リエラのリアルはマジ重い。
ログアウトした瞬間、俺の口から出た第一声は、あまりにも情けなかった。
「ぷぇっ!」
VRMMOのダイブ機能をオフにすると、肺の中の空気が変な音を立てて押し出される。
仰向けの姿勢からなんとか体を起こす。実家の猫が2匹上に乗っていた感覚、それが常時。
「はぁ、お、おっっも……」
そのままベッドの上でうずくまる。
いや、何これ。重い。とにかく重い。何がって? 全部だよ全部。
まず、身体。
ゲームの中では軽やかに動いていたはずの手足が、現実に戻った瞬間、鉛でも仕込まれたみたいにずしりと沈む。筋肉がどうこうじゃない。単純に“重力を受けている”という事実が、全身にじかに伝わってくる感じだ。
そして――
「……これ、ほんとにどうにかならんのか」
正直元に戻るとか、そういうのはなんていうか諦めた。
ここまでゲームに現実逃避しといてなんだけど、女の子の体になった経緯もわからないし、何よりいつか元に戻る、という実感があまりにも得られなかった。
自分の胸元を見下ろす。
そこにある、明らかに“ある”もの。
ゲームの中でも大概だったが、現実はまた別方向でやばい。物理的な重みが、容赦なく肩と背中にのしかかってくる。寝転がっていても分かる。存在感が、強い。強すぎる。
「いやほんと……おっっも……」
さっきから同じことしか言ってないな俺。
でも語彙が消し飛ぶくらいには衝撃的なのだ。これを毎日背負って生きている人たち、本当にすごいな。
尊敬する。俺にはまだ早い。いや早いとかじゃなくて予定になかった。
天井をぼんやり見つめる。
現実の部屋だ。
見慣れたはずの天井。見慣れたはずの照明。なのに、そこにいる自分がまるで見慣れていない。視界の端に映る髪はプラチナブロンドで、肩どころか胸元を越えて流れている。
……うん。
もちろん何も解決していない。
ゲームの中ではいろいろあった。ネームド倒して、パーティ組んで、装備も整えて、なんかそれなりに“進んだ感”はある。あるんだけど――
現実の女体化問題、まるで解決していない。
「まあ、そうだよな……」
誰に言うでもなく呟く。
そりゃそうだ。ゲームの中でどれだけ頑張っても、現実の身体に補正が入るわけがない。そんな都合のいいシステム連動は存在しない。あったら怖い。
俺はゆっくりと起き上がる。
その動作ひとつで、身体のバランスがいつもと違うことが分かる。重心が前寄りになる。胸の重みがわずかに遅れてついてくる。慣れない。全然慣れない。歩くときとかどうなるんだこれ。いやもう歩いてるけど。
とりあえず、冷蔵庫へ向かう。
何か口に入れたい。
さっきまでゲーム内であれこれ摂取していたとはいえ、現実の身体は別だ。普通に腹が減る。むしろ、あのゴブリン味の記憶を上書きしたい。
冷蔵庫を開けると、ひんやりした空気が顔に当たる。ほっとする。中からゼリー飲料をひとつ取り出して、キャップを開ける。
「……はぁ」
そのまま、ちゅー、と吸う。
甘い。冷たい。美味い。
さっきのオレンジジュースとはまた違う、現実の味。人工的ではあるが、それでもちゃんと“食べ物”だ。喉を通るたびに、身体が「ああ、これこれ」と納得していく。
ベッドに戻って、背中から倒れ込む。
天井を見上げながら、ゼリーをちゅーちゅー吸う。
妙に満たされた気分だった。
ゲームの中で駆け抜けてきた一日。戦闘して、吸収して、ネームド倒して、パーティ組んで、バーで話して、装備整えて。レベリングだけしてた殺風景なこれまでを振り返れば、かなり濃い。
その疲労感が、今になってじわじわと押し寄せてきている。
だるい。
でも、このだるさは嫌いじゃない。むしろ心地のいいダルさだった。
「……あ」
ゼリーを吸いながら、ふと頭に浮かぶ。
「明日……じゃない、もう今日か」
ミーナとの約束。時計塔の下に10時。
「……ミーナ、10時からゲームやるのか」
改めて疑問が浮かぶ。
俺は身体を起こし、机の上に置いてあったスマホに手を伸ばした。
カレンダーを開く。
「月曜日……」
普通に考えれば、平日昼間だ。社会人なら仕事、学生なら授業。そして俺は有給消化。
そんな時間帯にログインしているということは――
画面に表示された日付。
まだ少し寒い、二月の初週。ミーナは俺と同じような立場か、夜勤か、シフトの休みか。
「ま、聞いてみるか……」
ミーナの事情は、本人に聞けばいい。
改めて見る、カレンダーの月曜日。
「普通なら絶望の日だな」
ぼそりと呟く。
月曜。仕事の始まり。社会人にとっては憂鬱の象徴。俺は来週まで持ち越し。
にやける。今の俺は天国モードである。
血尿滲ませながらノルマをこなして、ようやく勝ち取ったゲームをするためだけの2週間。
その初日に女の子になっていたというバグはあったものの、もうあと1週間、“休み”であることに変わりはない。
つまり。問題の先延ばし。考えなくていいことは考えない。これも社会を生きていく処世術だ。
有給残り5日、それはこの身体の問題も先延ばしに出来る期間でもある。
「まだまだいけるな」
10時ログイン、問題なし。
ゼリー……心許ないけど、栄養補助の目的のサラリーマン飯は通販すれば翌日には玄関先に届く。全く問題なし。
俺はスマホを置いて、再びゼリーを吸った。
◇
――翌日。
ログインした瞬間、まず感じたのは、軽さだった。
ああ、やっぱりこっちの方がいいな、と思う。
現実の重力から解放された身体は、まるで空気の中に浮かんでいるみたいに軽い。動きやすい。呼吸もしやすい。なにより、あの“ずしり”とした重みがない。
……いや、あるにはあるんだけど、ゲーム仕様でいい感じに調整されているのか、現実ほど主張してこない。ありがたい。非常にありがたい。
俺は時計塔の下に立っていた。
石造りの広場の中心、見上げれば大きな時計盤がこちらを見下ろしている。針はまだ10時の少し前。周囲にはちらほらとプレイヤーの姿があり、待ち合わせをしているのか、軽く手を振り合っている姿も見える。
その中に、赤い髪があった。
ミーナだ。
昨日と同じローブに、同じ杖。だが表情はずっと明るい。こちらに気づいた瞬間、ぱっと顔が綻んだ。
「リエラさん!」
軽く手を振る。俺もそれに応えて歩み寄る。
「おはよう、ミーナ」
驚いたのは昨日と打って変わって明るい表情だったことだ、花開く笑顔とはこのことかと思うくらい。
本当にお花が咲いたみたいに見事な笑顔だった。
「おはようございます!」
元気だなあ、と思う。
そして、その元気の理由はすぐに分かった。
「つかぬ事聞くんだけど、ミーナって月曜の朝10時だけど仕事とか……」
「あ、そっか、今は春休みなんですよ! 私、大学一年です!」
「JD1!!」
その輝かしい響きに反射的に叫んでしまった。中身おっさんなんだからこれくらい許してくれ!
「若い! 眩しい……!!」
両手で目を覆う仕草までしてしまう。いや別に本当に眩しいわけじゃないんだけど、なんかこう、概念としての“若さ”が直視できない。社会人の闇。
ミーナは一瞬きょとんとしてから、くすくすと笑った。
「え? ていうかリエラさんもそうですよね?」
「う、お、ん? ああ、そう、うん!」
咄嗟に頷いた。危ない。危機一髪だった。パーティ組んだ初日に年下女子に「やっぱなしで」って言われるところだった。
今の俺、外見的にはどう見ても同年代かそれ以下だ。ここで「いや三十手前の営業マンで」とか言ったら空気が凍る。というかそれ以前に信じられないだろう。セーフ。今のは完全にセーフ。
話題を変えるように、というよりずっとその話がしたくてそわそわしていたようにミーナが俺の全身を改めて見て、そして――
「装備変えたんですね!」
目を輝かせる。
「か、かわいい……!」
「でしょ?」
思わずドヤる。結構頑張って見つけたんだ〜、なんて付け加えちゃう。
「シスターですか? 尻尾がアクセントになってて……悪魔シスター?」
「まあ、そんな感じね、こう見えて防御力はあるの」
「へ〜……」
防御力の説明をするといろいろ面倒なので、ふわっと受け流す。
実際、尻尾とシスター風衣装の相性はかなりいい。黒と白の配色の中に、あのハート型の先端がぴょこぴょこ動くのは、たしかにアクセントとして優秀だ。
……由来はあまり考えたくないけど。
俺は軽く咳払いをして、話を切り替えた。
「改めて、よろしく」
「はい!」
ミーナが元気よく頷く。
そのまま、俺は時計塔から広場の外へと視線を向けた。
「まずはギルドにいこっか」
「はい」
「ミーナはゴブリンダンジョンの攻略を進めたいんだよね?」
昨日の話を思い出しながら確認する。
ミーナは少しだけ遠慮がちに頷いた。
「あ、はい! 嫌じゃなければ……」
「大丈夫!」
即答する。
「私もそのクエスト受けるわ」
昨日の時点で、ゴブリンの吸収は限界に達している。だがダンジョン自体の攻略はまだ途中だし、たまたま普段いないネームドが出て攻略が中断されてしまっただけで、奥にはボスだっている。パーティでの連携を試す意味でも、ちょうどいい。
「行くわよ、ミーナ!」
俺は足を踏み出した。新しい装備が、軽やかに揺れる。
チェーンベルトがかすかに鳴り、スカートの裾がひらりと動く。足取りは自然と軽くなる。昨日までの“初心者装備でぽよんぽよんしてたやつ”とは、少なくとも見た目は別人だ。
その隣に、赤いローブのミーナが並ぶ。
前衛と後衛。ヒーラーなし、支援なし。
歪な組み合わせかもしれない。
でも――
「一緒の冒険する友達がいるって悪くないわね」
小さく呟く。
ギルドへ向かう石畳の道を、俺たちは並んで歩いていった。




