し、仕方ないじゃない!初心者装備だったんだから!
街に戻る頃には、空はすっかり夜の色になっていた。
ダンジョンの出口から外へ出たとき、まず最初に感じたのは、空気の軽さだった。洞窟の中に満ちていた湿っぽくて重たい匂いが一気に剥がれ落ちて、代わりに草と土と、夜に冷え始めた風の匂いが胸いっぱいに流れ込んでくる。肺の奥まで、すうっと通る。ああ、外だ、と思う。たったそれだけのことがやけに気持ちいい。
見上げた空は、もう群青を通り越して、ほとんど深い藍色だった。遠くの雲の端に、かろうじて夕焼けの名残が薄く残っている。地平線の向こうで火が消えかけているみたいな、そんな色だ。街の方からは、ぽつぽつと灯りが見えた。門の上に掲げられたランタン、通りのあちこちに吊るされた魔導灯、窓から漏れるオレンジ色の光。昼間とは違う、夜の顔をしたレアルタが、そこにあった。
「……夜だ」
ぽつりと呟く。
その声音に、自分でも少し驚いた。なんだか妙に、感慨深い。
ここ数日――いや、何日目かもう怪しいんだけど――ひたすらスライムやゴブリンやウルフに向き合っていたせいで、“時間が進んでいる”という感覚そのものが薄れていた。ステータスばかり見て、ログばかり追って、気づいたら朝で、気づいたら夜で、でもそれをちゃんと一日の区切りとして受け止める暇がなかった。
今は、それが少しだけ戻ってきた気がした。
隣を歩くミーナの足音が、土の上で小さく鳴る。洞窟の中ではだいぶ参っていた彼女も、外に出てからは目に見えて呼吸が楽そうになっていた。とはいえ、まだ完全回復ではないのだろう。時々、肩を回すような仕草をしたり、胸元に手を当てて深く息を吐いたりしている。赤い杖を握る手にも、少しだけ疲れが残っているように見えた。
「大丈夫?」
門へ向かって歩きながら声をかけると、ミーナはこくりと頷いた。
「はい。だいぶ楽になりました。外の空気って、なんかすごいですね……」
「分かるわ。あの洞窟、空気がじめじめしすぎなのよ」
「あとゴブリン臭がすごかったです……」
「それも分かるわ」
即答すると、ミーナがくすっと笑った。
その笑い方に、さっきまでの死線の残り香みたいなものがもうほとんどないことに、俺は少しだけ安心する。助けた相手が、こうしてちゃんと笑えるところまで戻っていると、それだけで「ああ、無茶した甲斐はあったのかな」と思えるから不思議だ。
とはいえ、今はまだ感傷に浸るタイミングじゃない。
やることがある。
「とりあえず、ギルドね」
「はい」
俺たちはそのまま、並んで街の門をくぐった。
夜のレアルタは、昼より少しだけ賑やかだった。というのも、街路の両脇にある店々から、食べ物の匂いがこれでもかと漂ってきているからだ。焼いた肉の脂っこい匂い、スパイスの刺激的な香り、甘い焼き菓子みたいな匂い、香草を煮立てたスープみたいな匂い。それらが混ざって、腹の奥をじわじわ刺激してくる。
「美味しそ……」
思わず呟く。
「食べたいんですか?」
「え、あ、うん、少しね」
ミーナがそんな俺の声に反応して、微笑ましいものを見るような生暖かい目で見ている。
現実の腹が減っているのか、ゲーム内のシステムがそういう気分にさせているのかは分からない。でも、いまこの匂いの中に放り込まれるのは反則だろう。こっちはついさっきまでゴブリンの体液とかいう飲食に向かないものを喉に流し込まれてたんだぞ。せめてもう少し口直しの時間をくれ。
「何か買います?」
「ううん、いいわ」
危ない危ない。危うく「焼き串食べたい」とか素で言いそうになった。お嬢様ロールプレイ中にそれはだいぶ庶民的すぎる。いや、お嬢様だって焼き串くらい食べるかもしれないけど。どうなんだろう、知らんけど。
人通りを縫うようにして、俺たちはギルドへ向かう。
昼間と違って、夜のギルドはかなり騒がしい。扉を開けた瞬間、ざわめきと酒と汗と木の匂いがどっと流れ込んできた。カウンター前には列ができ、掲示板の周辺では数人が何かを話し込んでいる。椅子に座って休んでいるやつ、装備を見せ合っているやつ、クエストの報告らしきものをしているやつ。全体が少し浮き足立っている。
「……あ」
その中に、見覚えのある二人組がいた。
さっきダンジョンから逃げ出してきた連中だ。
革鎧に剣と短剣。顔を見ればすぐ分かる。あのときの「おい、逃げろ!」の二人だ。今はギルドカウンターの前で、かなり大きな声を上げていた。
「だからネームドだって! 本当にいたんだって!」
「トビートミーだよ、あのクソダーツ野郎! 聞いてねえって!」
ああ、うん、そりゃ騒ぐよな。
しかもデスペナ二倍、追い剥ぎありとかいう、聞いただけで嫌な響きの相手だ。
よくぞ逃げた。いや女の子置いてったのはどうかと思うけど。
俺は少しだけ足を速め、その二人の斜め横あたりまで進み出た。
「倒したわよ」
できるだけさらっと言ったつもりだった。だが、たぶん想像以上に声が通ったらしい。
周囲のざわめきが一瞬だけ薄くなる。
二人組が、ぎぎぎ、と音がしそうな勢いでこっちを向いた。
「「……は?」」
その顔に向かって、俺はインベントリからドロップ品を取り出す。
トビートミーの魔ダーツ。
「ほら」
掌の上に現れたそれは、普通のダーツよりも禍々しかった。金属部分は黒く、先端にはどす黒い光沢があり、軸の装飾も妙に悪趣味だ。見ただけで「嫌な効果あります」と主張している。
それを、見せる。
ーー瞬間。
「ひっ」
本当に、ひっ、と声が出た。
青ざめていた。二人とも、見事なくらいに。顔色がさっと引いて、目だけが必要以上に開く。ああ、これは相当やられたな。たぶん散々なぶられたんだろう。トビートミーのあの性格を思えば、容易に想像できる。
「ま、マジで……?」
「いや、え、でも……冒険者アカデミー一式?それ初期装備だよな……?」
そう、そこなのだ。
そのひと言をきっかけに、周囲の視線が一気に集まった。
ざわ、と空気が動く。
「初心者装備がどうしたって?」「え、ネームドを?」「うそだろ」
「でもダーツ本物っぽくない?」「隣の子、さっき二人組と臨時組んでたよな?」
ひそひそ、ひそひそと噂が広がる。いや、ひそひそっていう音量でもない。普通に聞こえる。みんなわりと遠慮がないな。
俺は一瞬だけ、自分の装備を見下ろした。うん。確かに見た目はかわいい、だがこの世界ではただの配布の初期装備。防御力のかけらも無い装備だ。
というか、防御力なんて、俺にはほぼ必要ない。実際、今までぽよんぽよよん弾いてきたから、装備を整える優先順位はかなり低かった。
だが――見た目というものは同時に説得力を生むために重要だ。
分かる。
初めての武器屋で買った毒針が楽しくて、気づいたらネームド倒してました、なんて説明されても、普通は理解が追いつかない。俺だって逆の立場なら、たぶん「はい?」ってなる。
「……そろそろ、防具くらいは買うか」
ぼそっと本音が漏れる。
見た目だけでも整えておいた方が、いろいろ楽そうだ。少なくとも「初心者装備がネームド!?」というざわつきは、多少マシになるだろう。たぶん。いや中身がだいぶおかしいから結局目立つ気もするけど。
このままだと、信用とか特にしてもらえなくて誰かがあの洞窟に調査に行くとかになりそうだ。それは無駄足になっちゃいそうだし……ここは……。
「そこの2人に、置き去りにされたあとも、ミーナが一生懸命削ってたわよ、ね」
やったのは俺だ。やったけど。でもミーナが削っていなければ、あそこまで長く持たせることもできなかっただろうし、そもそもトビートミーのダーツの情報だって彼女がくれた。何より、ひとりで必死に抵抗していたのだ。その事実は、ちゃんと形にしておきたい。
だから俺は、胸を張って言った。
「もう一度言うわね、ここにいるミーナが、火魔法でかなり削ってたから倒せたの!」
半分くらい、いや体感ではそれ以上にミーナの功績を盛った。
盛ったが、嘘ではない。たぶん。
ミーナが「えっ」とこっちを見る。目が丸い。ちょっと待って、みたいな顔だ。
だが、その顔より先に、周囲が反応した。
「おお……!」「パーティでやったのか」
「火魔法か、なるほどな」「すげえじゃん!」
自然と、拍手が起きた。
ぱち、ぱち、ぱち、と。最初はまばらだったそれが、少しずつ広がっていく。ギルドの中のあちこちから、素直な賞賛の音が混じる。
ミーナは完全に固まっていた。
赤い髪の先まで驚いているみたいな顔で、俺と周囲を交互に見ている。
「ふふん……」
小さく囁く。ミーナだけに聞こえるように。
「あなたも頑張ってたでしょう」
すると、ミーナの目が、ほんの少しだけ潤んだように見えた。
あ、やばい。こういうの弱いんだよな俺。やめろ、そんな素直な反応するな。こっちが気まずくなる。
「……ありがとうございます」
小さな声が返ってくる。
それに対して俺は、わざとらしく鼻を鳴らした。
「べ、別に! リエラ様だけでも十分倒せたけど!」
ツンデレお嬢様、便利すぎる。照れ隠しが全部キャラに吸収されていく。
ともあれ、ネームド騒ぎはこれでひと段落ついたらしい。二人組も、それ以上は何も言えない様子で、ただ魔ダーツと俺とミーナを交互に見ていた。
さて、と。
俺は気持ちを切り替える。
ゴブ素材。ウルフ素材。魔石。棍棒。爪。毛皮。その他もろもろ。
インベントリの中身は、数日分の狩でだいぶひどいことになっている。
そろそろ整理しないと本当に何が何やら分からなくなる。
「……換金だけして、とっとと出ましょ」
ミーナにそう言って、俺は買取カウンターへ向かった。
◇
換金作業は、ちょっとした作業ゲーだった。
カウンターの上に素材を並べる。店員NPCが確認する。値段が出る。売る。次。売る。次。
ゴブリン素材は数が多いぶん単価は安いが、まとまるとそれなりの額になる。ウルフ素材は数こそ少ないが、爪や毛皮の質がいいらしく、想像以上に高くついた。トビートミー由来の魔ダーツは、さすがに今すぐ売る気にはならなかったので手元に残す。あれはあれで、たぶん今後かなり便利な気がする。投擲スキルも手に入ったし。
合計金額が表示された瞬間、思わず口元が緩んだ。
「……うん、悪くないわね」
いや、かなりいい。
防具は買えそうだ。見た目用だけじゃなくて、ちゃんと選べるくらいには余裕がある。もっとも、俺の場合“必要性”という意味では優先度が微妙なんだけど。でも見た目は大事だ。ほんとに大事だ。今日のギルドの空気を味わって、改めて痛感した。
換金を終え、俺はインベントリを軽く整理してから、くるりと振り返った。
「じゃ、私はこれで――」
そう言いかけて、ミーナに手を振る。
すると、ミーナも手を振り返すのかと思いきや――そのまま、ついてきた。
「……」
俺が一歩進む。ミーナも一歩進む。俺が止まる。
ミーナも止まる。
「えっと……なに?」
思わず聞くと、ミーナは少しだけ視線を泳がせてから、意を決したみたいに口を開いた。
「あの、この先に私が行きつけのバーがあるんですけど……」
バー。その単語が耳に入った瞬間、俺の脳内で何かが弾けた。
そういえばこのゲームを開始して、まともに“街の時間”を過ごしていない。ずっと外で狩りしてログアウト。
街での滞在時間は数時間もないだろう。狩って、吸って、勝って、啜る。そんな生活ばかりだった。
そこに来て、バー、実際屋台の味も美味しそうだ、というかモンスターの味を作り込んでいるのに、飲食の味を作り込んでいないわけがない。つまり、ゲーム通貨で安らげる場所。
飲み物とか、食べ物とか、そういう文明の香りがする場所。
「え、なにそれ! 行きたい!」
食い気味だった。いや本当に食い気味だった。
自分でもちょっと引くくらい、前のめりに食いついた。お嬢様ロールとか、慎みとか、そういうの全部すっ飛ばして、ほぼ素の反応である。
ミーナが一瞬きょとんとして、それから吹き出した。
「……すごく行きたそうですね」
「そ、それは……まあ……ちょっとだけよ!」
ちょっとじゃない。かなり行きたい。
むしろ今この瞬間、脳内が「バーってどんな感じだろう」でいっぱいだ。
ギルドの喧騒の向こう、街の夜はまだ続いている。通りには灯りが揺れ、人の声が混じり、どこかでグラスの触れ合うような音も聞こえた気がした。
俺はミーナの横に並ぶ。
「案内しなさい」
できるだけお嬢様っぽく言ってみると、ミーナはまた笑った。
「はい、リエラ様」
その言い方に少しだけくすぐったさを感じながらも、俺は否定しなかった。
夜のレアルタの通りを、俺たちは二人で歩き出す。
焼けた肉の匂い。甘い果実酒みたいな香り。遠くで誰かが笑う声。
今日一日の――いや、ここ数日の全部が、ようやく“終わり”へ向かっていくような、そんな夜だった。
書き溜めたものを更新してます。少し長いですがお付き合いいただけると幸いです。




