≪ベルセルク・リエラ≫
次の瞬間、私とグラティアは真正面から激突した。
こちらが拳を振り抜くのとほぼ同時に、グラティアも細い腕をこちらへ伸ばす。拳同士がぶつかる寸前、彼女の白い皮膚へ冷たい銀色の光が走り、腕全体が《メタルグラトニー》を思わせる硬度へ変わった。
重い衝撃が両腕を伝う。
そのままグラティアの拳が私の頬を掠め、続けて肩へ触れた。
「……っ!」
直撃と呼ぶほど深く入った攻撃ではない。
それなのに、接触した瞬間、HPバーが不自然な減り方をした。
殴られた、という感覚とは少し違う。
まるで、触れられた部分から直接HPを『喰われた』ような感覚だった。
私の高いVITも、《スライムボディ》による衝撃の受け流しも関係なく、接触した場所から一定量をそのまま奪われる。さっきまで使っていた点の攻撃とも違う。あれは硬質化した部位から力を内部へ通していたが、今の一撃はもっと直接的に、私というアバターの耐久そのものを削り取ってきた。
「美味しい」
グラティアが満足そうに微笑む。
漆黒の瞳が、心底楽しそうに細くなった。
「あなたの怒り、極上のスパイスね」
「そう」
私は肩に残る違和感を無視し、反対の手でグラティアのドレスを掴んだ。
「だったら、吐き出したくなるまで食わせてやるわよ!」
そのまま至近距離から拳を叩き込む。
グラティアは即座に腕を硬質化して受けた。
当然、通らない。
けれど、《ベルセルク》が働いている今の私には、それで攻撃を止めるという発想自体がほとんどなかった。
防がれたなら、もう1度殴る。
それも止められたなら、さらに強く叩く。
硬質化した腕と拳がぶつかるたびに鈍い金属音が響き、こちらの拳にも反動によるダメージエフェクトが走る。けれど、《ベルセルク》によって痛覚は遠くなっているうえ、背後からはエルーサの回復光まで届き続けていた。
削られても戻る。
だったら、戻った分まで全部攻撃へ使えばいい。
「潰れろッ!」
私は身体ごと捻って拳を振り抜く。
グラティアも笑みを消さないまま手刀を返し、私の脇腹へ接触させてHPを奪う。
バーが大きく削られた。
でも、その攻撃のためにグラティアの片腕が塞がった。
私はその隙へ強引に頭を振り込み、額をぶつける。
「っ……!」
初めて、グラティアの表情が僅かに歪んだ。
豪奢な金髪が大きく乱れ、頭上へ赤いダメージエフェクトが弾ける。
およそ洗練された戦い方とは呼べなかった。
武器の間合いも、魔法の駆け引きもない。
相手の攻撃を受けながら、こちらも少しでも多く返す。ただそれだけの、路地裏の喧嘩みたいな泥臭い殴り合いだった。
「野蛮ね、本当に……!」
グラティアの声へ、初めて明確な苛立ちが混じる。
彼女が腕を引き、こちらから距離を取ろうと後方へ跳んだ。
「逃がさない!」
私はすぐに追おうとする。
その時だった。
「リエラちゃん、しゃがんで!」
ネネの声が聞こえた。
《ベルセルク》によって戦場の大半がどうでもよくなっているはずなのに、その声だけは不思議とはっきり頭へ入ってきた。
私は考えるより先に上体を落とす。
直後、頭上を2つの短剣が高速で通り抜けていった。
「お行儀悪くいくよ!」
ネネが投げた両手の短剣には、濃い毒のエフェクトが纏わりついている。
グラティアはそれを見て、僅かに顔をしかめながら指先を動かした。
カン、カン、と2度。
短剣は当然のように弾かれる。
でも、それは最初から本命ではなかった。
「邪魔です☆」
短剣によって作られた僅かな死角から、ミルキーが一気に踏み込んでいた。
右手の大盾を前面へ構え、そのまま全身の重量を乗せてグラティアへぶつかる。
「小賢しい……!」
グラティアも咄嗟に両腕を交差させ、正面を硬質化した。
直後、大盾と硬質化した腕が激突する。
甲高い金属音と共に火花が弾け、今までほとんどこちらの攻撃で位置を変えなかったグラティアの身体が、初めて数メートル後方へ押し込まれた。
「リエラさん、今です☆」
ミルキーの声が飛ぶ。
目の前へ、一直線の道が開いていた。
ネネが注意を逸らし、ミルキーが硬質化したグラティアを力任せに押し込み、その体勢を崩してくれた。
《ベルセルク》でまともな判断力を失いかけている私に、それでも2人は攻撃を繋いでくれている。
「ぁぁぁぁああっ!」
私はその隙へ迷わず飛び込んだ。
同時に足元へ大量の骨を生成し、ひとつへまとめ上げる。
剣のような細かい形はいらない。
槍のように鋭くする必要もない。
必要なのは、とにかく重く、大きく、グラティアの硬質化を正面から叩き潰せるだけの質量。
複数の骨が絡み合い、圧縮され、私の身体より遥かに大きな無骨な塊へ変わっていく。
武器というより、巨大な骨の槌だった。
ミルキーのシールドチャージによって体勢を崩しているグラティアの頭上へ、それを持ち上げる。
「調子に、乗るなァァッ!」
ここに来て、グラティアの顔へ初めて驚きが浮かんだ。
彼女は咄嗟に両腕を頭上へ掲げ、その全体へ銀色の硬質化を展開する。
私は構わず、骨の槌を全力で振り下ろした。
凄まじい衝撃が第50階層の広間へ広がった。
赤い絨毯が大きく捲れ、石床へ亀裂が走る。衝撃波に押され、近くにいたネネとミルキーまで数歩後方へ滑った。
振り下ろした骨の塊は、硬質化したグラティアの両腕へぶつかった反動に耐えきれず、その場で砕け散っていく。
私は荒く息を吐きながら、舞い上がった煙の向こうを睨んだ。
赤く染まった視界が、鼓動に合わせて明滅している。
やがて煙が薄れる。
「……あ、ら」
グラティアはまだ立っていた。
いや。
正確には、完全には立っていなかった。
両腕に目立った欠損はない。それでも衝撃を受け止めきれなかったらしく、片膝が石床へついている。真紅のドレスは大きく乱れ、あれほど綺麗に整っていた金髪にも埃が付着していた。
通った。
完全に防がれたわけではない。
硬質化して受けたにもかかわらず、その防御ごと圧力で押し切ったのだ。
「……痛いじゃない」
グラティアがゆっくりと顔を上げる。
さっきまで浮かべていた楽しげな笑みは、もう消えていた。
「痛いじゃない……!」
これまでの余裕たっぷりな令嬢の態度もない。
代わりに漆黒の瞳の奥へ浮かんでいるのは、初めてこちらへ明確に向けられた敵意だった。
同時に、グラティアの足元から黒い影が広がり始める。
「……何?」
ただの影ではない。
床へ染み込んだ黒い何かが、彼女を中心にゆっくり範囲を広げ、その内側へ赤い光がいくつも浮かび上がっていく。
さらに、黒い影の表面には時折、獣の口を思わせる歪な輪郭まで現れては消えていた。
「許さない」
グラティアの声が、今までとは違って聞こえた。
少女らしい声の奥へ、別の低い響きが僅かに重なっている。
「全部喰う。何もかも、私のお腹の中へ入れてあげるわ」
ようやく、余裕が消えた。
あれだけ私達を弄び続けていた暴食の黒姫が、自分から明確にこちらを敵として認識したのだ。
そして同時に、今まで隠していた何かまで動き始めている。
けれど、《ベルセルク》に支配された今の私には、それを見て怯えるだけの余裕すらほとんど残っていなかった。
「望むところよ」
私は砕けた骨の槌を捨て、再び自分の周囲へ骨剣を生成していく。
ミーナが消えた場所は、まだ背後にある。
さっきまでなら、グラティアの新しい能力を見て一度距離を取り、何が起きているのか観察するべきだと考えただろう。
今は違う。
ようやく届いた。
ようやく、あいつの余裕を崩した。
だったら、このまま押し切る。
「喰われるのがどっちか、教えてあげる」
私は黒い影を纏い始めたグラティアへ骨剣の切っ先を向け、もう一度踏み込む態勢を取った。
グラティアが、静かに右手を上げた。
構えでも、踏み込みでも、魔法の詠唱でもない。ただ私へ向けて右手を差し出しただけなのに、その動作だけで戦場の空気が妙に静まり返った気がした。
さっきまで浮かべていた笑みも、苛立ちも、こちらの反応を楽しんでいた余裕も、すべてが薄く剥がれ落ちている。表情の消えたグラティアが、ただ無機質に右手だけをこちらへ向けていた。
《ベルセルク》によって赤く染まった視界の中でも、その手だけが異様なほど鮮明に見える。
理由なんて分からない。
狂戦士化した身体のどこかに残っている本能なのか、それとも完全には消えていなかった理性が最後の警告を送っているのか。
ただひとつだけ、はっきりと理解した。
――今までで一番、不味い。
「――っ!」
考えるより早く、私は上半身を大きく横へ逸らした。
その直後。
耳のすぐ横で、硬い歯を全力で噛み合わせたような鋭い異音が鳴った。
何かがぶつかったわけではない。
そこにあった空間そのものが、一瞬だけ『噛まれた』ように見えた。
遅れて、私の髪の先端が数本だけ光の粒子になって消えていく。
「……なに、それ」
勢いのまま床へ手をついて体勢を立て直し、私はグラティアを睨んだ。
右手が、さっきまでとは完全に違っている。
掌だけではない。
白い腕の表面へ、いくつもの真っ黒な口が重なるように浮かび上がっていた。
その奥にあるのは、どれだけ目を凝らしても底の見えない闇だけだ。
私がサキュバスの尻尾で使う《捕食》とは、似ているようで根本的に違う。
私のものにはスキルとしての対象や条件があり、ゲームの処理として相手を取り込んでいる感覚がある。
グラティアのそれは、もっと単純だった。
触れたものを喰う。
ただそのためだけに存在しているような、暴食という言葉をそのまま形にした力。
「……それが」
奥歯を噛み締める。
「ミーナを落とした正体ね」
「あら」
グラティアがぱちりと瞬きをした。
こちらが避けたことそのものを、本気で意外に思っているような顔だった。
「意外と冷静なのね」
その物言いだけで、また腹の底から怒りがせり上がってくる。
「黙って!」
私は床を蹴った。
狙うのは、あの右腕。
ミーナを一瞬で戦線から消した忌々しい力ごと、叩き潰してやる。
脚へ力を込め、そのまま蹴りを叩き込もうとした。
けれど。
足が届く直前で、身体が止まった。
「……っ?」
赤い視界の奥で、何かが強烈に拒絶している。
理屈ではなかった。
ただ、あれには触るなと身体が勝手に判断していた。
《ベルセルク》によって危険を無視してでも前へ出ようとしているはずなのに、それでも踏み込ませないほどの違和感。
「ちっ……!」
私は蹴りを中断し、周囲へ浮かべていた骨剣を1本掴んだ。
そのまま勢いを殺さず、グラティアの右手へ向けて投げつける。
白い骨剣が一直線に飛ぶ。
グラティアは避けなかった。
ただ、右手を僅かに開く。
次の瞬間、骨剣が消えた。
「……は?」
弾かれたわけではない。
砕かれたわけでもない。
黒い口へ触れた瞬間、そのまま奥へ呑み込まれ、最初から存在しなかったように消失したのだ。
衝突音すらしなかった。
私は無意識に、さっき蹴りを止めた自分の脚を見る。
もし、あのまま直接触れていたらどうなっていた?
高いVITで耐えられたのか。
《スライムボディ》で受け流せたのか。
少なくとも、今の骨剣を見る限りでは期待しない方がいい。
まともに触れれば、さっきミーナが受けたものと同じか、それに近い処理を受ける可能性がある。
そして、ここで私まで落ちれば戦線そのものが崩れる。
今日は死に戻って次へ繋げればいい。
普段なら、そう判断することだってできた。
でも、グラティアは通常のボスですらない。
次にこの塔へ来た時も同じように現れる保証なんてないし、今日得たこちらの情報だけを残して消える可能性だってある。
それだけは嫌だった。
ミーナを落としたこいつを、このまま逃がしたくない。
「……やっぱり、冷静じゃないわね」
グラティアが右手をゆっくり閉じる。
黒い口がひとつずつ消えていき、あっという間に元の白い腕へ戻っていった。
「あんなに怒っているのに、ちゃんと怖がれるなんて。本当に面白いわ」
「黙れって言ってるでしょ」
私は低く吐き捨てる。
怒りは消えていない。
むしろ、さっきよりずっと濃くなっている。
それでも《ベルセルク》の狂気の中に、細い一本だけ、冷たい思考が戻ってきていた。
あの右手には、直接触れない。
なら、触れずに潰す。
先に別のものを食わせる。
右手を使わせる。
狙いを固定させる。
その間に、反対側から私が殴る。
真正面から殴り倒すと決めたのは私だ。
だからといって、何も考えず自分から喰われにいく必要なんてない。
「……骨剣」
短く呟き、魔力を放つ。
私の周囲へ、次々と白い武器が生成されていった。
剣だけではない。
槍。
太い杭。
形の歪んだ骨の塊。
今は美しく作る必要なんてない。
必要なのは数だ。
グラティアの右手へ食わせるための大量の餌と、その処理へ意識を向けさせるための攻撃。
そうして一瞬でも右側を塞げれば、反対側からこの拳を叩き込める。
「あなたのその右手」
私は拳を強く握る。
「一体何本まで食べられるのか、試してあげるわ」
グラティアの口元へ、再び笑みが戻った。
さっきまでの上品な令嬢のものではない。
黒い瞳の奥へ、抑えきれない食欲を滲ませた獣じみた笑みだった。
「いいわ」
右腕へ、再び黒い口が浮かび始める。
「たくさん持ってきてちょうだい」
「言われなくても!」
私は腕を振り抜いた。
同時に、周囲へ生成した骨剣や槍が一斉にグラティアへ殺到する。
白い刃の雨が正面から押し寄せ、右腕へ次々と喰らいつかせるための軌道を描く。
それと同時に、私は床を蹴った。
右手には触れない。
真正面から力比べもしない。
それでも距離は取らない。
《ベルセルク》で赤く染まった視界の中心には、最初から最後までグラティアしか映っていなかった。
先に、食わせる。
右手を塞ぐ。
その一瞬だけでいい。
私は喰われるためではなく、もう一度あいつへ拳を届かせるために、骨の雨と一緒にグラティアの懐へ踏み込んだ。




