暴食の断章
暴食の断章
小さなオルゴールが鳴っていた。どこか懐かしい旋律が、静かな部屋の中で繰り返されている。つい先ほどまで聞こえていた戦いの音は消え、目の前には紅茶の注がれたカップと、小さな焼き菓子の皿があった。
向かいに座る女性が、曲の終わったオルゴールのゼンマイを巻き直す。顔には薄い霞がかかったようで、目を凝らしてもはっきりとは見えなかった。それなのに、腰から伸びた尻尾の動きだけはよく分かる。旋律が戻ると、その先端が嬉しそうに左右へ揺れた。
「あなたから貰ったこの尻尾、すごくいいわ。色んなものが食べられるの」
少し高めの声でそう言って、彼女はくふふ、と笑った。こちらへ見せるように持ち上げられた尻尾を眺めながら、私の口がひとりでに動く。
「それはよかったわ」
声も、話し方も、私のものではなかった。カップを持ち上げようと思っていないのに、手が自然に取っ手へ伸びる。唇へ触れた陶器の温かさも、紅茶の香りも鮮明だったけれど、その動きを自分で止めることはできなかった。
誰かの記憶を見ているのだと思った。《捕食》した直後に、私の中へ流れ込んできた光景。その持ち主の感覚を通して、私はここにはいないはずの相手と向き合っている。
「これで、同盟の証にはなったかしら?」
記憶の持ち主が尋ねると、向かいの彼女は尻尾を下ろした。オルゴールを手元へ置き、少し不思議そうに首を傾げる。
「十分よ。でも、私からは眷属1人でよかったの?」
「私には、あなたみたいに誰かを誘惑して従えるような便利な力がないもの。それに、美味しい紅茶を淹れられる子が、ちょうど欲しかったのよ」
カップがソーサーへ戻され、陶器の触れ合う音がした。舌に残った紅茶の渋みを追いかけるように、焼き菓子の控えめな甘さが広がる。記憶の持ち主は、その組み合わせを気に入っているらしかった。
「本当は、カトリーヌみたいに優秀な参謀がいてくれたら、もっと嬉しかったのだけれど」
「だーめ。カトリーヌは私の右腕よ?」
今度の返事は早かった。上機嫌に揺れていた尻尾がぴんと立ち、彼女は身を乗り出す。その反応を見た途端、こちらの胸に楽しさが湧いてきた。困らせたいわけではなく、こう答えると分かっていて、少しからかってみたくなったらしい。
「あら。あなた、右腕は10本くらいあるじゃない」
「それでもダメ。カトリーヌはあげないからね」
「ふふ。だから、この子でいいって言っているのよ」
彼女の拗ねた声を聞きながら、記憶の持ち主は笑った。初めて交わす冗談ではないのだろう。言い合いになっても空気は少しも険しくならず、向かいの彼女も、ほどなく肩の力を抜いて椅子へ座り直した。
「ねえ、もう1杯頂戴」
背後へ声をかけると、控えていた人物が静かに近づいてきた。こちらも顔はよく見えない。ただ、差し出したカップへ紅茶を注ぐ手つきは丁寧で、銀のポットを戻すまで、余計な物音ひとつ立てなかった。
立ち上る湯気とともに、茶葉の香りが届く。記憶の持ち主が満足していることまで、私には伝わってきた。こんなふうに落ち着いてお茶を飲む時間を、当たり前に過ごしていた人なのだ。
だからこそ、カップを眺めながら漏れた溜息は、ひどく身近なものに聞こえた。
「本当に嫌になるわね、人間って。特に勇者とかいう忌々しいヤツら」
「人間全部が忌々しいワケじゃないけどね。でも、勇者は誘惑も効かないし、サイアク」
向かいの彼女は、オルゴールの蓋を指で撫でながら答えた。言葉の割に、その手つきは優しい。記憶の持ち主も同じところが気になったのか、小さな木箱へ視線を向ける。
「そう言いながら、それも人間から貰ったんでしょ?」
「うん。キレイよね」
彼女の声が弾み、尻尾もまた揺れ始めた。蓋には花と月、それから羽を広げた小さな鳥が彫られている。宝石を飾り立てたような品ではないけれど、細い線を重ねて作られた模様には、つい目を留めたくなる丁寧さがあった。
彼女はそれをこちらへ見せたあと、胸元へ大切そうに抱き寄せた。曲が聞こえにくくならないよう、蓋の向きまで少し直している。
「人間って、ちょろくて好き♡」
「……あなたね。本当に気をつけなさいよ。あなた、魔王としては一番弱いんだから」
呆れた口調の奥に、心配が混じっていた。人間を軽く見ていることも、その人間から貰った品を手放しで喜んでいることも、危なっかしく思っている。けれど、その嬉しそうな様子に水を差したいわけではなくて、強く言い切れないもどかしさまで胸に残った。
「大丈夫、大丈夫。いざとなったら、ティアちゃんに助けてもらうし」
ティアちゃん、と呼びかけられた途端、親しみと呆れが一緒になって湧き上がった。私自身には馴染みのない呼び名なのに、記憶の持ち主にとっては、幾度も向けられてきたものらしい。彼女がそう呼ぶ声を、ごく自然に自分への呼びかけとして受け止めていた。
この記憶は、グラティアのものなのだろうか。先ほどまで私と戦っていた彼女の声が、目の前の女性を気遣う声へ重なった。確かめようとしても、記憶の中の会話は私を待たずに続いていく。
「最低限、自分の身くらい自分で守りなさいよ? 私がいつでも傍にいるとは限らないんだから」
「はいはい」
「はいは1回」
「はぁい」
わざと返事を引き延ばした彼女が笑い、こちらも小さく息を漏らした。真剣に聞いているのか怪しいものだけれど、本気で突き放す気にはなれない。それを相手も分かっていて、少し甘えた返事をしているのだと、言葉より先に感情が伝えてきた。
オルゴールが曲の終わりへ近づくと、彼女はまた箱を手元へ戻した。ゼンマイを巻く指先を見ているうちに、こちらの苛立ちも薄れていく。同じ曲を何度も聞かされているのに、うるさいとは少しも思っていなかった。
魔王と呼ばれる者同士が、同じテーブルで紅茶を飲んでいる。尻尾と眷属を同盟の証に交換する話は、私にはとても気軽に聞き流せないものだった。それでも、この場に流れているのは、取引の条件を探り合うような緊張ではなかった。
大事な部下を欲しがってからかい、気に入った贈り物を見せ合い、相手の不用心さに呆れながら心配する。そのやり取りには、話に出てきた同盟だけでは説明しきれない親しさがあった。
私には、2人がどれほど長い時間を一緒に過ごしてきたのか分からない。けれど、向かいにいる彼女を大切に思っていることだけは、記憶の持ち主と感覚を重ねているせいで、疑いようがなかった。
「――同盟に、乾杯」
オルゴールを置いた彼女が、ティーカップを持ち上げた。こちらもそれに応じて手を伸ばし、白いカップ同士が軽く触れ合う。その小さな音のあとにも、オルゴールの旋律は変わらず流れていた。
穏やかな時間だった。紅茶を飲み終えても、きっとまた別の話をするのだろう。そう思えるほど、2人はくつろいでいた。
なのに、その光景を見ている私は、次第に息苦しくなっていった。記憶の中には確かに温かさがある。それを自分のことのように感じている一方で、つい先ほどまで私たちへ向けられていたグラティアの怒りも、まだ忘れられずにいた。
勇者への悪態は、この頃から口にしている。それでも今は、友人の冗談を受け止め、笑って紅茶を飲めているのだ。この時間から塔の最上階での戦いへ至るまでに、何があったのだろう。
答えを探すように向かいの彼女を見つめても、その顔を覆う霞は晴れなかった。代わりに、オルゴールの音が一瞬だけ歪む。聞き間違いかと思うほど小さな乱れだったが、それに合わせて、カップを持つ手の輪郭まで揺らいだ。
まだ2人の会話は続いているようなのに、言葉がうまく聞き取れない。紅茶の香りが遠のき、目の前の光景が少しずつ薄れていく。その中で、胸に残っていた温かさだけが、理由の分からない痛みへ変わっていった。




