世界のバグ
地下訓練所の奥にある重厚な扉を開け、広々とした作戦室へ足を踏み入れたところで、ようやく外のお祭り騒ぎのような喧騒が遠ざかった。
分厚い石造りの壁には防音処理が施されていて、中央には戦術会議用の大きな円卓が鎮座している。その上では半透明の投影盤が淡い光を放ち、いつでも戦闘ログやステータスを共有できる状態になっていた。
私達が円卓を囲むように腰を下ろすと、ほどなくしてクレアがワゴンを押して入ってきた。
「お茶はこちらへ。お菓子はINTを一時的に上昇させるものと、MPの継続回復効果があるものを中心にご用意いたしました」
「ありがとうございます、クレアさん」
ミーナがにこやかに礼を言う。
さっき大広間で焼き菓子を口いっぱいに頬張っていたところを見られたのがよほど恥ずかしかったのか、今日のクレアは普段より心なしか所作が丁寧だった。ティーカップの向きを揃え、菓子皿の位置まで何度も確認してから深々と一礼すると、逃げるようにワゴンを押して部屋を出ていく。
重い扉が閉ざされ、今度こそ作戦室が完全な静寂に包まれた。そこで初めて、誰からともなく深いため息が漏れる。
「さて、まず」
ミーナが湯気の立つティーカップへ手を伸ばしながら口を開く。
「それぞれ言いたいことも、聞きたいことも山ほどあると思いますが」
「あるねぇ。山どころか、さっき登った塔くらいある」
ネネが椅子の背へ深く身体を預ける。
「その例えやめて。私、あの塔の中はもうしばらく見たくない……」
私は心底疲れた声で返し、紅茶を一口飲んだ。
ほんのりとした甘さと柔らかな香りが口の中へ広がる。戦闘が終わってからもどこか強張ったままだった身体が、その温かさに触れてようやく少しずつ日常へ戻っていくようだった。
その一方で、落ち着きを取り戻したからこそ、今度は第50階層で起きた出来事が改めて現実味を伴って重くのしかかってくる。
「あれ……やっぱり、『魔王』よね?」
私が核心へ触れると、今度は誰も冗談を返さなかった。
ミーナが静かに頷き、ネネもクッキーへ伸ばしかけていた手を止める。ミルキーも少し考えてから、険しい表情のままこちらを見た。
「少なくとも、普通のネームドモンスターでは説明がつきません」
「うん。あそこまでいくと、もう『魔王』って呼ぶしかないと思う」
「私も同意です☆ 既存のボスデータとは、あまりにも性質が違いすぎます☆」
大罪の魔王。
今のところ、それは私達が集めた情報から導き出した仮説に過ぎない。それでも『暴食の黒姫グラティア』という存在を説明する言葉として、それ以上にしっくり来るものはなかった。
その単語を口にした途端、私は反射的に閉じた扉へ視線を向けてしまう。
「……クレア、もういないよね」
「ええ。完全に退室しています」
ミーナが答えるのを聞いて、少しだけ安心する。
「なんか嫌だなぁ。この世界、『勇者』は普通に言えるのに、『魔王』だけNPCの前じゃ禁句なんだよね」
「そこも非常に露骨ですよね☆」
ミルキーがカップへ口をつけながら頷いた。
「これまでの検証では、『勇者』という単語に対してNPCは正常に反応しました☆ 一方で『魔王』については、発音しようとしたり聞かされたりした時点で、明らかに処理落ちに近い挙動を見せています☆」
「勇者は知っていい。でも、魔王は知られちゃ困る」
ネネが指先でクッキーを弄びながら、どこか気味悪そうに眉を寄せる。
「ゲームの設定っていうには、ちょっと露骨すぎるよねぇ」
「そして、その制限がNPCだけとは限りません」
ミーナが静かに続けた。
「グラティア本人も、戦闘中に『制限が解除された』と口にしています。あれほどの力を持っていながら、それでも本来の状態ではなかったと考える方が自然です」
右腕を部位破壊した直後、グラティアの能力は弱くなるどころか、むしろ一段階広がった。空間へ巨大な口を出現させ、影そのものを攻撃するという、それまでとは明らかに次元の違う力を使い始めたのだ。
しかも、その時には私達プレイヤー側の制限まで僅かに緩んでいる。
「世界そのものに掛けられてる枷みたいなものがあって、グラティアはそれを認識してた……?」
「可能性はあります☆」
ミルキーは断言せずに答えた。
「ただ、現段階では仮説ですね☆ グラティアさん自身の制限と、塔に設定されているプレイヤー側のレベルシンクが同じ仕組みなのかどうかも分かりません☆」
「分からないことばっかり増えていくなぁ……」
私は小さく息を吐き、ティーカップを両手で包み込む。
温かな陶器へ指先を触れていると、そこから連想するように、さっき《捕食》した瞬間に流れ込んできた記憶がまた鮮明に蘇ってきた。
「それで、私が《捕食》した時に見たものなんだけど」
三人の視線が一斉にこちらへ集まる。
私はまだ記憶が鮮明に残っているうちに、見たものを最初から順に説明していった。
手のひらに収まるほどの古いオルゴールと、少し濃い紅茶。向かいにはオルゴールを宝物のように抱えた女性が座っていて、その傍らでは眷属らしき人物が紅茶を淹れていた。
話していた内容だけを拾えば、魔王同士の同盟なんていう物騒なものだった。片方が尻尾を与え、その代わりにもう片方から眷属を一人預かるという話までしていたのに、実際の空気は驚くほど穏やかで、二人はまるで昔から付き合いのある友人のように軽口を叩き合っていた。
「あのオルゴールを持ってた女性、自分の尻尾についても話してたの」
「尻尾ですか?」
ミーナが目を丸くする。
「うん。『あなたから貰ったこの尻尾、すごくいいわ。色んなものが食べられるの』って」
その言葉を口にした瞬間、円卓を囲む空気が少しだけ変わった。ネネが口へ運ぼうとしていたクッキーを、ゆっくり皿へ戻す。
「……待って。それ、かなり大きい情報じゃない?」
「私もそう思う」
私は自分の腰から伸びる尻尾を意識しながら頷いた。
「少なくとも、その女性が持っていた『食べる』性質のある尻尾は、生まれつきのものじゃない。もう一人から貰ったものみたいだった」
「能力の一部を、何らかの形で他者へ与えられる可能性があるということですね☆」
ミルキーがすぐに整理する。
「たぶん。それと、もう一つ気になることがあって」
私は記憶の中で交わされていた会話を思い返した。
「尻尾を渡した側は、『私にはあなたみたいに誰かを誘惑して従えるような便利な力がない』って言ってたの。だから、紅茶を淹れられる眷属が欲しかったって」
「なるほど」
ミーナが僅かに目を細める。
「片方には、色んなものを『食べる』性質のある力がある。もう片方には、誰かを『誘惑して従える』力がある。そして二人とも、自分にはない相手の能力を便利だと思っていた……ということですね」
「うん。少なくとも、私にはそう聞こえた」
「食べる方と、誘惑する方かぁ」
ネネが頬杖をつきながら呟き、少しだけ考えてから眉を上げた。
「それって、そのまま『暴食』と『色欲』っぽくない?」
「私も、それは思った」
確証まではない。
それでも、七つの大罪を冠した塔と、その頂上へ突然現れたグラティア。そこから流れ込んできた記憶の中で語られた二つの性質を考えれば、無関係と考える方が難しかった。
何より印象に残っているのは、二人の距離感だった。
オルゴールを抱えていた女性は、貰った尻尾を嬉しそうに揺らしながら、色んなものが食べられると喜んでいた。一方で尻尾を与えた側も、相手の持つ誘惑の力を便利そうに語り、その能力で従えているらしい眷属を羨ましがっていた。
敵の能力を警戒しているような会話ではない。
仲のいい友達同士が、相手の持っているものを見て「それいいな」と羨ましがっているような、妙に気安いやり取りだった。
「あの記憶、すごく穏やかだったの」
私はカップの中で揺れる紅茶へ視線を落とした。
「魔王とか、勇者とか、同盟とか、言ってることだけ拾えば物騒なんだけどね。でも実際には、紅茶を飲みながらくだらない冗談を言い合って、お互いにないものを羨ましがったり、危なっかしい相手のことを心配したりして……普通の友達みたいだった」
第50階層で私達を相手にしていたグラティアとは、あまりにも空気が違う。
けれど、あの穏やかな時間と、塔の最上階に満ちていた狂気がまったく無関係だとは思えなかった。その間に何が起こったのかまでは分からないが、少なくとも昔のどこかに、暴食と色欲を思わせる力を持った二人が親しく過ごしていた時間があった。
「今のグラティアさんからは、少し想像しづらいですね☆」
ミルキーが静かに呟く。
「それに、『食べる』性質を持った尻尾と『誘惑する』能力……どちらもリエラさんにとって無関係とは思えない要素です☆」
「そこなんだよね……」
私は思わず自分の尻尾へ視線を落とした。
私の持つ《捕食》と、サキュバスとして使う《誘惑》。偶然だと片づけるには、似ているものが少しずつ増えすぎていた。
「ただまあ」
ネネが改めてクッキーを手に取り、今度こそ一口かじった。
「あの最上階にいたグラティアが、普通のボスじゃなかった。そこだけはもう疑いようがないよね」
「それは間違いないと思う」
私は頷きながら、もう一度自分の尻尾へ視線を落とした。
昔の記憶にあった『食べる』力を持つ尻尾。そして、その記憶を私へ流し込んできたグラティア本人。
分からないことは山ほどある。
けれど、ひとつだけ今すぐ確かめられることが残っていた。
「……ところで、リエラさん☆」
ミルキーが少しだけ身を乗り出す。
その目には、さっきまでの重苦しい考察とは少し違う、攻略班らしい好奇心が戻り始めていた。
「なに?」
「肝心なことをまだ確認していません☆」
「肝心なこと?」
「グラティアさんを《捕食》したことで、リエラさんに何が追加されたかです☆」
「あ」
言われて初めて、私もそこへ意識が向いた。
「ネームドのしかもボス……さぞ美味しかったんでしょ~」
「言い方!」
ネネの絶妙な表現に反射的にツッコミを入れる。
「でも、確かに……美味しかった……かも」
そう口にしたところで、自分でも何を言っているのか分からなくなって少しだけ頬が引きつった。
グラティアを《捕食》した時に感じたものは、料理を食べた時の味覚とはまるで違う。けれど、膨大な力そのものを取り込んだあの感覚を表現しようとすれば、確かに私の中では『美味しい』という言葉が一番近かった。
そして《捕食》した直後には見知らぬ記憶まで流れ込んできたうえ、その後は塔の攻略完了やら外の祝勝ムードやらで、まともに取得ログを確認する余裕がなかった。
冷静に考えれば、今回の攻略でゲーム的に一番異常なのはそこだ。
そもそも暴食の塔では、それまで一度も《捕食》が成立していない。
「じゃあ、まずログから見る?」
「お願いします☆ 正直、そこはかなり気になっています☆」
「やっぱり楽しそうじゃん」
「攻略情報の確認は重要です☆」
「はいはい」
少しだけいつもの調子を取り戻したミルキーに苦笑しながら、私はメニューを開いて自分のステータスウィンドウを呼び出した。
取得ログとスキル欄、それから称号欄をまとめて円卓中央の投影盤へ共有する。
「まず大前提として、暴食の塔って《捕食》できなかったの。下層の敵も、ボスも、倒したら光になって経験値と報酬へ変わるだけだったから、インスタンスダンジョン特有の仕様なんだろうって思ってた」
「その中で、グラティアさんにだけ《捕食可能》の表示が出たわけですね☆」
「そう。それも、HPをかなり削った後に突然」
「じゃあ、その時に何を取得したのか見てみようよ」
ネネまで椅子から少し身を乗り出してくる。
「なんか怖いなぁ……」
そう言いながら、私は保存されていたログを呼び出した。
≪暴食の黒姫グラティアを捕食しました≫
≪STR+120≫
≪VIT+270≫
≪【スライムボディ】同系統スキルを確認≫
≪【硬質化】を獲得しました≫
≪【暴食】を獲得しました≫
≪同系統スキルを確認≫
≪【捕食】スキルの発動条件を変更します≫
≪特殊称号【暴食を食らうもの】を獲得しました≫
「……うっわぁ」
ネネが素直に引いた声を出した。
「改めて見ると数字が気持ち悪いね」
「私もそう思う……」
STR+120に、VIT+270。
通常の敵を一体《捕食》した時とは比較にならない。ステータスだけでも異常なのに、《硬質化》と《暴食》を獲得し、そのうえ既存の《捕食》スキルそのものにまで変更が入っている。
「通常の成長曲線からは完全に外れていますね☆」
ミルキーの声に、攻略班特有の興奮が僅かに混じる。
「しかも【暴食を食らうもの】は、私達に付与された共通称号ではありません☆」
「そうそう」
ネネが投影盤の称号欄を指差した。
「私のところにはないよ、それ」
「これは私だけ……」
私は称号一覧を開き直す。
他の称号に混じって、見慣れない【暴食を食らうもの】という名前が静かに表示されている。
塔を踏破した者でも、ただグラティアを倒した者でもない。
『暴食』そのものを食らうもの。
そう考えると、改めて妙な響きだった。
「後で効果も詳しく検証したいですね☆」
「ミルキー、目がすごく楽しそうなんだけど」
「気のせいです☆」
「絶対嘘」
疲労困憊だったはずなのに、こういう時だけ妙に生き生きしている。
少しだけいつもの空気が戻ってきたことに安心しながら、私はさらにメニューを操作した。
「あと、一応こっちも確認してみたんだけど」
今度は召喚系の項目を表示する。
既存の眷属や召喚スキルに並び、グラティアに関連する新しい項目が追加されていないかを探していく。
「……グラティアさんという名前はありませんね」
ミーナが画面を追いながら呟く。
「うん。ただ……これ」
一覧の端で、ネネが目ざとく異常を見つけた。
「なんか一個、盛大に文字化けしてない?」
そこには、日本語にも英語にも見えない記号の羅列があった。項目そのものは確かに存在しているのに、名前も説明文も正常に表示されず、ノイズの塊のように潰れていて内容を読み取ることができない。
「……嫌なもの見つけたなぁ」
「グラティアさんに関係するものだと決まったわけではありません☆」
ミルキーはそう言いながらも、その表示を食い入るように見ていた。
「ただ、今回のタイミングで増えた項目なら無関係とも考えにくいですね☆」
私は改めて、ここまでに起きたことを頭の中で並べ直す。
「『魔王』って言葉をNPCが扱えない。グラティアは塔の通常ルールから外れて現れた。《捕食》できないはずの場所で、あの子だけ捕食対象になった。制限の存在も知っていて、今度はスキル欄に文字化けまで出てる」
「ゲームシステムの中に存在しているのに、ゲームシステムが正常に名前を付けて管理できていない……という見方もできますね☆」
「それって要するにバグじゃない?」
ネネが言う。
「あるいは、私達からはバグに見えるだけの何かです」
ミーナの一言に、今度は誰もすぐには返事をしなかった。
そこへミルキーが自分のステータス画面を共有し、別の項目を開く。
「こちらも確認しておきましょう☆ 今回、パーティ全員へ付与された称号です☆」
≪称号【暴食の塔・踏破者】≫
≪称号【イレギュラーバスター】≫
「これ、改めて見るとすごいですね……」
ミーナが効果欄を読んで目を丸くした。
最大HPとMPへの補正だけでなく、基礎ステータス全般の底上げや状態異常耐性まで含まれている。レベルアップによる成長とは別枠で付与される固定補正らしく、塔の完全踏破報酬としてはかなり強力だった。
「塔クエスト関連は、元々完全踏破時の恩恵が大きいことで知られていました☆ ただ今回は、それに加えてネームド個体の討伐条件まで成立していますから、通常踏破時より報酬が増えている可能性があります☆」
「ってことはさ」
ネネが自分のステータスを開き、数値を見比べる。
数秒後、その顔が見る見るうちに明るくなった。
「私、死に戻りでレベル112まで落ちたけど……これ、総合ステータスだと前より高くない?」
「そこに今気づいたの!?」
「だって、さっきまでそれどころじゃなかったし!」
ネネが椅子から半分立ち上がり、嬉しそうに画面を見直す。
「すご。固定補正だからデスペナでレベル落ちても残ってるじゃん。じゃあ実質勝ちでは?」
「影を食べられて一回戦闘不能になってるんだからね?」
「それはそれ、数字は数字」
「切り替え早すぎない?」
「RPGで数字が増えれば、だいたいの悲しみはちょっとだけ薄まるんだよ」
「……否定しづらい」
私も自分のステータスを見直してしまう。
グラティアそのものを《捕食》した分に、塔踏破の恩恵と共通称号、さらに私だけの【暴食を食らうもの】まで加わっている。ゲームとして見れば、とんでもない大収穫だった。
あれほど苦労したのだから、これくらい貰っても罰は当たらないと思う自分もいる。
ただ、グラティアから流れ込んできたあの穏やかな記憶を知ってしまった後では、すべてを単純な戦利品として喜ぶ気にもなれなかった。
「そういえば、報酬アイテムもありますよね☆」
ミルキーに言われ、私はようやく思い出す。
「あっ」
「今度はリエラちゃんが忘れてた」
「仕方ないでしょ。魔王食べた直後に知らない記憶まで見せられたんだから、完全にキャパオーバーだったの」
インベントリの新規取得欄を開く。
そこには大量の素材やアイテムが追加されていた。
暴食の魔石や、グラトニーブロス由来と思われる生産素材。黒鉄と骨を組み合わせた特殊素材に、銀製のティースプーンや菓子箱まで混じっている。
「なんで最終ボス報酬にティースプーンがあるのよ……」
「暴食らしくていいんじゃない?」
「そういう問題かなぁ」
ネネと話しながら一覧を追っていた私の指が、あるところで止まった。
「……待って」
名前が読めない。
また一つ、正常に表示されていない項目がある。
「文字化け……」
ミーナもすぐに気づいた。
それまで少しだけ戻ってきていた楽しい報酬確認の空気が、静かに冷えていく。
今度は、報酬アイテムまで文字化けしていた。
「まあまあ」
ネネが空気を変えるように、わざと軽い声を出す。
「危なそうなら触らず、まずミルキー先生に鑑定してもらえばいいんじゃない?」
「ですから、私は先生ではありません☆」
「じゃあミルキー博士」
「それも違います☆」
「もう何でもいいから、とりあえず確認してみよっか」
私は苦笑して、文字化けしたアイテムを選択した。
インベントリから実体化させ、円卓の中央へ置くと、かたり、と小さな音がした。
「……え?」
現れたのは、呪われた武器でも、禍々しい魔石でもなかった。
手のひらへ乗せられるほどの、小さな木箱。
表面には長い時間を経たような細かな傷があり、装飾の金具も少しくすんでいる。決して豪華なものではないのに、蓋には花と月、それから小さな鳥を思わせる繊細な彫刻が残っていた。
見た瞬間、心臓が大きく鳴った。
「……嘘」
喉から小さな声が漏れる。
蓋の隙間から、カチ、カチ、と微かな歯車の音が聞こえていた。
私はその箱を知っている。
ついさっき、自分のものではない記憶の中で何度も眺めていたものだ。
「リエラさん?」
ミーナに呼ばれても、すぐには答えられなかった。
「これ……たぶん」
指先が、無意識に木箱へ伸びる。
触れた瞬間に何か新しい記憶が戻ってくるわけではない。それでも、古い木の感触までどこか知っているような錯覚があった。
「記憶の中にあったオルゴールだと思う」
「……これが?」
ネネまで声を潜める。
「まだ断定はできないけど、蓋の模様が同じなの。花と月と、小さな鳥……そこまで一致してる」
私は慎重に蓋へ指を掛けた。
誰も止めなかった。
ゆっくりと開く。
次の瞬間、作戦室の静寂へ柔らかな旋律が流れ出した。
ちりん、ころん、と。
胸の奥を優しく撫でながら、それなのになぜか泣きたくなるような、あの音だった。
「……っ」
白いテーブルが脳裏へ浮かぶ。
琥珀色の紅茶と、楽しそうに揺れていた尻尾。オルゴールを宝物のように抱きしめながら、人間はちょろくて好きだと笑っていた女性の姿までが、音色に呼び起こされるように鮮やかに蘇ってくる。
『それも人間から貰ったんでしょ?』
『うん。キレイよね』
間違いない。
少なくとも、私の記憶に残っている音はこれだった。
「……同じだ」
私はオルゴールから目を離せないまま呟いた。
「記憶の中で鳴ってたものと、同じ音……」
誰もすぐには言葉を返さなかった。
つい数分前までステータスが増えたと騒いでいた作戦室に、今は古びたオルゴールの旋律だけが流れている。
ミルキーが慎重に身を乗り出した。
「アイテムとしての魔力反応は、ほとんどありませんね。少なくとも、すぐに戦闘効果を発生させるようなものには見えません☆」
「じゃあ、本当にただのオルゴール?」
「それなら、文字化けした状態で特殊報酬へ混ざっている理由が説明できません☆」
その言葉に、私は小さく頷いた。
ただの古いオルゴールなら、なぜグラティアを討伐した報酬として現れたのか。なぜ名前すら正常に表示されないのか。そして何より、なぜ《捕食》によって見せられた記憶の中に、まったく同じものが存在していたのか。
旋律は止まらない。
誰かが忘れてしまわないように、遠い時間の向こうから同じ曲を何度も繰り返しているようだった。
やがて、音色へ重なるように半透明のシステムウィンドウが静かに開く。
≪記録断片を再生しますか?≫
その文字を見た瞬間、円卓を囲む全員の表情が変わった。
「……記録断片」
私は声に出して読み上げる。
「アイテムじゃなくて、記録媒体ってこと?」
「少なくとも、システム上は何かの情報を保持しているようですね☆」
ミーナはオルゴールと私を交互に見ながら、少しだけ心配そうに眉を寄せた。
「リエラさん。開いて……大丈夫でしょうか」
それは私にも分からない。
さっきグラティアを《捕食》した時だって、何が起こるのか分からないまま記憶を見せられた。今度は自分から、その続きかもしれないものへ触れようとしている。
それでも、ここで閉じるという選択肢はもう考えられなかった。
「ここまで来て見ない方が、たぶん後悔する」
「だよねぇ」
ネネが小さく笑う。
「私は賛成。怖いけど、めちゃくちゃ気になる」
「私も記録を取ります☆ 何か異常があれば、すぐに再生を止められるか確認しましょう☆」
ミルキーもすでにログ保存の準備へ入っている。
私は三人の顔を順番に見てから、もう一度オルゴールへ視線を戻した。
ちりん、ころん、と、あまりにも優しい音が鳴っている。
この先に待っているものも、あの穏やかなティータイムの続きならいい。
けれど、胸の奥では分かっていた。
あの記憶を見た時から感じていた、理由の分からない寂しさ。あれほど幸福そうだった時間が、どうして第50階層で出会ったグラティアへ繋がっているのかという、答えの出ない違和感。
おそらく、この先にあるのは、その答えへ続く何かだ。
「……再生する」
私はシステムウィンドウへ指を伸ばした。
選択した瞬間、オルゴールの旋律がわずかに大きくなる。
作戦室の円卓も、目の前にいるミーナ達の姿も、ゆっくりと薄い靄の向こうへ沈み始めた。
そして私達の意識は、オルゴールに封じられていた記録に引かれるように、もう一度だけ遠い過去へと傾いていった。




