暴食の塔・リザルト
≪暴食の黒姫グラティアを捕食しました≫
どこまでも無機質なシステム音声が、静まり返った第50階層へ淡々と流れた。
≪STR+120≫
≪VIT+270≫
≪【スライムボディ】同系統スキルを確認≫
≪【硬質化】を獲得しました≫
≪【暴食】を獲得しました≫
≪同系統スキルを確認≫
≪【捕食】スキルの発動条件を変更します≫
≪特殊称号【暴食を食らうもの】を獲得しました≫
視界の端を、獲得した能力やステータスのログが滝のように流れていく。
普段の私なら、STRが120増えた時点で大騒ぎしていたと思う。VITに至っては270だ。《硬質化》に《暴食》、さらには《捕食》の発動条件まで変更されているのだから、攻略直後の戦果としては笑ってしまうほど異常だった。
けれど、今の私はそれらをぼんやりと眺めることしかできなかった。
いつの間にか《ベルセルク》は解除され、血の色に塗り潰されていた視界も元の透明さを取り戻している。荒く乱れていた呼吸も少しずつ落ち着いていたが、グラティアの胸元を掴んでいた拳をゆっくり開くと、指先にはまだ小さな震えが残っていた。
あれほど激しく燃え上がっていた怒りが、今では嘘のように静まっている。
ミーナを一瞬で戦線から奪われ、ネネを庇ったトビーまで消され、そのネネ自身も最後には影を喰われた。グラティアだけは絶対に許さないと、本気でそれ以外を考えられなくなるほど憎んでいたはずなのに、彼女を《捕食》した直後に私の中へ流れ込んできたものは、その感情とはまるで正反対の記憶だった。
耳の奥では今も、小さなオルゴールが鳴っている。紅茶の香りや、カップを持っていた手の感覚まで残っていて、目の前にある戦いの跡が、かえって遠いものに感じられた。
あの記憶の中で、私は紅茶を飲みながら、向かいに座る女性の話を聞いていた。彼女は人間から贈られたオルゴールを大切そうに抱え、貰ったばかりらしい尻尾を嬉しそうに揺らしていた。そして、こちらへ向かって「ティアちゃん」と呼びかけていたのだ。
記憶の持ち主は、おそらくグラティアだ。自分の声ではないと思ったあの声も、そう考えれば重なる。オルゴールを抱えていたのは彼女の友人で、グラティアは、その相手の不用心さを心配しながら一緒にお茶を飲んでいたのだろう。
私たちを散々弄んだ相手に、あんな時間があったことが、まだうまく飲み込めなかった。向かいの女性をからかう楽しさも、放っておけないと思う気持ちも、ただ眺めていただけではない。自分の胸に湧いた感情として残っているからこそ、切り離すことが難しかった。
もちろん、それで仲間にされたことが消えるわけではない。ミーナもネネもトビーも、あの戦いで失った。ゲームの中でまた会えると分かっていても、怒った理由までなくなったわけではなかった。
ただ、グラティアのことを、さっきまでと同じようには考えられなくなっていた。勇者を嫌っているのは、あの茶会の頃から変わらない。それでも、友人へ向けていた柔らかな声と、塔の最上階で聞いた憎しみに満ちた声の間には、私の知らない時間がある。
オルゴールを抱えていた彼女は、その後どうなったのだろう。なぜグラティアは、あの場所で勇者への怒りを抱え続けていたのだろう。記憶は答えを見せないまま途切れ、私の中には、2人が交わした他愛のない会話ばかりが残っていた。
≪暴食の塔のクリアを確認しました≫
再びシステム音声が響き、私の意識が現在へ引き戻される。
≪ネームド討伐報酬として、参加パーティに称号を付与します≫
≪称号【暴食の塔・踏破者】≫
≪称号【イレギュラーバスター】≫
≪報酬アイテムをインベントリに付与します≫
その後にも大量の報酬ログが流れ続けたが、私の意識はひとつの単語へ引っかかっていた。
イレギュラー。
つまりシステムから見ても、今回の攻略は通常のものではなかったということなのだろう。
本来なら《グラトニーブロス》を倒して終わるはずだった第50階層へ、突然現れたネームドモンスター。こちらの常識を無視した力を使い、塔の制限そのものにまで関わっているらしいグラティアを、私達は想定外のまま強引に倒し、最後には私が《捕食》までしてしまった。
少なくとも、ただ珍しいボスを引いただけでは説明できないことが起きている。
「リエラさん……☆」
呼びかけられ、私はようやく顔を上げた。
ミルキーが、ひび割れた大盾を杖代わりにしながらこちらへ歩いてくる。
1歩進むだけでも辛そうだった。HPもスタミナもほとんど残っていないはずで、《アンカー》を無理やり使った最後の負荷まで考えれば、むしろ立っていること自体がおかしい。
それでも彼女は、自分より先に私の顔を覗き込んできた。
「大丈夫ですか?☆」
「え……あ、うん。私は大丈夫」
答えてから、自分の声が思った以上に掠れていることに気づく。
「それよりミルキーこそ平気? 最後、ほとんどHP残ってなかったでしょ」
「ええ☆」
ミルキーは埃まみれの顔で、それでも柔らかく笑った。
「リエラさんに、いっぱい護ってもらいましたから☆」
「それ、絶対こっちの台詞だよ」
私は苦笑しながら首を横へ振る。
最後にグラティアへ拳を届かせることができたのは、ミルキーが自分のHPを代償にしてあの1秒を作ってくれたからだ。それ以前だって、彼女が最前線でグラティアの異常な執着を受け止め続けてくれなければ、戦いはもっと早い段階で崩壊していただろう。
「……リエラ様」
少し離れたところから、静かな声が聞こえた。
振り返ると、ベルナデッタとエルーサがこちらへ歩いてきていた。
ベルナデッタの真紅の鎧は激戦の跡だらけで、巨大な大剣も何度も酷使したせいか、刃の表面には細かな欠けが走っている。隣を歩くエルーサも、古びた杖へ両手を添えながら、今にも座り込んでしまいそうなほど疲れていた。
それでも、2人とも笑っていた。
「見事な戦いでございました、リエラ様」
ベルナデッタが大剣を床へ立て、その場で深く頭を垂れる。
「あれほどの御力を間近にて拝見できたこと、騎士としてこれ以上の誉れはございません」
「私は、そんな格好いいものじゃなかったと思うけど……」
途中から完全に怒り任せだった。
敵を睨みながら殴り、蹴り、最後には自分のVITまで捨てて暴れ回っていたのだから、少なくとも誉れ高い魔王の戦いとはだいぶ遠い。
するとベルナデッタが僅かに口元を緩めた。
「主が怒るべき時に怒り、大切な者のために御身すら顧みず立たれる。それを醜いとは、私には到底思えませぬ」
「……ベルナデッタ」
「もっとも、御身を省みなさすぎる点につきましては、後ほどエルーサからも言っていただく必要があるとは思いますが」
「ええ、もちろんです」
即座にエルーサが頷いた。
「リエラ様は、ご自身のHPがどれほど危険な状態になっていたのか、きっと途中からほとんどご覧になっていませんでしたよね?」
「……見ては、いたよ?」
「本当に?」
「……途中までは」
「やはりです」
珍しく少しだけ厳しい声だった。
けれど、エルーサはすぐに表情を和らげる。
「それでも、最後まで皆様を守ろうとしてくださったことは、私にも分かっております。あのような敵を前にして、最後まで立ち続けてくださって……本当にありがとうございました、リエラ様」
深々と頭を下げられ、私は一瞬返す言葉を失った。
「違うよ」
今度は、はっきりと首を横へ振った。
「2人がいてくれたから、私は最後まで立っていられたんだよ。エルーサがずっと回復してくれてたから……ベルナデッタだってミルキーの横で何回グラティアを止めてくれたか分からない」
私だけではない。
ミルキーがいなければ、最後の1秒は作れなかった。ネネが右肩へ攻撃を通さなければ捕食の右腕を奪うこともできず、ミーナの火力がなければ《グラトニーブロス・カーヴァー》を突破できなかった。
そしてトビーの骨バリスタがなければ、盾持ちブロスの機動力を奪うという戦い方そのものが成立していない。
ベルナデッタとエルーサだって同じだ。
誰か1人でも欠けていたら、グラティアへ辿り着く前に終わっていた。
「だから、ありがとう。2人とも」
そう伝えると、エルーサは嬉しそうに目を細めた。
ベルナデッタは一瞬だけ驚いたような顔をしてから、胸元へ拳を当てる。
「その御言葉、此度の戦いの誉れといたします」
「そこまで重く受け取らなくていいからね?」
「いいえ、受け取らせていただきます」
「ベルナデッタは、こういうところは頑固ですから」
「ふ……エルーサもたいがい真面目じゃないか」
「まあ」
2人が顔を見合わせる。
そして、どちらからともなく小さく笑った。
なんだか、唐突に二人だけの世界が始まった。
それを見て、私もようやく肩の力を少しだけ抜くことができた。
この2人も、最後まで一緒に戦ってくれた。
召喚された眷属だからでも、私が命じたからでもない。
少なくとも今の私には、一緒にあの無茶苦茶な塔を越えた大切な仲間にしか思えなかった。
やがて、第50階層全体が淡く揺らぎ始める。
引き裂かれた赤い絨毯も、無数の亀裂が走った石床も、グラティアが最後まで立っていた場所も、クリア処理を示す柔らかな光の粒子に包まれていった。
≪暴食の塔を完全閉鎖します≫
≪参加者を準備エリアへ転送します≫
私とミルキーの足元に、転送用の魔法陣が広がっていく。
同時に、ベルナデッタとエルーサの足元にも別の光が灯った。
「あ……」
色が違う。
私達の転送陣が青白いのに対し、2人を包んでいるのは淡い紫色の召喚陣だった。
どうやら塔の閉鎖に伴い、召喚状態そのものも解除されるらしい。
「では、リエラ様」
ベルナデッタが真紅の大剣を背へ戻し、改めて騎士らしく胸へ手を当てた。
「また御呼びください。次なる戦場でも、我が剣は必ずやリエラ様の御力となりましょう」
「うん。また頼りにさせてもらう」
「リエラ様」
エルーサも杖を抱え、ふわりと微笑んだ。
「次にお会いする時は、できましたらもう少しご自身を大切になさる戦い方をお願いしますね」
「努力します……」
「努力ではなく、お約束を」
「……約束します」
満足したのか、エルーサが嬉しそうに頷いた。
「では、また」
「御武運を、リエラ様」
召喚陣の光が強くなる。
ベルナデッタの真紅の鎧と、エルーサの小さな姿が淡い光へ溶けていく。
最後まで2人はこちらを見ていた。
ベルナデッタは堂々と胸を張り、エルーサはいつもの柔らかな笑顔のまま。
「2人とも、本当にありがとう」
私がもう一度そう言うと、2人の姿は静かな光の粒子となって召喚陣の中へ消えていった。
戦闘不能になったわけではない。
役目を終え、自分達のいる場所へ帰っただけだ。
それでも、さっきまでそこにいた姿が消えたことで、胸の中にほんの少しだけ寂しさが残った。
「……すごい人達ですね☆」
隣でミルキーが呟く。
「うん」
私は素直に頷いた。
「うちの、自慢の仲間だから」
ミルキーが小さく笑い、そっと私の手首へ触れた。
強く掴むのではなく、そこにいることを確かめるような触れ方だった。
私も彼女へ小さく頷く。
次の瞬間、転送陣から溢れた白い光が視界を覆った。
◇
安全地帯である準備エリアへ戻った瞬間、私は反射的に周囲を見回した。
見慣れた石造りの広い待機空間と、重く閉ざされた暴食の塔の入口。床には転送魔法陣の残光が淡く残っている。
そして、その向こうに。
「リエラさーん!」
ミーナがいた。
杖を胸元へ抱えたまま、こちらへ駆け寄ってくる。
「やっほー! おかえりー!」
その後ろではネネが片手を大きく振り、さらにその足元から小さな緑色の影が勢いよく飛び出してきた。
「リエラ様ぁ! 勝ったんですな!?」
「……ミーナ、ネネ、トビー!」
3人の姿を見た瞬間、喉の奥から自分でも驚くほど大きな声が出た。
ミーナがいる。
ネネが笑っている。
そしてネネを庇って消えたトビーまで、何事もなかったようにこちらへ駆けてくる。
目の前で光になった3人が、ちゃんとここにいる。
ゲームなのだから当たり前だ。
最初から分かっていた。
それなのに、それだけで胸の奥へ張り付いていた硬いものが、ようやく音を立てて崩れていくようだった。
「勝ったんですね!」
ミーナの顔が、安心したようにぱっと明るくなる。
「いやぁ、あの後どうなることかと思ったよー。リエラちゃんとミルキーちゃん、マジでよく勝ったねぇ」
「……よかった」
私はようやく、それだけを口にした。
「本当に、よかった……」
ミーナが一瞬だけきょとんとして、それから私の表情を見て何かを察したのか、少し困ったように微笑んだ。
「リエラさん?」
「ごめん。大丈夫だから」
「いやいや、全然大丈夫そうな顔じゃないって」
ネネがひょいと近づき、下から覗き込んでくる。
「まだ目がちょっと怖いよ? 泣きそうなのか怒ってるのか、それとも誰かもう1人食べたいのか分かんない顔してる」
「最後の選択肢は絶対に違うからね?」
「ならよかった」
「……たぶん《ベルセルク》の反動だと思う」
「それはそれで全然よくないじゃん」
ネネが呆れたように笑う。
その横を通り抜けたミルキーは、もう限界だったらしく、準備エリアの床へぺたりと座り込んだ。
「正直、私はもう1秒も立っていたくありません……☆」
「お疲れ様、ミルキーちゃん」
ネネが労うように手を振る。
「最後のあれ、こっちから見ててもすごかったよ。盾役がベルナデッタさんにぶん投げられてたし」
「アレを攻略動画として公開したら、絶対にコメント欄が荒れますね☆」
「『盾役は投げるもの』がエタファンの新しい定説になるかも」
「絶対にやめてください、本気で怒りますよ☆」
疲労困憊の顔のまま、ミルキーがそこだけは真顔で否定した。
「でも、《アンカー》の使い方としては歴史に残るかも」
「ネネさん☆」
「冗談、冗談」
いつものやり取りだった。
数分前まで、1人ずつ仲間が戦線から消え、グラティアという理解不能な敵を相手に全員が限界を越えていたのが嘘みたいに、いつものくだらない会話が聞こえてくる。
そのことが、今は何よりありがたかった。
けれど、完全に元通りというわけではない。
私の中にはまだ、グラティアを《捕食》した時に流れ込んできた記憶が残っている。
耳を澄ませば、今でもあの小さなオルゴールが鳴っているような気がした。
ちりん、ころん。
人間から贈られた箱を宝物のように抱えていた少女と、紅茶を飲みながら彼女を心配していた誰か。
暴食の塔はクリアした。
グラティアも倒し、新しい能力と大量の報酬を手に入れた。
そして私だけには、パーティ共通の踏破称号とは別に、【暴食を食らうもの】という特殊称号まで与えられている。
けれど、それで何もかも綺麗に終わったようには到底思えなかった。
むしろ今まで閉じていた箱を自分の手で開けてしまい、中に隠されていたもっと大きな物語の端を、ようやく覗いてしまったような感覚がある。
「リエラさん☆」
床へ座ったまま、ミルキーが少しだけ真面目な攻略班の顔に戻った。
「後でパーティログを詳しく確認しましょう。グラティアさんの発言、途中で起きた制限解除、それによって私達側のスキル制限まで緩んだこと、それから彼女が口にした『勇者』という言葉も気になります☆」
「うん」
「何より、塔のボスに対して突然《捕食》が成立した理由も調べたいです☆」
「それなんだけど……私も、みんなに話したいことがある」
私がそう言うと、ミーナとネネも表情を変えた。
「記憶、ですか?」
ミーナの問いに、私は頷く。
「たぶんね。グラティアを捕食した瞬間に、知らない記憶が流れ込んできたの。今まで見た捕食の記憶よりずっと鮮明で、すごく穏やかで……だからこそ、たぶんすごく大事なものだと思う」
詳しいことは、私にもまだ分からない。
けれど、あの記憶の中には『勇者』も、人間も、魔王同士の同盟も出てきた。
そして何より、グラティアが『ティアちゃん』と呼んでいた存在がいる。
この塔で起きた異常と無関係だとは、とても思えなかった。
「分かりました☆」
ミルキーは静かに頷き、それから少しだけ表情を緩める。
「ただ、その前に……クリア報酬を確認してもいいですか☆」
「うわ、出た。生粋の攻略班」
ネネが呆れたように笑う。
「死に戻り組も含めて全員ボロボロなのに、もう報酬確認するんだ?」
「元気だから確認するのではありません☆」
ミルキーは真顔で言い返した。
「これだけ苦労したのですから、苦労に見合う報酬が出ているか確かめるのは、ゲーマーとして非常に重要な儀式です☆」
「……それはそう」
私も思わず同意してしまった。
その瞬間、ようやく小さな笑いが喉から零れる。
怒りでもなく、緊張を誤魔化すためでもない。
本当に、心の底から出た笑いだった。
振り返れば、暴食の塔へ続く巨大な扉は重く閉ざされ、そこにはもう攻略中に感じていた不気味な気配も光も残っていない。
私達の暴食の塔攻略は、これで終わった。
少なくとも、今日のところは。
それでも私の奥深くでは、あの美しいオルゴールの旋律だけが消えずに残り続けている。
ちりん、ころん。
それはまるで、グラティアという存在が消えた今もなお、その先にある記憶を忘れるなと私へ訴えかけているようだった。




