針の筵
◇
蜘蛛の巣に囚われたのは、どちらだったのだろう。
細い糸を見せることもなく、ただ当たり前のような顔で、少女はそこにいた。
トビートミーは最初、自分が狩る側だと思っていた。
いや、実際そうだったはずだ。薄暗い洞窟の空洞。逃げ場の少ない地形。取り巻きのゴブリンたち。状態異常を仕込んだ魔のダーツ。壁際に追い詰めた魔法使いの少女。悲鳴も、焦りも、全て掌の上にあった。
なのに、気づけば糸は自分の周囲に張り巡らされていた。
それは本物の蜘蛛の糸ではない。もっと曖昧で、もっと悪質なものだ。
恐怖を感じさせないほど鈍い痛み。脅威に見えないほど地味な一撃。反撃の手応えを奪う柔らかな肉体。いつの間にか数を減らしていく取り巻き。そうして、自分だけがゆっくりと、だが確実に逃げ道を削られていく。
目の前の少女は、美しかった。
プラチナブロンドの髪は洞窟の蒼白い光を受けて淡く輝き、揺れるツインテールはこの陰湿な場所にまるで似つかわしくない華やかさを持っていた。華奢な肩。豊かな胸。小柄な身体。ぱっと見は、戦場に立つよりも絵本の中でお茶会でもしていそうな、可憐な少女。
だが、その実態は違う。
どれだけ殴っても表情を崩さず、どれだけ刺しても怯まず、むしろ近づけば近づくほど自分の方がじわじわと削られていく。まるで柔らかい沼だ。足を踏み入れたときは浅いと思っても、気づけば膝まで、腰まで、胸まで沈んでいる。這い上がろうとするほど、抜け出せなくなる。
トビートミーは、自分の息が浅くなっていることに気づいていた。
毒が回っている。
あの奇妙な針のせいだ。たった一刺し一刺しは取るに足らない。だが、確実に身体の自由を奪い、思考を濁らせ、怒りを焦りへと変えていく。
視界の端では、取り巻きのゴブリンたちが消えていった。ひとり、またひとり。あの少女の尻尾に喰われ、干からび、粒子になって散っていく。見慣れた死ではない。捕食だ。捕食者のそれだ。
なのに少女は笑うのだ。
尊大に、芝居がかった声音で、自分を「様」付けで呼ばせるような口調で。ふふん、と鼻を鳴らしながら。遊んでいるようにすら見えた。
トビートミーは、薄れる意識の中でようやく理解した。
これは、自分が相手の恐怖を味わわせていたつもりで、実際には最初から見定められていたのだと。
蜘蛛の巣に囚われた獲物は、最初から自分の方だったのだと。
喉の奥がひゅう、と鳴る。腕が重い。脚に力が入らない。それでも、最後の矜持のように、トビートミーはダーツを握りしめた。
せめて一矢。
せめて、この妙な少女の顔を歪めてやる。
最後の力を振り絞って、投げる。
細く鋭いそれは、空気を裂き、少女の胸元を狙って飛ぶ。
だが。
「無駄なんだから♡」
その声は、高らかで、どこか楽しげだった。
少女は躱さなかった。躱す必要すらなかったのだ。ダーツはその身体に触れた瞬間、まるで柔らかな果実に小枝でも当たったみたいに、勢いを失って落ちた。
そして少女は、にっこりと笑った。
眩いほどに。
洞窟の薄暗がりの中で、その笑顔だけが異様に明るく、あまりにも無邪気で、だからこそ残酷だった。
「あなた……ゲロ不味そうだけど食べてあげるわ……光栄に思いなさい」
最後に見たのは、その笑顔だった。
捕食者の笑顔だった。
◇
「……ネームド、うっっっっま!!」
いや、待て、味の話じゃない。
味だけで言うなら、たぶん最悪の部類だった。ゴブリン特有の鉄っぽさに、変な苦味と、薬臭さみたいなものが混ざっていて、喉の奥に直接流れ込んできた瞬間、「うわ、これ絶対に飲食物として想定されてないやつだ」と確信する味だった。なんなら途中で一回えずいた。えずいたけど、吸収自体は止まらない。理不尽。
でも、終わった瞬間にそれどころじゃなくなった。
システムログが滝みたいな勢いで流れてきたからだ。
《ネームドモンスター『トビートミー』を吸収しました》
《エクストラボーナス:HP+50、AGI+15、DEX+20》
《パッシブスキル『状態異常強化』を獲得しました》
《スキルツリー『投擲』を獲得しました》
《ドロップ:トビートミーの魔ダーツ》
《ゴブリンの吸収限界を迎えました》
《レベルが15に上がりました》
「多い多い多い多い!」
思わず声に出してしまう。
情報量が多い。というか一気に来すぎだ。もっとこう、順番に説明してくれない? こっちは今さっきネームドゴブリンを啜り終わったばかりで、心も喉も落ち着いてないんだけど。
しかもその最後にしれっととんでもないことが混じっている。
ゴブリンの吸収限界。
「あー……とうとうか」
ぽつりと呟く。
少しだけ名残惜しい気もする。いや、ゴブリンを飲みたいとかそういう話じゃない。できれば二度と飲みたくない。でも、ここまでずっと稼がせてもらった相手だ。廃村とダンジョン周辺のゴブリンたちは、間違いなく俺の成長を支えてくれた。
吸ってたのは俺だけど。
なんかもう感謝の方向性がだいぶおかしいな。
俺は一度大きく息を吐き、視界の端に浮いている半透明のステータスウィンドウを開いた。
リエラ Lv15
HP 932
MP 102
STR 9
VIT 244
AGI 77
DEX 38
INT 11
「……うん」
思わず、満足げに頷いてしまう。
強い。
いや、バランスはめちゃくちゃだ。相変わらずSTRは9で泣けるほど低いし、INTはまるで伸びていない。魔法職の芽はほぼ摘まれていると言っていい。
でも、硬い。速い。前より器用になっている。
VIT244という数字はもはや意味が分からないし、HPも低レベル帯としてはどう考えてもおかしい。AGI77とDEX38も、さっきまでの“ちょっと動けるようになった”どころじゃない伸び幅だ。
「……やばいな、これ」
口元が緩む。
ネームド、うまい。
比喩じゃなく、報酬がうますぎる。
いや味はまずかったけど。ほんとにそこだけは訂正しておく。味覚的なご褒美はゼロだった。むしろマイナス。でも、そんな不満が一瞬で吹き飛ぶくらい、ログが豪華だ。
状態異常強化。
投擲スキルツリー。
魔ダーツ。
「……完全に、あいつの能力ごっそりいただいた感じだな」
ちょっと申し訳ないくらいだ。いや別に申し訳なくはないか。あいつ、だいぶ趣味が悪かったし。
足元では、トビートミーだったポリゴンの粒子がもうほとんど消えかけていた。青白い光の破片が宙を漂い、やがて洞窟の湿った空気に溶けるように霧散していく。その様子を眺めながら、俺は一瞬だけ、奇妙な静けさを感じた。
ついさっきまで、あれだけ騒がしかったのに。
周囲のゴブリンたちは、ネームドが消えたせいか、それとも俺が吸い尽くしたせいか、ほとんど残っていない。棍棒がぶつかる音も、わめき声も消え、残っているのは天井から滴る水音と、自分の呼吸だけだった。
そこで、はっとする。
「あ」
そうだ。女の子はどうなった!?俺はくるりと振り返った。
壁際にいた赤髪ロングの少女は、まだそこにいた。杖を胸元に抱えるようにして立っているが、さっきよりは少しだけ肩の力が抜けている。ただし、その顔には困惑と警戒と疲労がまだ色濃く残っていた。
まあ、そりゃそうか。
目の前で名乗りを盛大に滑らせたうえ、ネームドゴブリンを尻尾で吸って「うま!」とか言ってる美少女初心者装備。どう考えても情報量が暴力だ。
「……えっと」
さすがに、今度は落ち着いて話そう。
俺はポイズンニードルを腰に戻し、できるだけ穏やかな顔を作って彼女に歩み寄った。
近づいてみると、改めてよく分かる。
女の子は整った顔立ちだ。目鼻立ちがすっきりしていて、さっきは青ざめていたせいで分かりづらかったが、元の印象はかなり華やかだ。赤い髪は腰近くまであって、動くたびに毛先が揺れる。瞳も赤みがかった琥珀色で、持っている杖は先端に赤い石が嵌め込まれている。マントも赤。ローブの差し色も赤。
「……赤が好きなの?」
気づいたら、口から出ていた。
いや何を聞いてるんだ俺は。さっきまで死にかけてた子に第一声がそれってどうなんだ。絶対もっと他にあるだろ、「大丈夫?」とか「怪我は?」とか。
だが少女は、ぱちぱちと瞬きをしてから、少しだけ間の抜けた顔で答えた。
「あ、いえ、好きは好きですけど……火魔法の強化のためっていうか……」
言いかけて、はっとしたように首を振る。
「い、今そんなことどうでもいいです!」
「そうね、そうかもしれないわね!」
思わずツッコミ返してしまう。
やばい。会話のテンポが妙にいい。いや、よくないか。助けた直後にする会話じゃない。
少女は慌てて姿勢を正し、杖を抱え直した。まだ少し足元がおぼつかないが、それでもまっすぐ俺を見てくる。
「えっと……助けてくれて、ありがとうございます……私はミーナです」
ミーナ。似合っている名前だ、と思った。
炎みたいな髪色に、真っ直ぐな声。少し慌て者っぽいけど、土壇場まで抵抗していたあたり、根性はあるのだろう。そして、ここで俺も名乗るべきだ。
今度こそ、ちゃんと。
俺は胸を張った。もう習性みたいなものだ。お嬢様ロールプレイのスイッチが入ると、勝手に背筋が伸びる。
「私はリエラよ」
少しだけ顎を上げて、ツインテールを揺らしながら言う。よし、今度は滑ってない。たぶん。ミーナも今度は悲鳴を上げなかった。成長だ。何のだ。
「これからどうするの?」
そう続けて、周囲を軽く見回す。
足元にはゴブリン由来の素材がちらほら残っている。魔石、布切れ、棍棒みたいなゴミ、あといくつか売れそうな小物。インベントリの表示でも、かなり素材が増えているのが分かる。
「私は、かなりゴブの素材が取れちゃったから、街に帰ろうかと思うけど」
言ってから、自分でちょっとおかしくなった。
かなり、どころじゃない。
だいぶ取れた。というか取りすぎた。ダンジョン前の廃村と合わせて、たぶんしばらくはゴブリンを見たくないレベルだ。吸収限界も来たし、もう当分はゴブリン味の人生である。いや、人生にゴブリン味とかあってたまるか。
ミーナは、俺を見た。
それも、さっきまでとは少し違う視線で。
まだ困惑はある。あるが、それに混じって好奇心もあるようだった。そりゃそうだ。初心者装備でネームド処理して、ダーツ弾いて、ゴブリンを吸って、しかもツンデレお嬢様ロールプレイの美少女。自分で言ってて意味が分からない。ミーナの脳もだいぶ処理が追いついていないだろう。
洞窟の湿った空気の中で、俺たちは向かい合って立つ。
よく見ると、ミーナは俺より背が高かった。
しっかり姿勢を正した彼女の肩くらいに、俺の目線がくる。なんか、悔しい。いや悔しくはないんだけど、ちょっと「おお」ってなる。リエラ、小さいな。可愛いけど。いや自分で言うな。
ミーナの赤い杖の先で、嵌め込まれた石が微かに光を残していた。さっきまで火球を撃っていた名残だろう。焦げたような匂いが、彼女の周りだけ少し残っている。その匂いと、洞窟の湿った土臭さが混じって、不思議な空気を作っていた。
静けさの戻った空洞で、俺は次の言葉を待った。ミーナがどう答えるのか、それを少し楽しみにしながら。
書き溜めていたものを更新してます。少し長いですがお付き合いいただけると幸いです。




