プレリュード
鍵は、ずっと持っていた。
あの部屋は、まだ解約していない。
どうして残していたのかと聞かれれば、これまではいくらでも理由を並べることができたと思う。
手続きが面倒だったから。まだ荷物の整理が終わっていなかったから。いつか何かの拍子に必要になるかもしれないと思ったから。
どれも嘘ではない。
けれど、たぶん本当の理由でもなかった。
もっと曖昧で、もっと自分でも触れたくない何かが、ずっとあの部屋との繋がりを切らせてくれなかったのだと思う。
そもそも今の私には、『小田山健二』として生きていた頃の記憶がほとんど残っていない。
そのことは、まだパーティの誰にも話していなかった。
日常生活には困らなかったからだ。
今の仕事も、人間関係も、銀行口座の暗証番号も、必要なものは覚えている。なのに昔の出来事を思い出そうとすると、そこだけ長い時間をかけて少しずつ色褪せていった写真のように曖昧になっている。
話したところで、余計な心配をかけるだけだと思っていた。
何より私自身、それを深刻なことだと感じていなかった。
男だった小田山健二が、いつしか女の子の姿になり、ゲームで使っていたサキュバスのリエラへ近づいていく。
普通に考えれば、それは自分が自分でなくなっていくような、恐ろしい変化なのだろう。
けれど、私の中にあった感覚は少し違った。
何か別のものへ『変わった』というより、長い間間違った形に押し込められていたものが、少しずつ本来の姿へ『戻ってきた』ような感覚。
自分でもおかしな話だと思う。
それなのに、尻尾が生えた時ですら、身体のどこかではその姿を知っているような気がしていた。
そして今日、私は現実でティアと出会った。
現実側に残った『暴食の影』。
すでに発芽していた黒い種。
ゲームの中へ別の形で閉じ込められた魔王。
現実の身体へ、ゲームの中にしか存在しないはずの尻尾を持ち帰ってしまった私。
ひとつずつなら偶然や勘違いとして目を逸らせたはずのものが、今では細い糸で結ばれるように、ひとつの方向を指し始めている。
その糸を辿った先に何があるのか。
私はもう、直感では分かっていた。
だから、ここへ来た。
◇
夕闇の迫る街の中で、私は古いアパートを見上げていた。
決して特別な建物ではない。
少し古びた外壁と、狭い共用廊下。階段を上がるたびに、金属とコンクリートが小さな音を返してくる。
隣には、私を1人にさせまいと付いてきたミーナがいた。
建物を見ても、懐かしいという感情はほとんど湧いてこない。
それでも身体だけは覚えていた。
何段目の階段が少し軋むのか。
夕方になると廊下のどこへ冷たい風が抜けるのか。
そして、目的の扉の前へ立った時に、どうして胸の奥がこんなにも苦しくなるのか。
「ここですか?」
ミーナが、空気を壊さないように小さな声で尋ねた。
「うん」
私はしばらく扉を見つめてから、ゆっくり頷く。
「……私の、始まりの場所」
ポケットから鍵を取り出す。
長い間ほとんど使っていなかったのに、鍵穴へ差し込む動作だけは妙に滑らかだった。
手首を回す。
かちり、と硬い音が鳴った。
小田山健二が暮らしていた部屋の扉が、ゆっくりと開く。
「……ただいま」
口から自然に出た言葉に、自分自身が一番驚いた。
誰に向けて言ったのかは分からない。
過去の自分に対してなのか。
この部屋に対してなのか。
あるいは、もうここにはいない誰かに対してなのか。
玄関の向こうには、長く閉め切られていた部屋特有の乾いた空気が溜まっていた。
家具には薄く埃が積もり、カーテンは閉じたまま動かない。誰も触れなくなった小物や、使われなくなった家具だけが、最後に人が暮らしていた時間をそのまま保存している。
時間が止まった、という表現がある。
たぶん、こういう場所のことを言うのだろう。
ただ、部屋の奥だけは少し様子が違った。
かつてVR用のベッドやパソコンを置いていた場所。
今は機材の一部が片づけられ、不自然なくらいぽっかりと空間が残っている。
そこだけが、何かの帰りをずっと待っているように見えた。
「リエラさん。少し換気を――」
「ううん」
私は小さく首を横へ振った。
「今は、そのままでいい。少しだけ待ってて」
何か言いたそうなミーナを残し、靴を脱いで部屋へ上がる。
一歩進むたび、床板が微かな音を立てる。
ここで何年暮らしたのか。
どんな生活をしていたのか。
小田山健二としての私は、何を考え、何を楽しみ、何を嫌っていたのか。
思い出そうとしても、やはり輪郭は曖昧だった。
なのに、身体だけは迷わない。
私は部屋を片づけるふりをしながら、何かを探していた。
何を探しているのか、本当は自分でも分かっていた。
とっくに捨ててしまったかもしれない。
以前ここを整理した時、ただのゴミだと思って処分していてもおかしくない。
それでも、この部屋へ入った瞬間から、妙な確信があった。
まだある。
きっと、どこかに残っている。
棚の裏を覗き、机の下へ手を伸ばす。古いケーブルを詰め込んだ箱を動かし、使わなくなった周辺機器の袋を横へ寄せる。
そこで、ふと床へ目が止まった。
「……」
フローリングの一角に、古い染みのような痕跡が残っている。
一度は丁寧に掃除されたのだろう。
目を凝らさなければ分からないほど薄くなっているのに、その場所だけ微妙に色が違った。
「リエラさん……?」
背後のミーナも、私が急に動きを止めたことへ気づいたらしい。
私は答えなかった。
床の痕跡へ、恐る恐る指先を近づける。
触れるより先に、胸の奥で何かが弾けた。
ぱちん、と。
長い間閉ざされていた鍵が、急に壊れたような感覚だった。
ちりん。
ころん。
そこには存在しないはずのオルゴールが、頭の中で鳴った。
「……っ」
私は弾かれるように顔を上げる。
視界の端。
机の脚と壁の間。
長い間動かされなかった埃の中に、小さな黒いものが転がっていた。
息が止まる。
手を伸ばす。
拾い上げる。
指先へ伝わってきたものは、小さく、硬かった。
形は――種に似ている。
「……やっぱり」
震えた声が漏れた。
「やっぱり、あった……」
「種……ですか?」
ミーナの声が背後から聞こえる。
その言葉を認識した瞬間だった。
私の記憶を覆っていた濃い霧へ、一本の亀裂が走る。
ああ。
思い出した。
いや。
思い出してしまった。
まだ全部ではない。
風景も、時間も、自分がどこから来たのかさえ、依然として深い霧の中にある。
それでも、その日のことだけが唐突に形を取り戻していく。
私は――ここへ逃げてきた。
何かから。
誰かから。
ひたすら逃げていた。
力を失い、追われ続け、もう次にどこへ行けばいいのかを考える余裕すらなくなっていた。
何としてでも消えなければならない。
見つかってはいけない。
生き残らなければならない。
そんな切迫した感覚だけが、今の私の胸へ流れ込んでくる。
そして、最後の最後に辿り着いた場所が、この部屋だった。
ここにいた。
小田山健二が。
ベッドへ横たわり、VR用のヘッドセットを身につけたまま、静かに目を閉じていた。
私は彼へ声を掛けた。
何度か呼んだ。
けれど、返事はなかった。
部屋には生活の乱れがそのまま残されていた。
点いたままの画面。
飲みかけの栄養ドリンク。
仕事らしいメモや書類。
長い間、余裕のない生活を続けていたのだろうということだけは、その光景からでも分かった。
けれど、私は小田山健二がどんな人間だったのかを知らない。
少なくとも――あの瞬間の私は、知らなかった。
優しい人だったのか。
嫌な人だったのか。
何が好きで、誰を大切にして、どんな未来を望んでいたのか。
何ひとつ知らないまま。
ただ、彼はもう眠るように亡くなっていて、私の呼びかけには応えないことだけを理解した。
そして私は、時間がなかった。
選ぶ余裕もなかった。
このままでは、自分も消える。
新しい『器』が必要だった。
追ってくる何かから逃れ、生き延びるために、この現実の中へ自分を留めておける場所が必要だった。
だから私は――。
ここで『種』を使った。
「……あ」
自分の口から、小さな声が漏れる。
記憶の中で、黒い種が手の中にある。
それを握り、何かを決意している。
その先は、また濃い霧に覆われていた。
どういう仕組みで何が起きたのかは、まだ思い出せない。
それでも、そこから先に私が『小田山健二』の記憶を持つようになったことだけは、もう疑えなかった。
私はゆっくりと、現実の床へ視線を落とす。
長い間消えずに残っていた、古い痕跡。
埃の中から見つけた黒い種。
そして今になって戻ってきた、忘れていた記憶。
胸の奥へ、冷たいものが沈んでいく。
「ごめん……」
気づけば、そんな言葉が口から零れていた。
「ごめんね……健二」
届く相手は、もうここにはいない。
けれど、名前を呼んだ途端、今まで感じたことのない種類の申し訳なさが込み上げてきた。
私はずっと、小田山健二だったのだと思っていた。
男だった自分が、何かのきっかけで女の子になり、サキュバスのリエラという姿へ近づいていったのだと。
だから、小田山健二としての記憶が薄れていくことも、自分が新しい身体へ馴染んでいく過程なのだと思っていた。
でも、違う。
順番が、まるで逆だった。
小田山健二がリエラになったのではない。
私は最初から、小田山健二ではなかった。
どこかから逃げてきた『私』が、この部屋で彼と出会い、あの種を使った。
そして何らかの理由で、彼の記憶を自分のものだと思うようになった。
その事実が、時間をかけて胸の底へ沈んでいく。
だからだったのだ。
小田山健二だった頃の記憶が消えていくことを、私はどこか他人事のように受け止めていた。
女の子の身体も。
リエラという名前も。
尻尾のある姿も。
自分が別のものへ変えられていくのではなく、ようやく自分自身へ戻っているように感じていた。
失っていたのではない。
もともと、私自身の記憶ではなかったのかもしれない。
「私……」
掌の上の黒い種を見る。
地下作戦室で見つけたものとは違い、こちらはまだ硬い形を保っていた。
使われた後に残った欠片なのか。
砕け切らずに残った殻なのか。
それとも、今の私へ直接繋がっている別の何かなのか。
分からない。
ティアは言っていた。
『種なんていっぱいあるわよ?』
あの時は、あまりにもさらりと言われたせいで深く考えられなかった。
けれど今なら、その言葉の重さが分かる。
グラティアへ繋がる種だけではない。
私へ繋がる種も、ここにあった。
なら、他にも。
その考えへ触れた途端、頭の奥が鈍く痛んだ。
「……リエラさん」
背後から呼ばれた。
返事をしようとしたのに、声が出なかった。
急に全身から力が抜け、私はその場へ座り込む。
すぐ隣へミーナが膝をついた。
「大丈夫です。ゆっくりでいいですから」
彼女は何があったのかを問いたださなかった。
手の中の黒い種についても。
私が健二という名前を呼んだことについても。
ただ隣へ座り、震えている私の背中をゆっくりと撫でてくれる。
その手の温度が、今はたまらなくありがたかった。
ここが始まりだった。
エタファンの中ではない。
暴食の塔でもない。
グラティアの記憶の中でもない。
埃の積もった、この現実の小さな部屋。
小田山健二がかつて暮らしていた場所。
ここで『私』は、今の私へ繋がる何かを始めた。
その結果として彼の記憶を抱え、彼の人生を自分の過去だと思い込み、長い間それを疑うことすらなかった。
私はどこから来たのか。
本当は何者なのか。
なぜ、この部屋へ逃げ込んだのか。
種とは何だったのか。
肝心なところは、まだ何も思い出せない。
それでも、ひとつだけ確かなことがある。
私は、小田山健二ではない。
その事実だけで、今まで自分という存在を支えていた土台が静かにひっくり返ったような感覚があった。
それなのに、不思議なことに、自分そのものが消えてしまったようには感じなかった。
むしろ、逆だった。
知らない誰かの記憶の下から、ずっとそこにいたはずの『私』が、ようやく少しだけ顔を覗かせたような気がした。
怖い。
申し訳ない。
それでも、どこかで納得している自分もいる。
その矛盾した感情を抱えたまま、私はしばらく立ち上がることができなかった。
窓の外から車の走る音が聞こえる。
遠くでは、誰かが笑いながら歩いている。
現実は、私の中で起きた世界の反転など知らないまま、昨日までと変わらず続いている。
その何でもない生活音に包まれながら、私はミーナの温かな手に背中を預け、掌の中に残った黒い種を見つめていた。
長い間、自分のものだと思い込んでいた過去が崩れ落ちたその場所で。
私はようやく、本当の自分へ繋がる最初の欠片を拾い上げたのだった。




