ブラッド・リベリオン
ミルキーの魂を削るような叫びと同時に、私の左拳がグラティアへ真っ直ぐ突き刺さった。
今度こそ、確実に届いた。
無防備になった胸元へ拳が叩き込まれた瞬間、暴食の塔そのものが悲鳴を上げるように大きく揺れた。足元の強固な石床へ一気に亀裂が走り、敷かれていた分厚い赤絨毯まで衝撃に巻き込まれて激しく捲れ上がる。
グラティアの背後に浮かんでいた無数の黒い口も、その余波を受けて一瞬だけ動きを止めた。小柄な身体は大きく後方へ沈み込み、明らかに今までとは違うダメージが通っている。
それなのに、まだ倒れない。
あれだけの一撃をまともに受けても、グラティアは僅かに口元を歪めて笑っていた。
「……まだ、足りない」
だったら、もう奥の手を切るしかない。
《ベルセルク》を発動している間だけ使用可能になる、そのさらに先の派生スキル。私自身のVITを強制的に削り、その数値をSTRへ回すことで、防御のために積み上げてきた能力をそのまま攻撃力へ変換する危険極まりない技だ。
普段の私なら、こんなものは絶対に選ばない。
高いVITを活かして前線に立ち、攻撃を受け止めながら仲間が動ける場所を作る。それがこれまでの私の戦い方だった。その最大の長所を自分から捨て、防御力を限界まで削って純粋な暴力へ変えるなんて、盾役として考えれば論外もいいところだ。
攻撃をまともに受ければ、その瞬間にこちらが落ちる可能性すらある。
けれど、今だけはそれでいい。
ミルキーが自分のHPを削りながら、文字通り身体を張って作ってくれたこの1秒を、防御を残すために無駄にする方がよほど許せなかった。
「――《ブラッド・リベリオン》!」
スキル名を叫んだ瞬間、身体の内側でステータスの流れそのものが反転した。
これまで仲間の前へ立つために積み上げてきた重さが、すべて別の方向へ流れ込んでいく。攻撃を受け止めるための頑丈さが削り取られ、その分だけ相手を押し潰すための力へと変換されていった。
視界の端へ、赤黒い警告表示が立て続けに走る。
VITの数値は恐ろしい速度で低下していくのに対し、STRだけはそれと反比例するように跳ね上がっていた。普段ならスクリーンショットを撮って笑い話にしたくなるような馬鹿げた数字だったが、今の私にはそれを面白がる余裕なんて残っていない。
「終われッ!」
沈み込んだグラティアへ、さらに拳を叩き込む。
一撃で足りないなら、止まる理由はない。続けて拳を重ねると、グラティアは残った左腕を硬質化させ、私の攻撃を受け止めようとした。
硬い。
それでも、今度はこちらが押し負けなかった。
さっきまでなら拳そのものを弾かれていたはずなのに、《ブラッド・リベリオン》によって引き上げられたSTRが、硬質化した左腕ごとグラティアの身体を後方へ押し込んでいく。
「っ……!」
グラティアが肩を逸らし、衝撃を逃がそうとする。
私はその動きに合わせて踏み込み、さらに攻撃を重ねた。拳だけではなく、身体の奥に残っている気力も魔力も、今使えるものはすべて攻撃へ回していく。
《ベルセルク》によって引き上げられた身体能力へ、《ブラッド・リベリオン》で変換したSTRまで重ねる。防御がほとんど残っていない以上、次にまともな攻撃を受ければ危険だということくらい理解している。
だからこそ、その前に終わらせるしかない。
拳がぶつかるたびに重い衝撃が第50階層へ響き、その余波でグラティアの背後に開いていた黒い口まで形を崩していった。いくつかは輪郭を維持できなくなり、そのまま黒い靄へ溶けるように消滅していく。
「っ、あなた……頭がおかしいの……!?」
グラティアの声が、ここで初めて明確に乱れた。
こちらを玩具か食事のように扱っていた余裕も、淑女を気取った優雅な態度も、もうまともには保てていない。
それでも私は攻撃を止めなかった。
ミーナも、トビーも、ネネも、この理不尽な戦いの中で次々と戦線から消されていった。その光景が《ベルセルク》で赤く染まった視界の奥に焼き付いたまま消えず、ゲームだから戦闘が終わればまた会えると理解していても、だから好き勝手に奪われていいとは少しも思えなかった。
もうこれ以上、グラティアの好きにはさせない。
ここで確実に倒し切り、残っている仲間へ手を伸ばさせない。その一点だけへ意識を集中させながら、私は硬質化した腕の上からでも構わず拳を重ね続けた。
≪対象の捕食が可能になりました≫
「……は?」
突然現れたシステムメッセージによって、《ベルセルク》の怒りへ沈み込んでいた思考が強制的に引き戻された。
≪対象:暴食の黒姫グラティア≫
≪捕食可能≫
あり得ない表示だった。
暴食の塔へ入ってから、私は何度もモンスターを倒している。下層で戦った敵も、リトグラも、オルグランも、第40階層のメタルグラトニーでさえ、私の《捕食》が成立したことは1度もなかった。
この塔で倒された敵は、光の粒子となって消滅する。
少なくとも、ここまでの戦闘ではずっとそうだったし、私のスキルから見ても塔の内部にいる敵は《捕食》の対象外として処理されていたはずだ。
ところが、グラティアだけは違う。
システムそのものが、目の前にいる暴食の黒姫を明確に『食べられる存在』として認識している。
「なんで……」
当然、理由なんて分からない。
大罪の魔王と呼べるほどの存在であることも、勇者へ異常な執着を見せていたことも、『リリス』という知らない名前を口にしたことも、私へ掛けられているらしい『制限』について知っていることも、すべてが謎のままだ。
そのうえ今度は、塔の中でグラティアだけが《捕食》可能だと表示されている。
こんな得体の知れない相手を自分の中へ取り込んで、本当に何も起きない保証なんてない。状態異常が残るかもしれないし、《捕食》そのものへ何らかの変化が起きる可能性だってある。
普段なら、絶対に一度止まって考えるべき場面だった。
けれど、今ここで通常の討伐処理をしてしまえば、この女が次も同じように現れる保証はない。
特殊条件を満たさなければ二度と遭遇できないのかもしれないし、グラティア自身が塔のシステムへ干渉できる存在なのだとしたら、そもそも普通のボスと同じように消滅するかどうかさえ分からない。
この機会を逃したくなかった。
「……逃がさない」
私は倒れかけたグラティアのドレスを掴んだ。
理由が分からないからこそ、今システムが提示している《捕食》という選択肢を使う。少なくとも、普通に倒して何も分からないまま終わらせるよりは、この異常な存在を捕まえる方法として確実に見えた。
背後で、サキュバスの尻尾が大きく動く。
《捕食》。
相手を取り込み、その力を自分のものへ変える、私がこれまで何度も使ってきたスキルだ。
グラティアが持つ『暴食』とどこか似ているようにも見えるが、同じものではない。あちらが対象を喰らい尽くす力だとすれば、私の《捕食》は対象を取り込み、その性質を自分の中へ残す能力だ。
グラティアは、すでにまともに立っているのも難しい状態になっている。
それでも、不思議と笑みだけは消えていなかった。
敗北を恐れているようには見えない。
むしろ、自分がこれから《捕食》されるという未知の状況を、最後まで興味深そうに観察している。
「あなた……」
私は荒い呼吸を整えながら、どうしても気になったことを1つだけ尋ねた。
「自分が食べられたことって……ある?」
グラティアは少しだけ目を見開き、それからゆっくりと首を横へ振った。
漆黒の瞳に浮かんでいるものが恐怖なのか、それとも好奇心なのか、私には最後まで判別できない。
尻尾の先へ捕食の光が集まり、グラティアの身体を淡く包み込んでいく。
「……ふふ」
そこで、グラティアが小さく笑った。
今までのように私達を見下して楽しむ笑い方とは、どこか違っていた。もっと遠い昔にあった何かを思い出し、それを懐かしんでいるような、不思議な表情だった。
「――よかったわね」
「何がよ」
私が訊き返すと、グラティアは僅かに目を細めた。
「初めての経験が、できて」
その言葉の意味を聞き返すより早く、《捕食》の光が一気に強まった。
グラティアの輪郭が少しずつほどけ、無数の光の粒子へ変わっていく。
それは、この塔で倒してきた敵が消滅する時とは明らかに違った。
発生した光がその場へ散って消えるのではなく、ひとつ残らず私の尻尾へ向かって流れ込んでくる。最後までこちらを見ていた漆黒の瞳も、乱れた金色の髪も、真紅のドレスも、その存在を形作っていたすべてが光へ変換され、《捕食》の力によって私の中へ取り込まれていった。
やがて最後の粒子まで吸い込まれ、グラティアの姿が完全に消える。
こうして私は、大罪の魔王――暴食の黒姫グラティアという異常な存在を、丸ごと《捕食》した。




