暴食の少女、再び
暴食の塔という理不尽極まりない難関をどうにか攻略してから、しばらくの時間が経った。
ゲーム内に残された戦闘ログの確認や、報酬アイテムの細かな検証。それから、まだ発見できていない石碑の探索といった攻略班らしい仕事については、ひとまずミルキー達を中心に進めてもらうことになっている。
もちろん、私達も完全に丸投げして知らん顔をするつもりはない。
ただ、今の私とミーナには、ゲームの中を調べること以上に放っておけない問題があった。
現実側にまで染み出してきた、いくつもの異常。その中でも一番分かりやすく、そして一番私の生活へ直接的な被害を与えていたのが――。
「……今回は、ずいぶんしつこいですね」
「うん……本当にね」
自室の姿見の前に立ち、私は腰から伸びる黒い尻尾を恨めしそうに見下ろした。
細く、滑らかで、先端だけがスペードのような形をしている。ゲーム内のリエラとして何年も見慣れてきたサキュバスの尻尾そのものなのに、それが今は鏡の中で、現実の私の身体から当たり前のように生えていた。
しかも前回より、明らかに馴染んでいる。
意識していなくても身体の動きに合わせて自然にバランスを取り、気分がいい時には機嫌よく揺れ、落ち着かない時にはせわしなく動く。あまりに当然のように私の感情を表現するものだから、怖いを通り越して少し腹立たしいくらいだった。
隣に立つミーナが、観察するようにそっと手を近づける。
すると尻尾の先端がぴくりと反応し、こちらの意思を待つことさえなく、彼女の手へすり寄るように僅かに動いた。
「痛みはありますか?」
「ない」
「根元に違和感は?」
「それもない。普通に……自分の身体って感じ」
「では、意識して動かせますか?」
「できるよ。ほら」
尻尾へ意識を向けると、鏡の中で黒い先端が左右へゆっくりと揺れた。もう少し細かく動かそうと思えば、その通りに曲がり、持ち上がり、また力を抜けば自然な位置へ戻っていく。
手や足とほとんど同じだった。
脳から出した命令が何の違和感もなく通り、触れられればそこから感覚が返ってくる。
異物が身体へくっついているのではない。
私の身体の一部として、完全に成立してしまっている。
その事実こそが、一番怖かった。
「……ねえ、ミーナ」
「はい?」
「これ、仕事の時どうしよう」
自分で口にしてから、あまりにも現実的な悩みだなと思った。
世界の境界がどうとか、ゲームが現実へ侵食しているとか、そんな壮大な問題以前に、私は仕事をして生活している人間なのだ。
尻尾が生えたから今日は仕事へ行けません、では困る。
ところがミーナは、私よりずっと先まで考えていたらしい。
「そこは抜かりなく準備します」
いつものマネージャー然とした真面目な表情で、きっぱりと言い切った。
「当面は『小悪魔キャラ路線』で通せるようにしましょう。リアルな質感で動く尻尾ギミックを組み込んだ、新衣装と演出ということにします。必要であればクライアント側にも、そういう企画だと事前に説明しておきます」
「私の現実を侵食してくる怪異が、ミーナの企画力でどんどん社会に適応させられていくんだけど」
「適応させないと、リエラさんの社会生活に支障が出ますから」
「そうなんだけどさぁ……」
「それに、こういうものは中途半端に隠す方が目立ちます。最初から堂々とアクセサリーや衣装ギミックとして見せてしまえば、案外そういうものだと受け入れられるものです」
「頼もしい。本当に頼もしいんだけど、頼もしさを発揮してる方向がおかしい気がする」
世界の境界を越えて尻尾が生えてきたことより、それをどう自然に仕事へ組み込むかという話が進んでいる。
けれど、笑い話にできたのは最初のうちだけだった。
今回の尻尾は、なかなか消えてくれなかった。
前回はログアウトした後に現れても、しばらくミーナと過ごしているうちにいつの間にか消えていた。だから今回も、せいぜい一晩くらいだろうと、どこかで甘く考えていたのだと思う。
ところが翌朝になっても、尻尾は普通にそこにあった。
さらにその日の夜になっても消える気配はなく、しっかり私の腰から伸び、しっかり感情へ反応し、しっかり現実生活を邪魔し続けてくれた。
これが思っていた以上に不便だった。
椅子へ座る時には下敷きにしないよう位置を確認しなければならず、寝返りを打つ時にも無意識に潰さないよう気を遣う。外出するなら服装も考えなければならないし、隠すのが難しければ、逆に衣装の一部として見せても不自然ではない格好を選ぶ必要がある。
極めつけは、自室の扉を閉める時だった。
いつもの癖で何も考えずに閉めようとして、最後の瞬間に尻尾が扉の間へ残っていることへ気づいた。
「ぎゃっ!?」
本気の悲鳴が出た。
幸い完全に挟む前に止められたものの、自分の身体に新しい部位が増えたという事実を、あれほど嫌な形で思い知らされるとは思わなかった。
「危なかった……本当に危なかった……」
「だから、まだ身体感覚に慣れていない間は気をつけてくださいと言ったじゃないですか」
「言ってたけど、扉を閉める時に尻尾の位置を確認する習慣なんて人類にはないのよ……」
「今日から作ってください」
「適応が早すぎるって」
そんな調子で2日ほど過ごしているうちに、もうひとつ妙なことにも気づいた。
なぜかミーナが近くにいると、尻尾が明らかに大人しくなるのだ。
私が落ち着くから、その感情へ反応しているだけなのか。それとも、もっと別の理由があるのかは分からない。
ただ、尻尾そのものが彼女を認識しているようにしか見えない時がある。
その話をチャット通話でネネへしたのは、今思えば完全に失敗だった。
『いやぁ、毎日ラブラブで同棲生活を満喫してますなぁー』
通話越しから聞こえてきた声には、画面越しでも分かるくらいの笑いが滲んでいた。
「違うから」
『違わないでしょぉ。尻尾までミーナちゃんのところに行くんでしょ?』
「いや、まあ……行く時はあるけど」
『ほらぁー、ごちそうさまでーす』
「そういう意味じゃない!」
強く否定しようとして、一瞬だけ言葉に詰まった。
尻尾の状態を確認し、何か急激な変化が起きた時にすぐ対処できるよう、この2日ほどは私とミーナが同じ部屋で過ごす時間も明らかに増えていた。
もちろん理由はある。
私1人の時に尻尾へ何か異常が起きたら困るからだ。
変化があればすぐに記録できるし、外へ出る時の対処だって2人で考えられる。
すべては安全確認のため。
そういう理由だった。
少なくとも、最初は。
「リエラさん」
「はい」
隣から唐突に声を掛けられ、私は背筋を伸ばした。
「今、何か余計なことを考えていませんでしたか?」
「考えてないよ?」
「そうですか」
「うん」
「尻尾がものすごい勢いで揺れていますけど」
「私の尻尾、正直すぎない!?」
振り返ると、鏡の中で黒い尻尾が感情を暴露するように元気よく揺れていた。
これでは嘘もつけない。
プライバシーという概念をもう少し学んでほしい。
そんな奇妙な生活が2日ほど続いた後、尻尾はようやく消えた。
朝起きた時にはまだ存在していたのに、昼頃になると少しずつ輪郭が薄くなり始め、そのまま水へ溶け込む墨のように透明になっていった。痛みも違和感もなく、最後には根元の感覚さえふっと途切れて、本当に最初から何もなかったような身体へ戻ってしまった。
鏡の前で腰を捻って確認しても、いつもの私がいるだけだ。
それなのに、安心より先に妙な寂しさを覚えてしまったことには、自分でも気づかないふりをした。
ともあれ、これで完全に解決したわけではない。
前回より長く残ったのなら、次に現れた時にはさらに長期化する可能性もある。
ミーナはそう考え、すでに衣装デザイン案だけでなく、撮影時に尻尾が存在していても不自然に見えない設定まで作り始めていた。
小悪魔をイメージした新衣装。
リアルタイムで動く高性能な尻尾ギミック。
リエラのキャラクター性を活かした、新しい演出。
そんな建前をあらかじめ用意しておけば、また現実で尻尾が生えてきても、少なくとも仕事の現場ではある程度押し通せるという。
本当に押し通せるのだろうか。
私としてはまだ半信半疑だったが、こういう時のミーナの異常なまでの準備力については、もう信頼するしかなかった。
そして、尻尾の経過観察と並行して、もうひとつの調査も進んでいた。
以前、私がカフェで偶然出会った不思議な少女。
見た目が瓜二つというわけではない。それでも、どこか暴食の黒姫グラティアを思わせる雰囲気を纏っていた、あの子だ。
こちらの手掛かりは、思っていたよりずっと早く見つかった。
「……いました」
ノートパソコンへ向かっていたミーナが、検索結果を確認するなり画面をこちらへ向けた。
「えっ、もう?」
「相手の特徴が強すぎます」
そこには、SNS上で見つけた複数の投稿が並んでいた。
『大食い美少女発見』
『小柄なのに信じられない量を食べる謎の子』
『都内のカフェやスイーツビュッフェによくいるらしい』
『店員さんには妙に丁寧だし食べ方もめちゃくちゃ綺麗。でも食べる量がおかしい。三十二人前ってマジ?』
どれも似たような目撃談だった。
中には遠目から撮られた写真もある。顔がはっきり判別できるものは少なかったけれど、小柄な体格と独特な服装、それに周囲から少しだけ浮いて見える不思議な雰囲気だけで十分だった。
「……この子だ」
見間違えるはずがない。
以前、私と同じテーブルで山のような甘いものを食べ、何でもないことのように私を『色欲さん』と呼んだ少女。
あの時の子だった。
「案の定、かなり高確率でエンカウントできそうですね」
「現実の人間にエンカウントって言うのやめない?」
「リエラさんもさっきから心の中では絶対そう呼んでいますよね?」
「……否定はしない」
ミーナはさらに投稿の位置情報や書かれている店名を整理し、地図上へ目撃場所を重ねていった。
「行動範囲はかなり狭いようです。特に目撃件数が多いのが、この辺りですね」
画面へ表示された場所を見て、私は眉を上げる。
以前その少女と相席になったカフェから、さほど離れていない。
「しかも、この店での目撃頻度がかなり高いです」
「今日行ったら、会えるかな」
「確率は高いと思います。ただし」
ミーナが画面から顔を上げる。
その表情だけで、これから何を言われるか分かってしまった。
「リエラさん。相手の正体が分からない以上、無理に接触しようとしないでください」
「分かってる」
「こちらが話しかけてもいい状況かを見てからです。危険を感じたら、その場で離れます」
「分かってるってば」
「本当に?」
「信用ないなぁ……」
「暴食の魔王を見つけてその場で殴り合った人なので」
「向こうから襲ってきたんだけど!?」
もっとも、ミーナが心配する気持ちは分かる。
私だって、今回は慎重に動くつもりだった。
相手が何者なのか、本当に何ひとつ分かっていないのだから。
顔立ちがグラティアと完全に一致しているわけではない。それでも、微笑んだ時の空気や、何かを面白がるような視線、そして常識から外れた食欲まで、塔で出会った暴食の黒姫をどうしても連想させる。
グラティアを《捕食》したことで手に入った記憶。
リリスからティアへ託され、すでに『発芽済み』となっていた黒い種。
そして、ゲームを離れた現実の私の身体へ再び現れた尻尾。
そのすべてを知ってしまった今となっては、あの少女だけが何の関係もない一般人だったと考える方が難しかった。
◇
その日の夕方。
私とミーナは、目撃情報が集中していたカフェへ足を運んだ。
店内はアンティーク調の家具で統一された落ち着いた雰囲気で、扉を開けた瞬間から焼き菓子と紅茶の甘い香りが鼻をくすぐった。
店員が運んでいく厚みのあるパンケーキ。
色鮮やかな季節のフルーツパフェ。
静かに湯気を立てるティーポット。
窓際では学生らしい2人組が楽しそうに話し、奥では1人の客が本を読みながらコーヒーを飲んでいる。
どこからどう見ても、ごく普通の平和なカフェだった。
それなのに、私の心臓だけは場違いなくらい速く鳴っていた。
「リエラさん」
隣を歩くミーナが、周囲へ聞こえない程度の声で私を呼ぶ。
ほんの少しだけ前へ出た位置取りが、いつでも私との間へ割って入れるように見えた。
「いました」
その一言で、身体が強張る。
ミーナの視線を追う。
西日が柔らかく差し込む窓際の席。
そこに、彼女はいた。
小柄な少女だった。
光を柔らかく透かす髪と、周囲の客とはどこか違う、浮世離れした佇まい。
目の前には食べ終わった皿が何枚も重ねられ、空になったグラスや小さな器まで綺麗にまとめられている。それだけの量を平らげた後だというのに、本人はまだ銀のフォークを優雅に持ち、次のケーキを少しずつ味わっていた。
食べ方そのものは恐ろしいほど綺麗だった。
一口は決して大きくない。
皿を汚すこともなく、フォークとナイフの扱いにも妙な品がある。
ただし、食べ終えた量だけが明らかに人間の常識から外れている。
「……やっぱり、この子」
小さく呟く。
間違いない。
以前カフェで出会った少女だ。
私達が席へ近づいていくと、それまでケーキへ向けられていた彼女の視線がふっと上がった。
こちらを見る。
驚くでもなく。
警戒するでもなく。
まるで今日この時間に私達が現れることを、ずっと前から知っていたように。
「あら、こんにちは」
少女は柔らかく微笑んだ。
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
顔が似ているわけではない。
声だって同じではない。
けれど、知っている。
塔の最上階で、こちらが必死に足掻いている姿を楽しそうに眺めていた女。
暴食の黒姫グラティア。
目の前の少女が浮かべた微笑みには、あの魔王と同じ何かがあった。
甘く、穏やかで、それなのにこちらの中身まで見透かしているような、不思議な気配。
隣でミーナが僅かに息を呑む。
私も自分の呼吸を意識しながら、少女の向かいまで歩いた。
「……こんにちは」
口の中が乾いている。
けれど、ここまで来た以上、聞かなければならない。
塔であれだけのものを見て、現実にまで尻尾が現れて、それでも知らないふりをして帰れるほど私は器用ではなかった。
「あなたのこと……『暴食』さんって呼んでもいいのかしら?」
少女の瞳が、ほんの僅かに見開かれた。
意外だったのは、それが『正体を見抜かれた』という顔には見えなかったことだ。
一瞬だけ純粋に驚き、それから何か面白いものを見つけたように目を細める。
「ふふ」
小さな笑い声とともに、銀のフォークが皿の上へ置かれた。
かちゃり、と。
それだけの小さな音が、なぜかやけに耳へ残った。
「立ち話もなんだし、座ったら?」
少女は何の警戒も見せず、空いている向かい側の席へ視線を向けた。
あまりにも自然な態度だった。
塔で戦ったグラティアのように殺気を向けてくるわけでもなければ、逃げようとする素振りもない。
ただ、以前会った時と同じように。
カフェで偶然隣り合った相手へ話しかける程度の気軽さで、私達を迎えている。
「あなた達も、お腹が空いているでしょう?」
その言い方まで、妙に楽しそうだった。
甘い焼き菓子の香りが漂う、ごく普通の夕方のカフェ。
食器が触れ合う音も、周囲の客の笑い声も、窓から差し込む柔らかな夕日も、何ひとつ異常ではない。
その平和な日常の真ん中で。
暴食の魔王を思わせる少女だけが、私達の抱えている疑問をすべて知っているような顔で、静かに微笑んでいた。




