黄昏の時
カフェを出て、夕暮れの街をしばらく歩いたところで、隣にいたミーナがふいに足を止めた。
「……あ」
「どうしたの?」
何か重要なことに気づいたのかと思って振り返ると、ミーナはその場でがっくりと肩を落としていた。
「ティアちゃんに、私の名刺……渡し損ねました」
「ええっ、そこ!?」
思わず大きな声が出た。
現実側に残った暴食の影だとか、発芽した黒い種だとか、ゲームと現実を縛る見えない制限だとか。ついさっきまで世界の根幹に触れていそうな話を散々聞かされた直後だというのに、ミーナの中ではマネージャーとしての後悔がしっかり残っていたらしい。
「あれほど特徴のある子なら、今後どこかでお仕事をお願いできる可能性だってあったのに……。あんな逸材を前にして連絡先のひとつも渡せなかったなんて、一生の不覚です」
「いや、囲い込んだら食費だけでうちの事務所が破産すると思うよ?」
「そこは出演料と経費を――」
「真面目に計算し始めないで」
そんなやり取りをしているうちに、カフェを出てからずっと胸の奥へ残っていた緊張が少しだけ薄れた。
夕方の街は、私達がとんでもない話を聞いてきたことなど知る由もなく、いつも通りに動いている。
駅へ急ぐ人がいて、買い物袋を提げた人がいて、制服姿の学生達が楽しそうに笑いながら横を通り過ぎていく。スマートフォンを眺めながら歩く会社員も、信号待ちをしている親子も、店先から聞こえてくる呼び込みの声も、何ひとつ昨日までと変わっていない。
だからこそ、さっきティアから聞かされた話だけが、ひどく現実離れして感じられた。
ゲームと現実では、できることが違う。
ゲームにはレベルがあり、スキルがあり、システムという分かりやすい制限がある。そして現実にも、私達には見えていないだけで、それ以上に大きな何かが存在しているのかもしれない。
魔王。
勇者。
発芽済みの黒い種。
現実側に残った『暴食の影』。
そして、自分を今はティアと呼べと言った少女。
それらが頭の中で複雑に絡まり、どこから考えればいいのかさえ分からない。
「……ミーナ」
今度は私が足を止めた。
「どうしました?」
数歩先へ進んでいたミーナも立ち止まり、こちらを振り返る。
私は少し迷った。
さっきティアに、急ぐなと言われたばかりだ。
一度に何もかも知ろうとすれば、食べたものの味さえ分からなくなる。あの言葉が間違っているとは思わないし、私自身、もう十分すぎるほど大量の謎を抱えている。
それでも、ひとつだけ決めたことがあった。
「どうなるかは分からないけど……私、他の魔王達にも会ってみたい」
ミーナは驚かなかった。
むしろ、いつか私がそう言うことを予想していたように、静かにこちらを見つめていた。
「ゲームの中で、本当の意味で魔王を目指してみようと思う」
「それは今までとあまり変わらないのでは?」
「言い方」
思わず苦笑した。
新生リエラ魔王軍なんてものを名乗り、ゴブリンや死霊を従え、最近では《ベルセルク》に《暴食》まで手に入れている。今さら普通の前衛プレイヤーですと言い張る方が無理はある。
「そういう意味じゃなくて……日和らないってこと」
「日和らない?」
「うん」
言葉にするには、少し勇気が必要だった。
「現実でまた尻尾が生えて、それが今度は消えなくなっても。ゲームの中で変なスキルがもっと増えて、本物の魔王ってものに近づいてるんだって分かっても……それを怖がって、全部から目を逸らすのはやめようと思う」
怖くないわけではない。
むしろ、怖さなら暴食の塔を攻略する前よりずっと大きくなっている。
グラティアを《捕食》したことで、自分のものではない記憶を見た。
ゲームの中にいるはずの魔王と、現実のカフェにいた少女が繋がった。
自分の身体には、本来存在するはずのない尻尾まで生えてきた。
ゲームと現実の境界は、私が思っていたよりずっと曖昧だ。
この先へ進めば、もっと取り返しのつかない変化が起きるかもしれない。
それでも、今さら何も知らなかった頃へ戻れるとも思えなかった。
「だから……」
私はミーナを見る。
「もしこの先、私が今よりもっと変わっても、それだけで引かないでほしい。私が私じゃなくなりそうになった時は止めてほしいけど、変わっていく私そのものを怖がらないでほしい……っていうのかな」
口にしてみると、随分わがままなお願いだった。
変わることは受け入れてほしい。
でも、変わりすぎたら止めてほしい。
そんな都合のいい話をしている私を見て、ミーナは一瞬だけきょとんと目を瞬かせた。
それから肩の力を抜き、拍子抜けしたように柔らかく笑う。
「ああ、なんだ。そんなことですか」
「そんなことって何よ」
「あんなにかわいいリエラさんをずっと一番近くで見ていられるなら、私は全然大丈夫ですよ」
「……っ」
一瞬、返す言葉が出てこなかった。
そういう言葉を、どうしてこの子は何でもないことのように言えてしまうのだろう。
夕暮れの街に少しずつ街灯が灯り始める中、自分の顔だけが急に熱を持ったような気がして、私は思わず視線を逸らした。
「ミーナ、そういうのずるい」
「本心ですから」
「本心なら、なおさらずるいのよ……」
けれど、胸の奥にあった重さは不思議なくらい軽くなっていた。
次に尻尾が現れて消えなくなったとしても、今よりもっとサキュバスらしい姿へ変わってしまったとしても、それだけでミーナが私から離れていくわけではない。
もちろん、私が何をしても肯定してくれるという意味ではない。
むしろ、間違えた時には全力で止めると宣言されたばかりだ。
それが今は、ありがたかった。
「……ありがとう」
「はい」
ミーナは穏やかに頷いた。
「では、今日は帰りましょうか。さすがに情報量が多すぎますし、帰ったら今日の記録も整理しないと――」
「あ、待って」
「はい?」
「もう1箇所だけ、行きたいところがあるの」
途端に、ミーナの目が僅かに細くなった。
疑っているというより、心配している顔だ。
「今からですか?」
「うん。そんなに遅くならないと思う。ただ……そこは、たぶん私1人で行った方がいいかもしれなくて」
「ダメです」
最後まで言わせてもらえなかった。
ミーナが一歩こちらへ近づき、迷いのない目で私を見る。
「えっ」
「1人では行かせません。最近のリエラさんの周囲で起きていることは、どう考えても普通ではありませんから。ティアちゃんについては、少なくとも今すぐ危害を加えてくる相手ではなさそうだと分かりましたけど、それとこれとは別です」
「いや、でも……かなり個人的な場所なんだよ?」
「でしたら、余計に1人で行かないでください」
取り付く島もなかった。
「護衛兼マネージャー兼パートナーとして、今日は離れるつもりありませんから」
「肩書きがどんどん増えてる……」
「必要な役割を兼任しています」
完全に過保護モードだった。
こうなったミーナは、下手に説得しようとしたところでまず動かない。
私は少しだけ迷ったものの、その真剣な顔を見ているうちに、無理に1人で行く理由の方が分からなくなってきた。
「……分かった。一緒に行こっか」
「はい」
ようやく満足したらしく、ミーナの表情が僅かに和らぐ。
「それで、どこへ向かうんですか?」
「……私の、始まりの場所」
口にした瞬間、自分の胸の奥が僅かにざわついた。
彼女がここまで私の隣にいてくれるのなら、そろそろ話してもいいのかもしれない。
私がずっと、自分の過去だと信じてきた記憶について。
『小田山健司』、私のルーツについて。
ティアと会い、ゲームと現実の境界そのものへ疑問を持ってしまった今だからこそ、もう一度その始まりを確かめたかった。
◇
私達は夕暮れの街を抜け、並んで電車へ乗った。
窓の外では、夕焼けの残った空が少しずつ夜の色へ変わっていき、その下をビルや住宅の明かりが流れていく。
向かう先は、もう決まっていた。
あの家。
私が『小田山健司だった』と信じている記憶へ繋がっている場所。
エタファンに触れた頃のことも、リエラという名前を選んだ頃のことも、そこへ辿れば思い出せる。私の人生がいつから今の形へ変わり始めたのかを探そうとするなら、どうしても避けて通れない場所だった。
けれど、もう長いこと足を運んでいない。
今日になって急に訪れようと思った理由を、論理的に説明することもできなかった。
ティアに行けと言われたわけではない。
ミーナに尋ねられたわけでもない。
ただ、あのオルゴールを見てからずっと、胸の奥に引っかかっているものがある。
忘れていたこと。
勘違いしていること。
あるいは、自分から見ないようにしていたこと。
何かが、あそこに残っているような気がしてならなかった。
電車が緩やかに揺れる。
隣にはミーナが座っている。
私の事情をまだ何も知らない彼女は、急かすことも理由を問い詰めることもせず、ただ同じ方向へ運ばれている。
その気配に少しだけ安心しながら、私は窓へ映った自分の顔を見つめた。
ゲームの中では、魔王を目指す。
現実では、自分のままでいる。
さっきまでは、その2つを別々のこととして考えていた。
けれどティアの話を聞いた今では、本当にそう簡単に切り分けられるものなのか分からなくなっている。
ゲームにいるリエラと、現実にいる私。
魔王へ近づいていく存在と、『小田山健司だった』記憶を持っている私。
どちらも自分のはずなのに、その間には自分でもまだ知らない何かが挟まっているような気がする。
もし、その答えの一端でも始まりの場所に残っているのなら、今度こそ目を逸らさずに見なければならない。
私は電車の揺れに身体を預けながら、静かに目を閉じた。
すると、もう手元にはないはずのオルゴールの旋律が、記憶の奥から微かに蘇ってくる。
ちりん、ころん。
遠い昔の誰かが残した音が、今度は私自身の過去へ向かう道を示すように、胸の奥でいつまでも鳴り続けていた。




