を抱えながらも、リエラとしての気位を崩さぬよう、ぷいっと横を向いてみせた。


「うー……もういいわ、行くわよ、ミーナ!」

「仰せのままに」


 完璧な従者の微笑みを浮かべて立ち上がり、俺の隣に並び立つ。


「本日の予定は、『嘆きの石窟』三層の攻略でございますね」


 その言葉が発せられた瞬間、広場の空気がピリリと張り詰めたものに変わった。

 これは単なる顔見せのイベントではない。ここから、本当の冒険が始まるのだ。

 俺は傍らでぷかぷかと浮かぶ配信ポットを一瞥し、それから目の前の群衆を見渡し、最後にミーナの新装備へと視線を戻した。

 この数日間、この景色を作り出すため、ゲームの外、そして内側でも彼女は俺の知らないところで、血の滲むような準備を重ねてきた。ならば、俺も全力でそれに応えるのが筋というものだろう。


「さあ」


 俺はブロンドの髪を力強く払い、胸を張り、尻尾を優雅に揺らしながら、最高に不敵な笑みを浮かべた。


「リエラ様の冒険、一瞬でも見逃したら後悔させてあげるから」


 再び沸き上がる歓声、荒れ狂うコメント、そして俺たちの背中を追い始める配信ポット。

 こうして、のちに伝説として語り継がれることになる配信の幕が、静寂ではなく、未曾有の熱狂とともに切って落とされた。

本日はお昼と夕方、更新です。ストックが心もとないのですが頑張ります。

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