メメント、モメント
現実と虚構が混ざり始めているのだと、最初は単純にそう考えていた。
ゲームの中にしか存在しないものが現実へ漏れ出し、その影響を受けた私自身も、少しずつゲーム内のリエラへ引っ張られている。現実で尻尾が生えたことも、アバターの身体感覚が日に日に自然なものとして馴染んでいくことも、すべてはその延長線上に起きている現象なのだと、自分なりに納得していたのだ。
けれど、ティアと話し、この部屋で忘れていた記憶の一端を取り戻した今となっては、その認識そのものが違っていたのではないかと思い始めている。
もしかすると、順番が逆なのだ。
エターナルファンタジアオンライン。私達がこれまで何の疑いもなくゲームとして遊んできたエタファンという世界は、何かが現実へ漏れ出す原因なのではなく、むしろ本来は外にあった何かを閉じ込めておくための――巨大な『檻』なのかもしれない。
もちろん、今の私にそれを証明する手段はない。ただの思いつきや妄想だと言われてしまえば、それまでの仮説だ。
それでも、エタファンという世界の中に何かが封じ込められていると考えれば、これまで私達が遭遇してきた不可解な現象のいくつかには、少なくとも筋が通る。
魔王と呼ばれていた存在や、その力を構成しているらしい『因子』。誰のものなのかも判然としない古い記憶に、ティアが語った、本来の在り方を削られ、別の姿や役割へ押し込められた存在達。
ゲームはただの遊び場ではなく、ひとつの世界という形を与えられた檻であり、レベルやスキル、発動条件やクールタイム、ボスやNPCといった明確な役割そのものが、そこに閉じ込められたものを扱いやすい形へ固定するための鎖として機能している。
今のところ、それが私のたどり着いた仮説だった。
そして、ティアも私も、その『檻』とは別の場所にいるからといって、完全に自由というわけではない。
ティアは自分のことを、現実側に残った『暴食の影』だと言った。
グラティアそのものではなく、記憶も力も名前さえ欠け落ちた存在。器であり、残り香であり、逃げ道であり、失敗作でありながら成功例でもあるという、聞けば聞くほど輪郭の曖昧な存在だった。
実際に現実で出会った彼女は、第50階層にいた暴食の黒姫とはまるで違っている。
どこか似た空気を纏ってはいても、好きなだけ美味しいものを食べ、店員さんへきちんと礼を言い、気に入ったカフェを巡りながら暮らしている、少し変わった大食いの少女にも見えた。
ならば、私は一体何なのだろう。
今日思い出した記憶を信じるなら、私は小田山健二という人間そのものではなく、どこかからこの部屋へ逃げ込み、黒い種を使うことで現実へ残った『何か』だ。そしてその後、小田山健二の記憶を自分自身の過去だと思い込みながら、リエラという名前でエタファンへ入り、今度は魔王の因子へ次々と触れ始めたことで『自分』を取り戻しつつある。
そう考えると背筋が冷えるのに、不思議なことに、胸の奥ではすとんと腑に落ちてしまう部分もあった。
そこまで考えたところで、今度は別の疑問が浮かんでくる。
本人達がそうとは知らないままゲーム内で選んだ役割や、現実で偶然知り合った仲間。生まれ持った性格や才能、得意とする戦い方、そして手にしたスキルまで、そのすべてを本当に偶然の積み重ねだと言い切っていいのだろうか。
ミーナが得意とする炎の魔法も、ネネの影へ溶け込むような身軽さも、ミルキーが何より信頼している大盾もそうだ。クレアという不思議なNPCの存在や、遠い過去の記録に登場したカトリーヌの名を冠する装備だってある。
ひとつひとつを単独で見れば、どれもゲームらしい設定として片づけられる。
それなのに、私達が深いところへ踏み込むほど、そうしたものが過去の記録と何度も重なってくる。ここまで繰り返されると、偶然だと考えるより、何かが明確な意図を持って同じ場所へ配置したのではないかと疑いたくなってしまう。
それが、エタファンだけの話ではない可能性さえある。
この世界には無数のゲームがあり、無数の物語が存在している。人がフィクションや異世界と呼んでいるものさえ、本当はどこかで同じ何かへ繋がっていて――そこまで考えかけたところで、私は小さく首を横へ振った。
「……いや。さすがに、今はそこまで考えなくていいか」
いくらなんでも話を広げすぎだ。今の私には、世界全部の正体を考察できるほどの材料など揃っていない。
まずは自分の足元を確かめるべきだし、そのために次にやるべきことなら、もう決まっている。
エタファンへ戻って、魔王の因子を追う。記憶そのものを取り戻す。
「……リエラさん」
埃っぽい静寂の中へ、すぐ隣からミーナの声が入り込み、私は長く沈み込んでいた思考からようやく現実へ引き戻された。
私を1人でここへ来させることを断固として拒否し、過保護を発動したまま付いてきてくれた相棒は、古いフローリングへ座り込んだ私のすぐ隣で膝をつき、何も急かさずにこちらを見守っている。
「ミーナ……これ、見て」
私は、小田山健二が暮らしていた部屋の隅から拾い上げた黒い種を、そっと彼女へ差し出した。
小さく、硬く、冷たい、正体不明の欠片。
ミーナもそれが何を意味するのか察したのだろう。小さく息を呑み、壊れ物へ触れるように慎重に指先を伸ばしてくる。
けれど、その手が届くよりも僅かに早く、私の掌の上からさらさらという微かな感触が伝わってきた。
「え……?」
ついさっきまで石のように硬かったはずの種が、何の前触れもなく形を失っていた。
黒い殻は細かな砂のように崩れ、私の指の隙間を抜けながら古いフローリングへ静かに零れ落ちていく。その光景は、地下作戦室で私達が見た『発芽済み』の種が崩れた時と、あまりにもよく似ていた。
「……崩れちゃった」
それ以上の言葉が出てこなかった。
ミーナもすぐには何も言わず、私の掌に残った黒い煤のような汚れを見つめている。やがて鞄から白いハンカチを取り出すと、種の正体を確かめることより先に、私の手をそっと包み込んだ。
「少し、じっとしていてください」
「……うん」
柔らかな布が指の間を通り、黒い汚れを丁寧に拭い取っていく。
どこまでも過保護で、それ以上に温かい手だった。
私はされるがままになりながら、その温度をじっと感じていた。
古い部屋へ染み付いた埃の匂いも、暖房の入っていない床から伝わってくる冷たさも、指先に触れるミーナの体温も、すべてが紛れもなく現実のものだ。この部屋で小田山健二が確かに生活していて、今はもうここにいないという事実も、どれだけ世界の裏側を知ろうとしたところで消えてなくなるものではない。
私も同じだ。
どこから来た何者なのか分からなくても、今は現実の身体でここに座り、現実の空気を吸っている。そして、小田山健二の人生を自分のものだと思い込んでいたことに、確かな罪悪感を覚えている。
そうして現実の感触へ意識を戻してみると、ティアが話していた『制限』という言葉も、少し違った意味を持って感じられた。
ゲームの中では、レベルやスキル、発動条件といった分かりやすい形で『できること』と『できないこと』が区切られている。一方の現実にも、身体の限界や生活、お金、社会、人の目といった別の枠組みがあり、誰かを巻き込みすぎずに生きるための距離や、自分自身を自分として保つために踏み越えてはいけない境界線まで存在している。
ティアは、もしかするとあれでいいのだろう。
現実側へ残った暴食として、美味しいものを好きなだけ食べ、気に入ったカフェを巡り、綺麗に皿を空にして満足そうに笑う。魔王や勇者の過去を今すぐ全部知ろうとはせず、この世界で許されている自分の形を受け入れて生きていく。
檻から逃れたものが、檻の外で静かに暮らす。
それは決して間違った選択ではないし、むしろ賢い生き方なのかもしれない。
でも、私は同じ道を選べそうになかった。
「……私は、あの世界に戻る」
ミーナに綺麗に拭ってもらった掌を見つめながら口にすると、すぐ隣にいる彼女の視線が私へ向いた。
「戻って、今まで以上に介入してみる。……ううん、せっかくここまで来たんだもの。これからもっと、ますます介入してやるわ」
もし本当にエタファンが巨大な檻なのだとしたら、その中に何が封じられているのかを自分の目で確かめたい。
誰が、何のために閉じ込めたのか。魔王とは何者で、勇者とは一体何だったのか。そして何より、そこへ惹きつけられるように戻ってきた私は何者なのか。
今度こそ、目を逸らさずにひとつずつ確かめたいと思った。
そのための手掛かりなら、少なくともいくつかはもう私の中にある。
【憤怒】は、《ベルセルク》と《ブラッド・リベリオン》という形で現れた。【暴食】はグラティアを《捕食》したことで手に入り、【色欲】についても、私がサキュバスとして持っている『誘惑』という性質と完全に無関係だとは思えない。
ただし、それらが本当に同じ『魔王の因子』という括りで考えていいものなのかさえ、現時点ではまだ確定していない。
だからこそ、もっと確かな因子へ触れたいと思った。
別の魔王を見つけ、そこに残っているものを確かめたい。それは単純に強くなるためでも、ゲームの中で魔王らしいロールプレイを完成させるためでもない。
彼らが残した記憶へ触れ、檻のさらに奥へ進み、自分の中から抜け落ちている輪郭を少しずつ取り戻すためだ。
「……必ず、集めてみせる」
声に出して決意を形にすると、胸の奥に小さな熱が灯った。
怖さが消えたわけではないし、小田山健二に対する罪悪感は、この部屋へ来る前よりずっと重くなっている。
それでも、立ち止まりたいとは思わなかった。
むしろ、断片的な真実へ触れてしまったことで、私は以前より遥かに強く答えを欲しがっている。
グラティアが笑っていた穏やかな茶会も、古びたオルゴールも、リリスが倒れていた遠い戦場も、現実にいたティアも、小田山健二も、黒い種も、すべてが私の中に残っているのに、肝心なところだけがまだ繋がってくれない。
だから、その空白を埋めたい。
もっと知りたいし、忘れていることをもっと思い出したい。誰かから与えられた答えではなく、自分自身の記憶として取り戻したい。
そんな思いを辿っているうちに、ふと胸の奥へ別の言葉が浮かんだ。
――もっと、食べたい。
知りたいという渇きが、いつの間にか『食べる』という感覚に置き換わっていたことに気づいて、私は少しだけ息を詰めた。
知識を得ることも、誰かの記憶を取り込むことも、その人が持っていた力を自分の中へ残すことも、今の私には同じ『食べる』という感覚へ繋がり始めている。
これがグラティアから引き継いだ《暴食》の影響なのか、それとももっと昔から私自身に備わっていた性質なのかは分からない。
ただ、この感覚を何も考えずに受け入れることが危険だということだけは理解できた。
だから、先にルールを作ったのだ。
私1人では止まれなくなった時にはミーナに止めてもらうし、ネネやミルキーにも遠慮なく引き戻してもらう。それは何も知らないまま安全な場所に留まり続けるためではなく、自分自身へ戻るための道を残したまま、もっと深い場所まで進んでいくための約束だ。
「……よし」
長く座り込んでいた床から、私はようやく立ち上がった。
まだ少しだけ脚に力が入り切らず身体が揺れたけれど、すぐにミーナが手を伸ばし、私の手をしっかりと握って支えてくれる。
その真っ直ぐな瞳を見た瞬間、胸の中にもうひとつ、さっきまでとは違う決意が生まれた。
ここまで一緒に来てくれた彼女なら、もう話してもいいのかもしれない。
私は長い間、自分自身がこの部屋の主だったと思っていた。
『小田山健二』という男が何らかの理由で女の子になり、いつしかリエラになったのだと本気で信じていた。
けれど、今日取り戻した記憶はその認識を根底から覆している。
私は外からこの部屋へ逃げ込んできた。その時にはすでに、小田山健二は私がどれだけ呼びかけても応えてくれず、追われていた私は生き残るために黒い種を使った。そしてその後、何が起きたのかはまだ分からないものの、彼の記憶を自分自身の人生として抱えるようになった。
どんな形であれ、種は成った。
成ってしまった。
「ミーナ」
「はい?」
握られた手へ少しだけ力を返しながら、私は一度だけ迷ってから口を開く。
「後で……少しだけ、聞いてくれる?」
「何を、ですか?」
「私の昔の話。たぶん……私にとって、一番最初の秘密」
ミーナは僅かに目を見開いた。
「もちろんです」
ただそう言って、柔らかく微笑む。
その笑顔だけで十分だった。
もう、この部屋に長く留まる必要はない。
始まりへ繋がる最初の欠片は拾うことができたのだから、次にやるべきなのは、この場所で過去だけを眺め続けることではなく、もう一度あの檻の中へ戻り、その続きを探すことだ。
私は玄関まで歩き、ドアノブへ手を掛けたところで、一度だけ部屋を振り返った。
小田山健二が暮らしていた部屋は、私達が入ってきた時と何ひとつ変わらず、静かなままだった。
そこに、自分の故郷へ帰ってきたような懐かしさはない。
それでも、ここが今の私へ繋がる大切な場所だということだけは、もう分かっている。
「……行ってくるね」
自然と、小さく頭を下げた。
返事なんてあるはずもないのに、それでも今は、黙って出ていきたくなかった。
エタファンが何なのかも、魔王が何者なのかも、あの種にどんな意味があるのかも、そして私自身がどこから来た何者なのかも、いつか全部分かったらもう一度ここへ戻ってきたい。
「ケンジ……ちゃんと話、してみたかったな」
初めて、小田山健二という名前を、自分の昔の名前ではなく、ここで生きていた別の誰かの名前として口にした。
彼は、どんな人だったのだろう。
お金持ちになりたかったのかもしれないし、もっと好きなゲームを遊び続けたかったのかもしれない。あるいは、読んでいた物語の主人公みたいに、退屈も嫌な仕事も全部忘れてしまうほど、とんでもなく楽しい人生を一度くらい送ってみたかったのかもしれない。
私は彼の記憶を持っていたはずなのに、今となってはその答えをほとんど思い出せない。
だからこそ、いつか自分自身のことを知るのと一緒に、小田山健二という1人の人間についても改めて知りたいと思った。
その時だった。
『だはは。いや、もう充分だよ。楽しかった』
「……え?」
ふいに、そんな声が聞こえた気がした。
耳元から聞こえたわけではない。
記憶の奥から浮かび上がった言葉なのかもしれないし、今の私が罪悪感から都合よく作り上げただけの声なのかもしれない。
それでも、その声には不思議なくらい重さがなかった。
どこまでも愉快で、気がよくて、何か失敗したって最後には笑い飛ばしてしまいそうな、聞いているこちらまで少しだけ笑いたくなる声だった。
私はしばらく何も言えないまま部屋を見つめ、それからゆっくりと目を閉じた。
(……もし私が何者なのか分かったら、また来るね。その時は、私の記憶としてじゃなくて、ちゃんと『小田山健二』のことを知りたい)
自分が持っていた記憶だけではない。
彼が誰と話し、何を好きになり、どんなことをして笑っていたのか。
いつか、そういうものをひとつずつ知ることができたらいい。
(それまで、少し休んでて)
目を開け、今度こそ扉を静かに閉じる。
鍵を回すと、かちりと小さな音が鳴った。
アパートの共用廊下には冷たい夜の空気が流れ込み、街の明かりが建物の隙間から淡く差し込んでいる。
「リエラさん」
隣に立ったミーナが、私の手をそっと取った。
「手、冷たいですね」
「……ミーナの手が温かすぎるのよ」
「でしたら、ちょうどいいですね」
そう言って彼女は、握った手へ少しだけ力を込める。
私は今度は何も言い返さず、その温度へ素直に手を預けた。
ミーナと並んで夜道を歩き始める。
もう一度檻の中へ戻り、その奥へ進んでいくつもりではいるけれど、その前に私は現実へ帰る場所を持っている。
隣を歩いてくれる人がいて、自分が何者なのか分からなくなったとしても、今ここにいる私をリエラとして見てくれる相手がいる。
それを忘れずにいられるうちは、たとえどれだけ深いところへ踏み込んだとしても、きっと帰ってこられる。
胸の奥では、またあの壊れかけのオルゴールが微かに鳴っているような気がした。
ちりん、ころん、と遠い過去から続いてきたその旋律は、今ではもう私を昔へ引き戻すだけの音ではない。
ーー行ってこい、リエラ。
まだ何ひとつ答えの見えない道の先へ、それでも自分の足で進んでみろと、静かに背中を押してくれているように聞こえた。




