火種
私が≪再生する≫を選択した瞬間、オルゴールの旋律がわずかに大きくなった。
ちりん、ころん。
円卓の上で、小さな木箱の内部から淡い光が漏れ始める。
「……え?」
てっきり、さっき《捕食》した時と同じように意識を記憶の中へ引き込まれるのだと思っていた。
けれど、今回は違った。
オルゴールの蓋から細い光の筋が幾重にも立ち上がり、円卓の上空で少しずつ形を結び始める。最初は輪郭すら判別できなかった光の粒が、壁を作り、床を作り、人の姿を描き出し、やがて私達4人の目の前へひとつの光景を立体映像のように浮かび上がらせた。
「映像……?」
「ホログラムに近いですね☆」
ミルキーが息を潜めるように答えた。
私達のいる作戦室は消えていない。
冷め始めた紅茶も、手つかずになった菓子皿も、円卓の向こう側に座るミーナ達の姿もそのままだ。
ただ、その中央にだけ遠い過去の光景が重なっている。
そして、オルゴールの優しい旋律へ唐突に悲痛な声が混ざった。
『――ス様!!』
『――――リリス様!!』
名前の部分だけが激しいノイズに掻き消されている。
その声に反応するように立体映像が大きく揺れ、光の粒子が一気に色を帯びた。
映し出されたのは、先ほど見た穏やかな茶会とは似ても似つかない場所だった。
激しい戦いが終わった直後なのだろう。
美しく磨き上げられていたはずの大理石の床には幾重もの焦げ跡や戦闘の痕が残り、高価そうな調度品は原形を失って散乱している。遠くの壁には巨大な亀裂が走り、その向こうではまだ怒号や足音が絶え間なく飛び交っていた。
人間らしい影もいる。
魔物らしき姿もある。
武器を手にした眷属達も走っている。
けれど、記録そのものが激しく損傷しているせいか映像は何度もノイズに覆われ、誰が敵で誰が味方だったのかを判断することさえ難しい。
その混沌の中心に、ひとりの女性が倒れていた。
「……この人」
思わず声が漏れた。
見覚えがある。
あの穏やかな茶会の記憶で、オルゴールを宝物のように抱えていた女性。
艶やかな雰囲気も、少し子供っぽい高めの声も、腰から伸びた尻尾も間違えようがなかった。
グラティアが私を見て口にしていた名前が、頭の中で静かに重なる。
――リリス。
以前の記憶で見た、あの人だった。
ただし、今の彼女には茶会の時にあった無邪気さはほとんど残っていない。
戦いによって深刻なダメージを受けているらしく、起き上がろうとする力さえ残されていないようだった。それでも片方の手だけは大切なものを守るように胸元へ寄せられ、その指先には見覚えのある小さな木箱が握られている。
オルゴールだ。
そして、もうひとつ。
黒く硬い、小さな種のようなものが彼女の手の中にあった。
ただの植物の種には見えない。光の映像越しでさえ、その小さな殻の内側へ何か途方もなく濃密なものが押し込められているような、不思議な存在感があった。
『いたた……』
リリスが、弱々しく笑う。
『あはは。ドジやっちゃったぁ』
明るい声を出そうとしている。
周りで必死に彼女を呼び続けている誰かを、安心させようとしているのだろう。
けれど、その無理をした笑い方がかえって胸に痛かった。
『ティアちゃんの言う通り、人間って……信用できなかったね……』
「……ティア」
私の口から、反射的にその名前が零れた。
先ほどの記録でも、リリスは同じ名前を呼んでいた。
『いざとなったら、ティアちゃんに助けてもらうし』
あの時は、何の危機感もなく笑っていた。
その同じ相手を、今度はこんな場所で呼んでいる。
リリスのすぐ傍には、彼女を支えようとする誰かが膝をついていた。
顔は見えない。
記録が欠損しているのか、頭部から上だけが激しいノイズに覆われている。声も同様で、名前や一部の言葉が不自然に削り取られていた。
『リリス様! どうか、もうお話しにならないでください!』
悲鳴にも近い声だった。
それでもリリスは、困ったように少しだけ笑った。
『でも、どうしても……なかよくしたかったんだぁ』
その一言に、胸が詰まる。
あの茶会で、人間から貰ったオルゴールを嬉しそうに見せながら笑っていた姿が重なった。
--人間って、ちょろくて好き♡
あれは単なる冗談だったのだと思う。
本当は、人間が好きだったのだ。
魔王でありながら、人間の作ったものを気に入り、人間と関わることを楽しんでいた。
だからこそ、最後まで信じてみたかった。
その結果が、今目の前へ投射されているこの光景なのだとしたら。
「……そんな」
隣でミーナが、掠れた声を漏らした。
リリスは震える指を動かし、手にしていたオルゴールと黒い種を傍らの人物へ差し出した。
『ねえ……これ、ティアちゃんに渡してくれる?』
ノイズに覆われた人物が、何かを言おうとする。
けれど、リリスはゆっくりと首を横へ振った。
『あの子、優しいから……きっと……私がこんな風になったって知ったら……絶対に戦っちゃう』
声が途切れるたび、投射映像もざらりと乱れる。
円卓の上で現実のオルゴールが鳴らしている旋律まで、映像の向こう側から聞こえる壊れかけた音と重なり、不安定に揺れ始めた。
リリスは息を整えるように僅かな間を置いてから、今までとは違う声で言った。
『……絶対、ダメ』
その言葉だけは、ひどく鮮明だった。
お願いではない。
遺される相手へ何としても守ってほしい、強い意思を込めた言葉だった。
『あれは……勇者は……人間じゃない……理を越えた、なにかだから……』
勇者。
その言葉が発せられた瞬間、投射されていた映像全体に無数の亀裂のようなノイズが走った。
「……人間じゃない」
ネネが呟く。
誰もそれ以上は喋らなかった。
グラティアがミルキーの姿の向こう側へ見ていた人物。
親愛なる、と呼びかけながら、名前だけをシステムに塗り潰された誰か。
グラティアほどの存在が、何百年という時間を越えてなお執着し続けていた『勇者』。
それを、リリスは人間ではないと言った。
理を越えた何か。
私達が今までゲームの設定として当たり前に使っていた『勇者』という言葉が、急に得体の知れないものへ変わっていくようだった。
『身を隠して、長い時間やりすごすだけで……いいの……』
リリスは傍らの人物へ言い聞かせるように続ける。
『きっとそれで……私達の、勝ちだから……』
『――リリス様! もう喋らないでください!』
ノイズ混じりの声が、今度こそ耐えきれなくなったように叫んだ。
リリスはそれには答えなかった。
ただ、手の中のオルゴールを一度だけ愛おしそうに撫でる。
その仕草だけは、あの茶会で見たものと何ひとつ変わらなかった。
『ねぇ……--。まだ、カトリーヌは……居るかしら?』
「……カトリーヌ」
今度はミーナが反応した。
自然と、自分の装備へ視線を落とす。
炎将軍カトリーヌ少佐。
ミーナが愛用している装備に刻まれた名前であり、先ほどの茶会でもリリスが『自分の右腕』と呼んでいた存在。
偶然と片づけるには、もう繋がるものが増えすぎていた。
『もう……何も、見えなくて……』
リリスの声がさらに細くなる。
それでも、彼女は自分自身のことではなく、最後まで残された者達のことを気にしていた。
『せめて、あなたたちだけでも……』
その先は聞き取れなかった。
投影されていた光景が大きく乱れたからだ。
ざっ、と黒いノイズが走り、映像の中にあった大理石の床が掻き消される。次いで崩れた城壁も、周囲を駆け回る人影も、リリスの傍らで泣いていた人物も、次々と光の砂嵐へ飲み込まれていった。
『――――――』
最後まで何かを伝えようとしていたらしい。
けれど、もう声にはならない。
やがてリリスの姿も輪郭から崩れ、彼女が手にしていたオルゴールと黒い種だけが、ほんの一瞬だけ光の中に残った。
ちりん。ころん。
ちり、ん……。
旋律が途切れた。
同時に、円卓の上へ投射されていた遠い過去の光景が静かに消えていく。
荒れ果てた城はなくなり、そこに残ったのは地下作戦室の重い石壁と、大きな円卓、それから冷めかけた紅茶だけだった。
誰も、すぐには口を開かなかった。
ネネも。ミーナも。ミルキーも。
ーー私も。
オルゴールだけが、まるで先ほど見せたものなど何も知らないというように、円卓の中央で静かな旋律を奏で続けている。
さっきまでは、あんなに温かい音だったのに。
今は同じ音を聞くだけで、胸の奥が締め付けられる。
「……今の」
ようやく口を開いたのはネネだった。
いつもの軽い調子はなく、声も自然と低くなっていた。
「かなり、まずい記録だよね」
「はい☆」
ミルキーも、普段の攻略中ですら滅多に見せないほど険しい顔をしていた。
「特に『勇者は人間ではない』『理を越えた何か』という発言は無視できません。加えて、『長い時間をやり過ごせば勝てる』とも言っていました☆」
「普通の設定資料に入ってる台詞とは、思えないよね」
「少なくとも、今まで私達が見てきた通常のクエストログとは性質が違います☆」
ミルキーは円卓の中央で鳴り続けるオルゴールへ目を落とした。
「世界設定のかなり深い部分に触れている記録である可能性があります☆」
「ティアは……」
私は、さっきの映像を思い返しながら言葉を探した。
「たぶん、リリスにとって本当に大切な相手だったんだと思う」
戦ってほしくないから、伝言を残した。
自分がこんな状態になったと知れば、ティアは必ず勇者と戦う。
それをリリスは分かっていた。
なぜなら、ティアが優しいことを知っていたから。
「それなら……」
ミーナが胸元へ手を添え、どこか悲しそうに呟く。
「そのティアという方は、後からこれを知らされたのでしょうか」
「分からない」
私は首を横へ振った。
「ちゃんと届いたのかすら、まだ分からない。でも……」
もし届いていたとして。
それでもティアが戦ったのだとしたら。
あるいは、何らかの理由でこの言葉が届かなかったのだとしたら。
どちらにしても、その先にあったものが幸福な結末だったとは到底思えない。
「グラティアさんが勇者へ向けていた感情とも、何か繋がっているのかもしれませんね☆」
ミルキーが慎重に言う。
「ただ、まだ人物関係は確定させない方がいいでしょう。ティアさんとグラティアさんの関係も、リリスさんがその後どうなったのかも、私達には分かっていません☆」
「……うん」
その通りだ。
今ある断片だけで答えを作ってはいけない。
でも、輪郭は確実に見え始めている。
「それと、カトリーヌ」
ミーナが自分の服を摘まんだ。
「私が使っている装備の名称と同じです。『炎将軍カトリーヌ少佐服』」
「茶会の記録でも、リリスはカトリーヌのことを自分の右腕だって言ってた」
「だとすれば、少なくとも名前だけの偶然とは考えにくいですね」
ミーナが静かに自分の袖へ目を落とす。
ゲームの中で、私達が何気なく装備してきた防具。
敵の名前。
スキルの説明。
アイテムのフレーバーテキスト。
そんな場所へ、もしかすると遠い過去に本当に存在した誰かの名前や出来事が、断片として埋め込まれているのかもしれない。
「今まで世界設定の小ネタだと思ってたものの中に、まだいっぱい混ざってる可能性あるねぇ」
ネネの言葉に、私は頷こうとした。
その時だった。
「……あれ?」
円卓の中央に、小さな黒いものが落ちている。
さっきまではなかった。
オルゴールのすぐ隣に、いつの間にかひとつのアイテムが実体化していた。
私は思わず椅子から身を起こす。
「これ……」
見覚えがある。
記録の中で、リリスがオルゴールと一緒に託そうとしていた黒い種だ。
指先ほどの大きさしかない、小さな種。
表面は墨を塗り込めたように黒く、光をほとんど反射しない。
けれど、立体映像越しに見ていた時とは違い、今度はそれが本物のアイテムとして目の前に存在している。
「触らない方がいいんじゃない?」
ネネが珍しく慎重な声を出す。
「……そうだね」
そう答えたくせに、私は目を離せなかった。
何かに呼ばれたわけではない。
手を伸ばせと囁かれたわけでもない。
ただ、確かめなければならないような気がした。
「リエラさん、慎重にお願いします」
「うん」
私はそっと黒い種を摘み上げる。
冷たい。
驚くほど軽いのに、表面だけは石のように硬かった。
けれど、掌へ乗せた瞬間から妙な違和感がある。
中身がない。
そんな感覚だった。
「……なんだろ。これ」
指先でほんの僅かに転がした、その時だった。
ぱらり、と。
「え?」
黒い種が崩れた。
力を込めたつもりはない。
それなのに硬かったはずの殻は乾き切った砂の塊のように形を失い、私の掌の上で細かな黒い粒子へ変わっていく。
「リエラちゃん、動かないで」
ネネが身を乗り出す。
ミルキーはすでに解析ウィンドウを開いていた。
「構造反応を確認します☆」
散った黒い粒子の上へ、いくつもの半透明ウィンドウが重なる。
数秒後。
ミルキーの目が僅かに見開かれた。
「……これは☆」
「なに?」
「壊したわけではありません☆」
ミルキーが解析表示をこちらへ共有する。
そこには、たったひとつだけ意味の分かる文字列が残されていた。
≪発芽済み≫
作戦室から音が消えたように感じた。
実際にはオルゴールが鳴っている。
ちりん、ころん、と、先ほどからずっと同じ旋律を奏でている。
それなのに、今はその音さえやけに遠い。
「……発芽済み?」
ミーナが表示を読み上げる。
「つまり、これは……種としては、もう使われた後ということでしょうか」
「そう考えるのが自然です☆」
ミルキーが慎重に答える。
「少なくとも、現在このアイテムに中身と呼べるものは残っていません。殻に相当する部分だけが記録と一緒に残されていた可能性があります☆」
「じゃあ」
ネネが、掌の黒い粒子を見る。
「中に入ってたものは、とっくの昔にどこかで芽を出したってこと?」
誰も答えられなかった。
私は掌に残った黒い粒子から目を離せない。
リリスはあの種を、オルゴールと一緒にティアへ渡してほしいと託した。
けれど、私達の手元へ現れた種は空だった。
しかもシステムは、はっきりと『発芽済み』と表示している。
なら、いつ発芽したのか。
どこで発芽したのか。
何が生まれたのか。
そして、それを使ったのは誰なのか。
何ひとつ分からない。
ただひとつ分かるのは、あの黒い種が過去の記録に残っただけの遺品ではないということだった。
「……嫌な感じ」
ネネがぽつりと呟く。
「うん」
私も否定できなかった。
掌を僅かに傾けると、役目を終えた黒い粒子がさらさらと崩れていく。
その隣では、古びたオルゴールだけが変わらず鳴っていた。
ちりん、ころん。
かつてリリスが大切そうに抱えていた、小さな箱。
その優しい旋律を聞きながら、私はさっきまでよりもずっとはっきりと感じていた。
私達が見つけたものは、遠い昔に終わった物語の記録ではない。
リリスが託した種は、すでにどこかで芽吹いている。
過去に蒔かれたものが、形を変えながら今もどこかへ続いている。
そして私達は、暴食の塔を攻略したことで、その途切れていたはずの続きを偶然拾い上げてしまったのだ。




