捕食と暴食
私は床を爆ぜさせるように蹴った。
《ベルセルク》に染められた視界は、相変わらず真っ赤なままだ。胸の奥で燃え続けている怒りも、少しだって弱まってはいない。
ただ、さっきまでとは違う。
あてもなく暴れ回っていた感情は、仲間達が作ってくれた隙を通してグラティアへ届いたことで、ようやく向かう先を得ていた。今の怒りはもう暴走する炎ではなく、大罪の魔王であるグラティアただ1人へ向けて研ぎ澄まされた刃だった。
「――捕食と、暴食」
距離を詰める私の耳へ、グラティアの呟きが届く。
意味を考えている余裕なんてない。
両拳を固く握り、一直線に間合いを潰す。
一番厄介だった右腕は奪った。
ミーナを一瞬で戦線から落とし、私の骨剣まで存在ごと呑み込んだ、あのおぞましい口はもうない。
なら次は、本体を殴る。
それだけだ。
私は渾身の拳を叩き込もうと踏み込んだ。
「あはっ」
その瞬間、グラティアが笑った。
「あははははっ!」
「……何がそんなにおかしいのよ」
思わず足が僅かに鈍る。
右腕を失い、その肩口から黒い靄を漏らしているというのに、グラティアは腹の底から本当に楽しそうに笑っていた。
残った左手で目元を拭う仕草までしている。
もちろん涙なんてない。
ただ、何かがおかしくて仕方がないというように、私達を前にして笑っているだけだ。
「ふふ……ごめんなさいね」
ようやく笑いを収めたグラティアが、失われた右肩へちらりと視線を落とした。
「たった今、塔の『制限』が少しだけ解除されたみたい」
「……制限?」
聞き返した直後、グラティアの身体を覆っていた黒い靄が一気に膨れ上がった。
それまで僅かに漏れ出していたものとは比べものにならない。
濃密な黒い魔力が背後へ広がり、第50階層の空気そのものが急激に重くなる。何か巨大なものが狭い器から外へ押し出されようとしているような、そんな圧力だった。
右腕を奪った。
弱点を1つ潰した。
そう思っていたのに、私の身体は逆に今まで以上の危険を訴えていた。
「それにしても、『勇者ちゃん』は一体何を考えているのかしら?」
「……勇者?」
後方から、ミルキーの驚いた声が聞こえた。
今、はっきり言った。
勇者。
これまでグラティアがミルキーの姿の向こう側へ重ねていた、あの誰か。
最初に「親愛なる」と呼びかけ、その直後の名前だけが不自然なノイズに消された人物。その正体へ限りなく近い言葉が、グラティア自身の口からあまりにも自然に零れ落ちた。
けれど、今のグラティアはもうミルキーを見ていなかった。
漆黒の瞳が捉えているのは、私だけだ。
「でも、ま」
本人にとってはどうでもいい話だったらしく、グラティアは軽く左肩をすくめた。
「今、倒して食べるべきは『あなた』よね」
ぞわりと背筋が冷えた。
右腕を奪ったことで追い詰めたはずなのに、弱くなった感覚がまるでない。
むしろ逆だ。
これまでグラティアを押さえつけていた何かが、右腕の部位破壊をきっかけに少しだけ外れた。本人の言葉をそのまま信じるなら、そういうことになる。
「どことなく、私の大好きな『リリスちゃん』に似ていて」
「……リリス?」
知らない。
エタファンの知識を探っても、すぐには思い当たらない名前だった。
なのに。
その名前を聞いた瞬間、背中から伸びる尻尾がびくりと大きく震えた。
「……え?」
動かした覚えはない。
《ベルセルク》による反射でもない。
もっと身体の奥深く、私自身の意識が届かない場所にある何かが、その名前へ反応したような感覚だった。
「なんだか、懐かしい昔を思い出せていたところなのよ」
グラティアは、古い友人の話でもするように楽しそうに続ける。
「これは制限を解除したくもなるわね。システム側から相当目をつけられているわよ、あなた」
「さっきから、訳の分からないことばっかり……!」
「じゃあ、念のために聞いておこうかしら」
グラティアが私の顔を覗き込むように、可愛らしく首を傾けた。
「私を見ても、何も懐かしくならないの?」
懐かしい。
そんな感情があるはずがない。
今の私にあるのは、こいつへの怒りだけだ。
そう断言したいのに、胸の奥では別の何かがざわついている。
ゲームの記憶ではない。
現実で生きてきた私の記憶でもない。
もっと深い場所に沈んでいて、自分では触れたことすらない何かが、グラティアの言葉に反応している。
「……なるわけないでしょ」
私は、その感覚ごと押し潰すように吐き捨てた。
グラティアは一瞬だけ残念そうに目を細める。
「そう。じゃあ、あなたの方は私よりずっとずっと重い『制限中』なのね」
また、制限。
それが何を意味しているのかは分からない。
けれど、問い返す暇は与えてくれなかった。
グラティアは最初に私達を迎えた時と同じように、真紅のドレスの裾を左手で摘まんだ。
右腕を失ったまま。
それでも、どこまでも優雅に腰を落とし、淑女の礼を取る。
「じゃあ、本気の遊びをしましょ」
直後。
グラティアの背後に、巨大な黒い穴が開いた。
「……なに、あれ」
ワープホールにも見える。
けれど、その内側にあるものを見た瞬間、そんな単純な機能ではないと分かった。
黒いゲートの内部に、無数の口が浮かんでいる。
右腕にあったものとは規模が違う。
腕という肉体へ生えていた口ではなく、空間そのものへ無数の捕食器官が開いているようにしか見えない。
その瞬間、距離感まで狂った。
近くに見えた口が遥か遠くへ沈み、逆にゲートの奥にあったはずの黒い穴が目の前まで迫ったように見える。
上下も前後も、まともに信用できない。
「げっ!」
ネネの声がした。
黒い口の群れが、一斉に彼女へ向いた。
いや。
ネネ本人ではない。
床へ落ちている、ネネの影を見ている。
次の瞬間、彼女の足元に伸びていた影の一部が、突然大きく欠けた。
「なにこれ!?」
ネネは即座に後ろへ跳ぶ。
けれど、普段なら一瞬で何メートルも離れる彼女の動きが、途中で不自然に鈍った。
影の欠けた場所に、身体まで引っかかっている。
「ネネさん☆」
ミルキーが叫ぶ。
さらに黒い口が開く。
今度は、ネネがいる場所ではない。
彼女が次に着地するはずの場所。
まだそこへ影すら落ちていない、少し先の床へ先回りするように巨大な黒い歯形が現れた。
「未来の位置まで……!?」
避ける方向を読んでいるのか。
それとも、本当にネネの影がこれから存在する場所を狙っているのか。
判断がつかない。
そして、ネネ自身も避けきれないと悟ったらしい。
「姉さん!」
その射線へ、小さな影が飛び込んだ。
「トビー!?」
トビーがネネと黒い歯形の間へ身体を滑り込ませる。
「こっちですぜぇっ!」
両手を広げ、黒い口へ向かって大声を上げる。
直後、ネネを狙っていた口の群れが一斉にトビーへ向きを変えた。
光が弾ける。
「トビー!」
小さなゴブリンのアバターが、あっという間に粒子へ変わっていく。
血も、傷もない。
HPがゼロになり、ゲームの処理として戦線から消えただけだ。
分かっている。
それでも、ネネを庇って一瞬で姿を消したトビーを見れば、怒りがまた腹の底で膨れ上がる。
「っ……トビー……!」
ネネが着地する。
おかげで最初の一撃は避けられた。
けれど、助かったのは数秒だけだった。
「これ、射程どうなってんの!?」
ネネが叫ぶ。
その足元で、影が再び欠けた。
「まずっ……!」
今度は逃げる前に身体が止まった。
物理的に拘束されたわけではない。
床へ落ちた影を固定されたことで、そこへ繋がっているネネ本人まで動けなくなっているようだった。
「ネネさん☆」
ミルキーが大盾を構えたまま走り出そうとする。
「来ないで!」
ネネが鋭く止めた。
いつもの余裕のある声ではなかった。
悔しさはある。
焦りもある。
でも、それ以上に、自分が置かれている状況を理解したプレイヤーの声だった。
「ごめん、リエラちゃん! 私、ここまでみたい!」
「ネネ!」
黒い口が、影へ重なる。
次の瞬間、パーティリストに表示されていたネネのHPがゼロになった。
彼女のアバターが光の粒子へ変わり、床へ落ちた両手の短剣だけが軽い音を立てる。
「……っ」
ミーナに続いて。
トビーも。
そして、ネネまで。
また戦線から1人消えた。
頭に血が上っているはずなのに、逆に胸の奥だけが妙に冷えていく。
グラティアは、そんな私達を見ながら楽しそうに微笑んでいた。
「ふふ。とっても軽やかなステップの子だったわね」
まるで食事の感想でも口にするように、うっとりと目を細める。
「ああいうすばしっこい子の『影』って、すごく食べやすいのよ」
「……黙れ」
拳を握り込む。
後ろでは、ミルキーが大盾を構え直す気配がした。
エルーサの回復光もまだ消えていない。
ベルナデッタも真紅の大剣を構えたまま立っている。
けれど、もう痛いほど分かる。
こちらの手札は確実に減っている。
ミーナはいない。
ネネもいない。
トビーとゴブリン隊による変則的な支援も期待できない。
それに対してグラティアは、右腕を失ったことで弱くなるどころか、今度は空間と影そのものへ干渉する新しい攻撃を使い始めている。
背後の黒いゲートでは、無数の口が次の獲物を探すように開閉していた。
「さあ」
片腕だけになったグラティアが、それでも優雅に微笑む。
「次は、誰から食べてあげましょうか」
その言葉を聞いた瞬間、私は足元の石床を強く踏み砕いた。
考えるより先に、《ベルセルク》に染まった身体が前へ出る。
ミーナを落とされた。
ネネも消された。
トビーまで巻き込まれた。
私が立ち止まれば、その次はミルキーか、ベルナデッタか、エルーサだ。
だったら、もう迷っている時間なんてない。
私はグラティアの背後に浮かぶ無数の口を睨みつけながら、一気に距離を詰める。
あの女を倒すまで。
これ以上、誰かを喰わせないために。
私は《ベルセルク》の怒りを全部前へ向け、再びグラティアへ飛び込んだ。




