『dear...』
小田山健二の部屋を後にしてから、ミーナのマンションへ戻るまでの道のりは、行きよりもずっと長く感じられた。
電車はいつもと変わらない単調な揺れを繰り返し、夜の暗い窓ガラスには、向かい側の座席と並んで私自身の顔がぼんやりと映っている。街の明かりが横切るたび、その輪郭だけが何度も浮かんでは消え、その奥では、もう手元にはないはずの壊れかけたオルゴールの旋律が微かに鳴り続けているような気がした。
エタファンという世界は、一体何なのか。
そして、その世界へ戻ろうとしている私は、本当は何者なのか。
考えても答えは出ない。それでも、小田山健二が暮らしていたあの埃っぽい部屋を思い出すと、胸の奥には罪悪感とも寂しさとも言い切れない感情が静かに残っていた。
(ケンジ……もし、いつか私が何者なのか本当に分かったら、あの部屋でもう一度ゆっくり話そうね)
今度は、彼の記憶を自分自身のものとして思い出すのではなく、小田山健二という1人の人間について知ったうえで。
(それまで、少し休んでいて)
そんなことを心の中で考えながら、ふと隣へ視線を向ける。
ミーナはスマートフォンを眺めていた。けれど、何かに集中しているというより、私が話したくなった時に邪魔をしないよう、あえていつも通りに振る舞ってくれているようにも見える。
その横顔を見ているうちに、さっき部屋を出る前に口にした言葉が、もう一度胸の奥から浮かび上がってきた。
「……ミーナ」
「はい?」
呼びかけると、すぐにこちらを見る。
「昔話……今、してもいい?」
ミーナは一瞬だけ目を丸くした。
それから膝の上に置いていたスマートフォンの画面を伏せ、身体ごとこちらへ向き直る。
「もちろんです」
それだけだった。
急かすことも、身構えることもない。
私は小さく息を吸った。
何から話せばいいのか分からなかったから、一番最初に自分が信じていたことから話すことにした。
「私ね、ずっと……自分が『小田山健二』っていう男の人だったんだと思ってたの」
「……はい?」
さすがのミーナも、そこだけは理解が追いつかなかったらしい。
私はこれまでの経緯を話した。
ミーナは驚いた顔のまま、それでも途中で口を挟まなかった。
小田山健二としての記憶が、日に日に薄れていったこと。昔の生活を思い返そうとしても、自分の過去というより、誰かから預かったアルバムを眺めているような距離を感じるようになったこと。
そして何より、男から女の子の身体へ変わったはずなのに、その変化自体へ強い違和感を覚えなかったこと。
「エタファンで、リエラでの活動が増えれば増えるほど、むしろ『元に戻ってる』って感じがしてたの。普通なら逆だと思うんだけど、自分が別人になっていく怖さより、やっと自分の身体に戻ってきたみたいな感覚の方がずっと強かった」
そこまで話したところで、喉が少し詰まった。
この先は、さっき自分自身がようやく思い出したばかりのことだ。
「今日、あの部屋で……少しだけ思い出した」
窓の外を街灯が横切り、一瞬だけミーナの表情を白く照らした。
「私があの部屋へ逃げ込んだ時には、ケンジはもう……私がどれだけ呼んでも返事が出来る状態じゃなかった」
それ以上を細かく説明する必要はなかった。
ミーナの瞳が、ほんの僅かに揺れる。
「私は何かから逃げてた。どこから来たのかも、何から逃げてたのかも、まだ思い出せない。でも、とにかく生き残るために、この現実に留まるための『器』が必要だったみたいで……」
「その器が……健二さん、だったんですか?」
「うん」
私は自分の胸元へ手を置いた。
「少なくとも、今思い出せてるところまではそう。あの部屋で種を使った。その後に何が起きたのかはまだ分からないけど、気づいた時には私はケンジの記憶を持っていて、それを全部、自分の人生なんだと思っていた」
電車が緩やかに揺れ、レールの継ぎ目を越える音が足元から響く。
自分の口で説明しているうちに、改めてその異常さが胸へ沈んできた。
「だから、私……」
何を謝ればいいのかも、もうよく分からない。
それでも自然と、言葉が漏れた。
「……ごめん」
「どうしてリエラさんが謝るんですか?」
返ってきた声は、思っていたよりずっと普通だった。
「だって、私はケンジを自分のものにして、ずっとその人生を――」
「でも、私がリエラさんと初めて会った時から」
ミーナは強い口調ではなく、それでも私の言葉を止めるように静かに続けた。
「リエラさんは、ずっとリエラさんでしたよ?」
「……え?」
「むしろ、えっと……ごめんなさい。健二さんだった頃のリエラさんを、私は知りません」
あまりにも当たり前のことを言うような口調だった。
「私が知っているのは、調子に乗るとすぐ無茶をして、怖い時は分かりやすく顔に出て、変なところでお人好しで、攻略に夢中になると周りが見えなくなるリエラさんです」
「後半、ちょっと悪口混ざってない?」
「全部事実です」
「否定できないのが悔しい……」
思わず笑ってしまった。
ミーナもほんの少しだけ口元を緩め、それから改めて私を見る。
「だから、健二さんがリエラさんだったとしても、最初から別の人だったとしても、私にとってはそこが変わったからといって何も変わりません。私は『小田山健二さん』と出会ったことがないので、比べようもありませんし……」
その言葉は、慰めようとして無理に優しいことを言っているようには聞こえなかった。
本当に、彼女にとってはそれだけなのだ。
「私にとって、リエラさんがリエラさんであることは、今までと何も変わらないです」
「……ミーナ」
「そうですね……」
そこでなぜか、ミーナは少し考えるように首を傾げた。
そして数秒後。
「お兄ちゃん、でいいんじゃないでしょうか」
「……はい?」
「小田山健二さん」
「なんで急にそうなるの!?」
「だって、リエラさんが今ここにいることへ繋がった、とても大切な人なんですよね?」
「それは……まあ、そうだけど」
「でしたら、リエラさんのお兄ちゃんみたいなものです」
「だいぶ力技じゃない!?」
「預かった身分証にも小山田莉恵、つまり苗字的なつながりはありますよ?」
「っ……そ、それは……確かに……え、ごめん……今更だけどあれ、なに?」
「え……さぁ……?」
再びふたりの間に「?」が浮かぶ。
けれどミーナはいたって真面目だった。
「わからないことは置いといて、次にあのお部屋へ行く時は、私もちゃんとご挨拶します」
そう言って膝の上へ両手を綺麗に揃える。
「『リエラさんには、いつもお世話になっております』と」
「いや、そこ私がお世話されてる側じゃない?」
「では、『リエラさんのお世話は私にお任せください』と」
「完全に嫁入りの挨拶みたいになってるからやめて!?」
「ふふっ」
とうとうミーナが楽しそうに笑った。
私は熱くなった顔を隠すように窓の方へ向き直ったものの、自分も笑ってしまっていることには気づいていた。
胸の奥にずっと沈んでいた重いものが、ほんの少しだけ形を変えた気がする。
小田山健二は、私が生き延びるために必要としてしまった器だったのかもしれない。
偶然にも彼の人生が終わりを迎えた、その場所へ私が逃げ込み、種という得体の知れないものを使ったことで、彼の記憶と私の存在が何らかの形で混ざり合った。
それは、決して軽い出来事ではない。
だからといって、小田山健二を私とは無関係な他人だと切り捨てることも、もうできなかった。
今の私がここにいることへ、確かに繋がっている人なのだ。
なら。
お兄ちゃん。
その少し強引な呼び方も、案外悪くないのかもしれない。
「……今度、一緒に行こうね」
「はい」
「ケンジに……えっと、お兄ちゃんに挨拶しに」
「もちろんです」
ミーナは迷いなく頷いた。
その顔を見ながら、私はようやく長い息を吐くことができた。
◇
マンションのエントランスを抜け、エレベーターで上の階へ向かい、ようやくミーナの部屋まで戻ってきた。
「ただいま……」
そう言いながら玄関の扉を開けた、直後だった。
「おっかえりー!」
「お邪魔しています、リエラさん☆」
「……え?」
想定していなかった声が2つも聞こえ、私は靴を脱ぎかけた姿勢のまま固まった。
恐る恐る顔を上げる。
明るいリビングには、いつものようにへらっと笑いながらこちらへ手を振っているネネがいた。
そこまでは、まだ分かる。
問題は、その隣だった。
ソファへ腰を下ろしているのは、見覚えのない大人びた女性。
すらりとした長身に、落ち着いた雰囲気。美人という言葉がそのまま似合う整った容姿なのに、こちらを見て笑った時の目元だけは妙に親しみやすく、少し悪戯っぽい。
そして何より、その声には聞き覚えがある。
もしかして。
いや、これはもう、もしかしなくても。
「こちら(現実)では、はじめまして☆ 羽衛ミルキーだよ☆」
「……やっぱり!」
思わず大声を上げた。
エタファンの中で見るミルキーは、小柄な身体で大盾を構え、どんな理不尽な攻撃が来ても前線へ立ち続ける頼れる盾役という印象が強い。
それに対して現実の彼女は、ゲーム内よりもずっと大人っぽく見えた。
長身で、落ち着いていて、少し近寄りがたいくらい綺麗なのに、くすっと笑った瞬間に漂う空気だけは紛れもなく私の知っているミルキーだ。
「リエラさん、本当に配信で見るままの雰囲気なんですね☆」
「え?」
「エタファンのアバターと現実で、印象がほとんど変わらないです。綺麗で、ちょっと小悪魔っぽくて☆」
ミルキーが感心したように言うと、ネネがソファの背から身を乗り出した。
「てか、ミルキーちゃんもリエラちゃんの雑談配信見てるなら分かるっしょ。リアルもそのまんまだよー。あと見てよ~……尻尾、実はあれ本物だって言ったら驚く?」
「本……☆ 物……っ!?☆ え、触りたい触らせて!」
「ちょっと待って! 初対面でその紹介の仕方やめてくれない?」
「死闘を乗り越えた仲じゃん」
「事実だから恥ずかしいの!」
反射的にツッコミを返しながら、私はようやく少しずつ状況を理解しようとした。
しかし、何度考えても分からない。
なぜネネだけでなく、現実では初対面のミルキーまでミーナの部屋にいるのだろう。
「……っていうか、ミーナ。なんで2人ともいるの?」
鞄を下ろしながら振り返ると、ミーナは少しだけ得意げに胸を張った。
「暴食の塔を完全踏破したのに、まだちゃんとした祝勝会をしていませんでしたから」
「祝勝会……?」
「はい。リエラさんがあのお部屋を確認している間に、お2人へ連絡しておきました」
「いつの間に!?」
言われてみれば、小田山健二の部屋へいる間も、ミーナが何度かスマートフォンを確認していた。
私はてっきり仕事の連絡か何かだと思っていたのだ。
「私はリエラさんの護衛として同行し、その間にネネさん達にはこちらで準備をお願いする。完璧な作戦です」
「過保護を作戦の前提に組み込まないでよ」
「結果的に成功していますので問題ありません」
「強い」
言い返しながらリビングへ目を向けると、テーブルの上にはすでに人数分のカップや飲み物、お菓子、軽食まで綺麗に並べられていた。
温かいスープまで用意されている。
明らかに『ちょっと遊びに来ました』という規模ではない。
「ピザピザ! 今からピザ頼もーよ!」
ネネがスマートフォンを高く掲げる。
「祝勝会なんだから、こういう時くらいカロリー高いやつ食べよー!」
「私は画面の中では体型が変わりませんけど、現実の身体は普通に変わりますからね☆」
ミルキーが苦笑する。
「ネネさん、明日の配信で後悔しても知りませんよ☆」
「許して、ミーナプロデューサー!」
「私に言わないでください。普段から無理のない範囲で自己管理していただければ、今日くらいは構いません」
「じゃあ今日はチートデイ! そういうことにしよ!」
「だからといって食べ過ぎないでくださいね」
あまりにも普通の会話だった。
そのやり取りを聞いているうちに、私はふっと笑ってしまった。
ほんの少し前まで、小田山健二の埃っぽい部屋に座り込んでいた。
黒い種を見つけ、自分がずっと自分だと思っていた人間ではなかったことを知り、エタファンが巨大な檻なのではないかという仮説まで抱えて帰ってきた。
魔王。因子。勇者。制限。
でも、世界の裏側だとか、自分の正体だとか、そんな大きすぎる話を全部押し流すくらい、現実は雑で、くだらなくて、それ以上に温かかった。
「あははっ」
私は靴を揃えて玄関から上がり、そのまま明るいリビングへ足を踏み入れる。
「ミーナ、私もピザ食べたい」
「リエラさんまで……」
「今日はいいじゃない。あの無理ゲーの塔を本当に制覇したんだよ?」
「それは……確かにそうですね」
「あと炭酸も!」
勢いのまま言うと、ネネが吹き出した。
「急に小学生みたいになった!」
「だはは。今日は騒ぎたい気分なんだよ、俺」
口から出た言葉に、自分自身が一番遅れて気づいた。
リビングの空気が、ほんの僅かだけ止まる。
「あ……」
俺。
女の子の身体になってから、ほとんど使わなくなった1人称。
小田山健二の記憶と一緒に、自分のものだと信じ込んでいた言葉。
さっきまで本人のことを考えていたからなのか、ただ気分が高揚していたからなのかは分からない。
それでも今だけは、不思議なくらい自然に口から零れた。
「リエラちゃんがピザ食べたすぎておっさんになっちゃう~!」
「きゃー☆ オレもオレもー、お酒飲みたーい☆」
「もう、みんな悪乗りしすぎですよ」
ネネやミルキーがその場でノッてくれた。
私は苦笑いしながらミーナを見る。
ここにいる4人の中で、その言葉が持つ意味を知っているのは彼女だけだった。
「……まあ、いっか」
私も笑った。
「今日は祝勝会!」
「その通りー!」
ネネが両手を上げる。
「では、今夜は仕事の話は禁止にしましょうか☆」
ミルキーが穏やかに笑いながら提案すると、ミーナが即座に彼女へ視線を向けた。
「ミルキーさんが一番最初に攻略ログの話を始めそうですけど」
「……あれは趣味です☆」
「開始前から違反者がいる!」
今度こそ、私は声を上げて笑った。
4部暴食の塔編終了です。また1~2か月ほど書き溜めて投稿します。




