オフ会、汐見奈々美
鏡の前に立つと、まず視界に入ってくるのは自分の顔ではなく、光を受けて柔らかく反射するプラチナブロンドの髪であり、その長い束が肩から胸元へと滑り落ちながら、ほんのわずかな動きでもさらさらと音を立てる。
これが自分の一部であるという事実に、どうしても一拍遅れて実感が追いついてくる。
ドライヤーも整髪料も使わず、ただ下ろしただけの髪は、アバターのような完璧な整い方ではないにせよ、それでも光の角度によっては妙に艶めいて見えてしまい、その自然さがかえって現実味を増幅させてくるので、俺は思わず指を差し入れて軽くかき分けながら、その感触を確かめるように撫でた。
「髪型は、まぁ仕方ないか。着替えたけど……あってるかな」
小さく呟きながら、視線を落とすと、さっき届いたばかりの真新しい服が、まだどこか硬さを残した布の張りとともに身体に沿っているのが見える。
試着した時と同じはずなのに、実際に部屋の鏡の前で立っていると、その印象は微妙に違っていて、照明の色も、空気の匂いも、足元の感触も、全部がリアルであるせいで、逃げ場がない。
(マジで現実なんだよな……)
ブラウスにあるリボンがアクセントになって余計に胸のあたりに視線が吸い寄せられる。
Mカップ……衝撃的なサイズだったけど、ちゃんとサイズのあっている下着にしっかりと収めることができた。
思わず背筋を伸ばして胸を張ると、その瞬間に布越しでも分かるほどの存在感が前へ押し出され、重さと圧力が同時にかかるような感覚に、反射的に一瞬だけ呼吸が浅くなる。
「……主張強すぎだろ」
苦笑しながら、手で軽く押さえてみると、柔らかさと弾力が指先に伝わり、その生々しさに思わず視線を逸らしてしまう。
結論から言うと今日できたのはここまでだ、メイクは道具がなくて、ツインテールも髪ゴムを用意してなくて、まだ出来てない。ありのままの“美少女”だった。
アバターのような非実在的な輝きは少し削がれているが、それでも整った顔立ちとバランスの良い身体は十分すぎるほど目を引くものであり、これが街に出たらどうなるかくらい、想像しなくても分かる。
(……ロールプレイって言い訳、もう通じねぇな)
心の中でそう呟いた瞬間、逃げ道を一つ失ったような感覚があったが、それと同時に、妙に腹が据わる感覚もあった。
鏡の中の自分をじっと見つめる。
肩を引き、背筋を伸ばし、ほんの少しだけ顎を上げる。
その動作は自然とゲーム内のリエラの立ち方をなぞるような形になり、視線の角度や体の軸が、いつの間にか“彼女”に寄っていくのを感じる。
髪をフサッと手で払いながら、わざと少しだけ不遜に口角を上げる。
「ふん、リエラ様に任せなさい」
声に出した瞬間、自分の部屋の空気がほんの少しだけ揺れ、その声が壁に当たって返ってくるのを耳で拾ったとき、ゲームの中で何度も使っていた台詞が、現実の音として存在していることに妙な違和感と、少しだけの高揚感が混ざる。
(……いける……か)
何がいけるのか自分でもよく分からないが、とにかく一歩踏み出すしかない、という気持ちが胸の奥で形になった。
黒いマスクを手に取り、耳にかける。
布越しに自分の呼吸が少しこもる感覚があり、その温かい空気が頬に触れるたびに、自分が今から外へ出るのだという実感がゆっくりと染み込んでくる。
白のもこもこアウターを纏って靴を履き、玄関のドアに手をかける。
金属の冷たさが指先に伝わり、その冷たさを一瞬だけ握りしめるようにしてから、俺はドアを開けた。
「……さて、行くか」
外の空気は、まだ冷たくて、けれどどこか乾いていて、その匂いが一気に肺へ流れ込んでくると同時に、身体の内側が少しだけ引き締まる。
◇
待ち合わせ場所である池袋駅に降りた瞬間、まず耳に飛び込んできたのは、人のざわめきが幾重にも重なったような音の層であり、足音、会話、アナウンス、改札の電子音が混ざり合いながら、空気そのものが振動しているような感覚を伴って全身にぶつかってくる。
視界に入るのは人、人、人。
平日の昼間だというのに、流れるように動く人の波は途切れることがなく、その中に自分が立っているというだけで、身体の感覚が少しずつずれていくような錯覚がある。
そして――視線。
明確に感じる。
すれ違う人が一瞬こちらを見る、その一瞬がやけに長く感じられ、通り過ぎた後も背中に視線が残るような感覚が続く。
(これも……ちゃんと慣れなきゃな)
思わず肩をすくめそうになるのを堪えながら、背筋を伸ばし、視線を正面へ固定する。
「……女の子って、これ毎日やってんのかよ」
小さく息を吐きながら、周囲の視線を受け流すように歩く。
胸のあたりに視線が集まるのも分かるし、髪の色が珍しいのも分かるし、全体のシルエットが目立つのも分かる。
分かるからこそ、余計に落ち着かない。
(いや、マジで大変だなこれ……)
内心でぼやきつつも、歩みを止めるわけにはいかないので、改札近くの待ち合わせスペースらしき場所へ移動し、人の流れから少しだけ外れた位置に立つ。
深呼吸。
マスクの内側で自分の吐いた息が少しだけこもり、その温度が顔に戻ってくる。
そのときだった。
「リエラさん!」
明るく弾むような声が、ざわめきの中から真っ直ぐに届いた。
反射的に顔を上げ、声の方向を見る。
そこにいたのは――
「お、おお、ミーナ!?」
思わず声が出た。
人混みの中でもすぐに分かったのは、その雰囲気があまりにも“ミーナ”そのものだったからで、髪の色はゲーム内の鮮やかな赤ではなく落ち着いた茶色だったものの、整った顔立ちと、少し高めの身長、そしてこちらを見つけたときの表情の変化が、エタファンの妙なこだわりに感謝。完全に一致していた。
「え、すごい、ミーナの本物だ……!」
近づいてくる彼女を見ながら、思わずそんな言葉が漏れる。
(いや、当たり前なんだけどさ)
頭では分かっているのに、実際に目の前に現れると、その情報と感覚が一致しなくて、妙な違和感と興奮が同時に押し寄せてくる。
「それはこっちのセリフですよ……!」
ミーナは少し息を弾ませながら立ち止まり、俺の顔をじっと見つめると、目を大きく開いたまま信じられないものを見るように何度も瞬きをする。
「リエラさんこそリエラさんで一瞬でリエラさんってわかりました! ……リエラさん、本当に実在したんだ……」
その言葉に、思わず苦笑が漏れる。
なんどリエラ連呼するんだ……。
「いやまぁ、すっぴんだけどな」
軽く肩をすくめながらそう言うと、ミーナは一瞬ぽかんとした顔をしてから、次の瞬間にはぱっと表情を明るくした。
「すっぴん貴重で萌えます! まつ毛長い……かわいい、かわいい……!」
ミーナは鼻息荒く、ナチュラルに顔を近づけてくる。
「え、ちょ、ちょっと待てミーナそんなキャラなの!?」
思わず一歩下がりながら手を振ると、その動きに合わせて髪がふわりと揺れ、視界の端で金色が流れる。
周囲の人が何人かこちらを見る。
(やばい、目立ってる、めっちゃ目立ってる)
内心で慌てながらも、顔にはなんとか平静を装う表情を貼り付ける。
ミーナはそんなこちらの様子に気づいたのか、少しだけ笑いながらさらに一歩近づいてきて耳元で言う。
「……カフェ、行きませんか?」
その提案は、救いのように聞こえた。
「い、行く、今すぐ行こう!」
俺は即答しながら、周囲の視線から逃げるように一歩踏み出し、そのままミーナと並んで歩き始めた。
緑のロゴが印象的な、いかにもシアトル系の雰囲気をまとったカフェの自動ドアをくぐった瞬間、焙煎されたコーヒー豆の香ばしい匂いと、スチームミルクの甘く柔らかな湯気と、焼きたてのスコーンのバターの香りが重なり合った香りが気持ちを満たす。
俺は思わずふーっとため息と同時に肩の力を抜きながら「ようやく人間らしい場所に着いたな」と胸の奥で安堵の息をついた。
店内には平日の昼間とは思えないほどの人の気配があり、レジ前には数人が並び、壁際の席ではノートパソコンを開いて仕事をしているらしい社会人や、イヤホンをつけて何かを聞きながら本を読む学生が静かに時間を過ごしている。
カップがソーサーに触れる小さな音や、エスプレッソマシンが蒸気を吐く低い唸りが、さっきまでの駅の喧騒とは違う柔らかなざわめきを空間に作り出していた。
「はぁ〜……人混み、疲れた……」
席に腰を下ろした瞬間、俺は自然と背もたれに体を預けながら肩を落とし、マスクの内側にこもっていた熱い息をゆっくり吐き出して、そのままテーブルに肘をつきながら小さくそう漏らした。
慣れない靴で、慣れない服で、そして何より慣れない身体で池袋の人混みを歩くというのは、想像していたよりもずっと消耗の激しい行為で、足元にはじんわりとした疲労が溜まり、視線を感じるたびに無意識にキョドりそうになってしまう自分に、俺は内心で何度もツッコミを入れていた。
しかも、段差もない場所で何度か足を取られて転びそうになり、そのたびに体をぐらりと揺らしながら慌ててバランスを取り直した俺を、ミーナは横で軽く笑いながらもさりげなく腕を差し出してくれて、その自然な仕草に助けられつつも妙にトゥンクとしてしまった自分に、俺は「年下にエスコートされてるのどうなんだよ」と心の中で全力で突っ込んでいた。
「大丈夫ですか?」
ミーナが砂糖の袋を指先でいじりながら心配そうに覗き込んできたので、俺は暖かいカフェラテのカップを手に取りながら、苦笑いを浮かべた。
「大丈夫……と言いたいところだけど、正直ちょっと現実の難易度を甘く見てたわね」
そう言って一口飲むと、ミルクの甘さとコーヒーの苦味が舌の上で混ざり合い、喉を通る温かさともにさっきまでの緊張が少しだけほどけていくのを感じた。
ミーナはその様子を見て、少し安心したように微笑みながらストローを回し、テーブルの上に落ちた光を指でなぞるようにしながら小さく息をついた。
「私としてはもっと腕を組んでくれてても大丈夫でしたよ?」
その声には、単なる労い以上の何かが混ざっていて、俺はカップを置きながら自然と姿勢を整え、話の本題に入る覚悟を少しずつ整えた。
「えっと……なんだっけ?」
わざとらしく首をかしげながら聞くと、ミーナは一瞬だけ何かを考えて目を細めたあと、すぐに真面目な表情に戻って背筋を伸ばした。
「はい、本題はリエラさんの今後のことです」
その言葉に、空気が少しだけ引き締まる。
俺は頷きながら、彼女の顔を正面から見つめた。
「聞くわ」
そう言うと、ミーナは小さく息を吸い込み、膝の上で手を握りしめながら言葉を選ぶように視線を揺らしたあと、思い切ったように口を開いた。
「正直、リエラさんにひとめぼれなんです」
「ぶっ」
思わず吹き出しかけた俺は、慌てて口元を押さえながら前のめりになり、テーブルにぶつからないように肘で体を支えつつ目を丸くした。
「ご、ごめん、今のは反応しちゃうでしょ普通!」
「違います違います、そういう意味だけじゃなくて……!」
ミーナは顔を真っ赤にしながら手をぶんぶん振り、その勢いでカップがカチャカチャと音を立てた。
「えっと、どこから話そう……まず、自己紹介、そうだ自己紹介します! わ、私は汐見奈々美、大学一年で、学校では経営学を勉強しています!」
「ん? え、す、すごいね」
「私、Vtuberさんとか配信者さんの配信を見るのが好きで、このゲームもそういうのがきっかけで始めたんですけど……」
彼女は少し落ち着きを取り戻しながら、視線をテーブルに落としつつゆっくりと言葉を紡いでいく。
「私、それを見てるうちに、自分だけのハーレ……事務所を作りたいなって思うようになりまして……」
ん?今ナチュラルにハーレムって言いかけなかった?気のせい?指先で紙ナプキンの端を折りながら、ミーナは小さく息を吐いた。
「その夢のために動くのってずっと先になるのかなって思っていたんです……」
その言葉を聞きながら、俺は何も言わずにいた。
「でも、リエラさんを見た時に、私の運命の人はこの人だって思ったんです」
ミーナは顔を上げ、その目をまっすぐこちらに向けた。
「う、運命っっ!?」
「見た目もインパクトがあって、動きも独特で、やってることも普通じゃなくて、なのにちゃんと綺麗でかわいくて、何より見ていて飽きないんです」
「褒めてるのよね、それ?」
「褒めてます!」
即答だった。
ミーナはそのまま続ける。
「リエラさん、どうなるか予想できないから、見ていてすごく面白いんです。配信で見たら絶対に話題になるタイプだって思いました」
なるほど、と俺は心の中で呟いた。
NPCかどうか最初に確認した理由も、あの視線も、全部ここに繋がる。
「つまり、私をコンテンツとして見たってことね?」
俺が少しだけ意地悪く聞くと、ミーナは一瞬だけ言葉に詰まりながらも、逃げずに頷いた。
「……はい、でもそれだけじゃなくて、一緒に遊んでいて楽しかったのも本当です」
その一言で、俺は少しだけ肩の力を抜いた。
「で、結論は?」
俺がカップを指先で回しながら聞くと、ミーナはぐっと息を吸い込んでから、はっきりと言った。
「リエラちゃんねる、やりませんか?」
その言葉が空間に落ちた瞬間、周囲の音がほんの少しだけ遠くなったように感じた。
「配信チャンネルです。ゲーム内のリエラさんを中心にして、私が裏方とかサポートをやって、必要なら一緒に出て……」
ミーナは身を乗り出しながら、言葉に力を込める。
「今もう噂が広がってる状態だと思うんです、このままだと勝手に話が作られていくと思うので、それなら自分たちで発信した方がいいと思って」
確かに、と思う。昨日の闘技場の件。あの戦い方。あの見た目。つまり、すべて宣伝のためのパフォーマンスだったとしてしまう、そうなれば真偽を問う前にエンタメとして処理される。
どうせ、放っておけば噂で勝手に話が膨らむから先手を打つ……そんなところか……。
「……でも私、そんなにうまく喋れないわよ?」
俺が少し視線を逸らしながら言うと、ミーナは首を振った。
「そこも含めていいと思います、完璧じゃない方が見ていて親近感が湧くし、リエラさんの場合はそれ以上に見せ場がありますから」
「見せ場って言い方やめなさい、なんか動物園みたいになるから」
「ちょっと否定できないのがすごいです」
くすっと笑うミーナを見て、俺もつられて笑ってしまう。
怖さはある。
けれど、それ以上に少しだけ面白そうだと思っている自分がいる。
リエラとして動き、リエラとして見られる。
それを形にする。
「……考えさせて」
そう言いながら、俺はカップを持ち上げてもう一口飲み、その温かさとは別の熱が胸の奥から込み上げてくるものを感じた。
ミーナは俺のその表情を見て、小さく頷いた。
「はい、ゆっくりでいいです」
その穏やかな声を聞きながら、俺はカフェの空気をもう一度吸い込み、これからの選択肢の重さと、その先にあるかもしれない面白さを同時に感じていた。




