最後の階段
第41階層へ足を踏み入れた瞬間、塔の構造そのものがここまでとは明確に変わったことが分かった。
これまでの階層にあった長い通路や入り組んだ分岐、小部屋を探索しながら敵を倒していくような余地は、もうほとんど残されていない。階段を上がれば扉があり、その先には大きな広間と、いかにも「こいつを倒せ」と言わんばかりの敵が待っている。そいつを倒せば次の階段が現れ、また上へ進む――ただそれだけの、嫌になるほど分かりやすい構造だった。
分かりやすいということは、同時に誤魔化しが利かないということでもある。
塔そのものが上へ行くほど先細っている以上、ここから先はほぼ1フロアにつき1戦闘。探索や雑魚戦を挟む余地すらなく、階層ごとに用意された試練を正面から突破し続けることになるのだろう。
「1戦ごとの密度が、明らかに上がっていますね☆」
ミルキーが右手の大盾を構えながら、周囲を観察するように呟いた。
声そのものはいつも通り冷静だったが、その奥には隠しきれない熱が混じっている。ここまで相当数の戦闘を繰り返し、第40階層ではメタルグラトニーの爆発まで真正面から受けたのだから、疲れていないはずがない。それでも彼女の目は、むしろここへ来て一段冴えていた。
「完全に休ませる気がない構造だねぇ」
ネネも両手の短剣を軽く回しながら、楽しそうに笑っている。
こちらも同じだった。
身体的な疲労は残っているし、エルーサの回復でHPが戻ったからといって、長時間の攻略で削られた集中力まで完全に元通りになるわけではない。それなのに、難しい問題を目の前に置かれた攻略者特有の高揚感が、2人の空気から分かりやすいほど滲み出ている。
「……2人とも、なんかさっきより楽しそうじゃない?」
私が半ば呆れて聞くと、ネネは悪びれる様子もなく肩をすくめた。
「そりゃそうでしょ。ここまで来て、敵のレベルとステータスだけ雑に盛った高難易度じゃなくて、今まで出てきたギミックをちゃんと発展させて出してくるんだよ? こういうのは燃えるって」
「分かります☆」
ミルキーも真面目な顔で頷く。
「第1階層から第40階層までに提示した要素を再構成して、こちらがどこまで対応できるかを試しているのでしょう☆ 単純な数値の暴力ではなく、きちんと設計思想が見える難易度調整です☆」
「うわ、攻略班が早口になり始めるやつだ」
「まだ早口ではありません☆」
「その返しがもう怪しいんだよねぇ」
ネネが楽しそうに笑う。
たぶん、いわゆるゲーマーズハイに近いのだろう。
危険なのは理解しているし、疲労だって間違いなく溜まっている。それでも塔の作り込みが良すぎるせいで、攻略者としての本能を刺激されてしまう。面倒で、難しくて、こちらの嫌なところばかり正確に突いてくるのに、それでも手持ちの戦力だけで解き方を見つけ、倒して、突破してみたい。
私にも、その気持ちは嫌というほど分かる。
「ミーナ、あの2人……ちょっとすごいね」
「攻略者とは、時にああいうものです」
「ミーナも完全にそっち側じゃない?」
「私は火力担当なので、問題を解くというより燃やす側です」
「それはそれで怖いんだよなぁ」
そんな軽口を交わしているうちに、第41階層の扉がゆっくりと開いた。
◇
そこで私達を待っていたのは、見覚えのある猪型の魔物だった。
第1階層で遭遇した個体によく似ている。ただし、大きさは倍近くまで膨れ上がり、身体には分厚い脂肪が鎧のように重なっている。背中から伸びているのは鋭い飴細工の棘で、鼻先の牙には金属のような鈍い光沢まで浮かんでいた。
「おさらい1問目」
ネネが嬉しそうに呟く。
「ただし、難易度は3段階くらい増していそうですね☆」
ミルキーが右手の大盾をわずかに傾けた、その瞬間だった。
巨大なイノシシが床を蹴り、真正面からこちらへ突進してくる。
最初の数歩だけなら、第1階層で見たものと大差はない。巨体と勢いを頼りに正面から前衛を押し潰そうとする、分かりやすい突進攻撃に見えた。
ところが、前衛の私達が迎撃の姿勢を取った途端、イノシシは走りながら巨体を強引に捻り、そのまま軌道を変えた。
狙いは私でも、ミルキーでもない。
後方にいるミーナだ。
「またそこ狙うの!?」
反射的に骨兵を召喚して進路を塞ごうとして、私は途中で止めた。
ここまで登ってきて、塔がこちらの弱点を正直に突いてこなかったことなど、むしろ1度もない。
前衛を厚くすれば後衛を狙い、後衛を守れば範囲攻撃でまとめて崩し、召喚兵を壁として並べれば召喚そのものを削る手段を出してくる。こちらが穴を塞ごうとするほど、その次の穴を探してくるのなら、全部を守ろうとするより、最初から向こうが食いつきたくなる穴をこちらで用意した方がいい。
「ミーナ、左を空ける!」
「了解です」
私達は一瞬だけ陣形を緩め、ミーナへ向かう最短経路を意図的に開けた。
イノシシはそれを弱点と判断したらしい。迷うことなく空いた場所へ飛び込み、勢いをさらに上げて突っ込んでくる。
けれど、その進路上で待っていたのはミーナではなかった。
「愚直な突撃は、よほどの自信があるか……」
ベルナデッタが真紅の大剣を両手で構える。
「……それしか知らないか、どちらかだ……!」
激しい金属音と共に、真紅の騎士がイノシシの鼻先を真正面から受け止めた。
衝撃で銀色の床が軋み、ベルナデッタの身体がわずかに後ろへ押される。しかし、完全に勢いが止まったその瞬間、横からミルキーの右手の大盾が入り込み、突進の力を外側へ流した。
巨体が大きく傾く。
「はい、こっち」
その足元へ滑り込んだネネが、両手の短剣で牙の付け根を正確に狙う。
私はその反対側から骨剣を投げ込み、跳ね上がった剣へ蹴りを叩き込んで軌道を変え、背中を覆っていた飴細工の棘をまとめて砕いた。
防御が崩れ、腹側が大きく開く。
「圧縮たる熱素よ、臨界の閾を越え、爆ぜろ、《ブラストフレア》」
最後にミーナの炎弾が直撃した。
自分では後衛を狙って陣形を突破したつもりだった巨大なイノシシは、結局1度も本来の標的へ辿り着けないまま、光の粒子となって消えていった。
「よし……!」
私は軽く息を吐き、消えていく粒子を見送った。
「おさらいなのに、普通に嫌らしいね」
「おさらいだからこそ、でしょうね☆」
ミルキーの声がわずかに弾んでいる。
「今の軌道変更は、明らかに第1階層の突進型を発展させた挙動です☆ 単純に速度や攻撃力を上げるのではなく、こちらが前衛で受けることを理解した上で、途中から後衛へ抜けるように作られている☆」
「ねえねえ、今の結構よかったよね」
ネネも満足げに短剣を回した。
「突進型って普通は正面から来るだけで単調になりやすいけど、ちゃんと陣形を見て軌道を変えてきた。塔、分かってるねぇ」
「2人とも、もう敵を褒める余裕まで出てきたね?」
「余裕っていうか」
ネネは笑ったまま肩をすくめる。
「普通に楽しくなってきた」
◇
第42階層で待っていたのは、これもどこか見覚えのある太ったオークだった。
第30階層で戦ったオルグランを思わせる巨体ではあるものの、さすがに階層守護者だった彼ほど圧倒的な格はない。ただし、その分だけ役割が厄介な方向へ尖っていた。
片手には大きな肉切り包丁。
もう片方には、自分の身体すら半分ほど隠せそうな巨大な鍋蓋。
そして攻撃を受けるたびに、その巨体から油のような液体を周囲へ撒き散らす。
その油が、とにかく邪魔だった。
床へ広がれば足を取られ、踏み込みの軌道がズレる。ミルキーが大盾で攻撃を受けようとすれば足元を滑らされ、ネネが速度を上げれば逆に制動が難しくなる。私が勢いをつけて飛び込めば、油の広がり方まで利用して着地点を誘導される。
「油床、私これ苦手なんだけど!」
珍しくネネが露骨に眉を寄せた。
ただし、その口元は笑っている。
「苦手ギミック来た。よし、潰そ」
「嬉しそうに言うことじゃないよ」
「苦手だからこそ、対処できた時が気持ちいいんだよ」
「それは分かるけど!」
完全にスイッチが入っている。
とはいえ、油を撒かれるたびに正直に対応していても消耗するだけだ。
だったら、撒かせなければいい。
私は骨兵を数体だけ召喚し、わざと雑な陣形で前へ押し出した。
オークはそれを格好の標的だと判断したらしく、骨兵をまとめて滑らせようと鍋蓋の陰から腕を振り上げる。
その瞬間。
「リエラ様、今ですぜ!」
巨体の死角からトビー・トミーが飛び出し、鍋蓋の下へ潜り込んだ。
小さな身体を活かして縁へロープを引っかけ、そのまま全力で横へ走る。
「ナイス!」
私は引かれて僅かに浮いた鍋蓋の隙間へ骨剣を投げ込み、内側から強引にこじ開ける。
ほぼ同時に、ミルキーが反対側から右手の大盾を叩き込んだ。
挟み込むような力を受け、巨大な鍋蓋がオークの手から外れて床を転がる。
「燃やします」
防御が消えた瞬間には、もうミーナの杖先へ炎が集まっていた。
撒かれる前の油ごと焼かれ、太ったオークは反撃する間もなく光の粒子へ変わっていく。
「今の処理はかなり良かったですね☆」
ミルキーが満足そうに頷いた。
「敵の厄介な行動を止めようとするのではなく、『その行動を取る』こと自体をこちらの罠へ組み込む☆ ここから先は、そういう発想が重要になりそうです☆」
「はい先生、完全に講義モード入ってまーす」
ネネがすかさず茶化す。
「ネネさんも先ほどから似たようなものです☆」
「バレた?」
「完全に☆」
◇
第43階層は、お菓子で作られた兵隊達だった。
見た目だけならかなり可愛い。クッキーの盾にキャンディの槍、後列にはチョコレートで作られた弓まで並び、小さな兵隊達が整然と隊列を組んでいる。
ただし、この塔で可愛いという言葉が安全を意味しないことくらい、もう十分すぎるほど学習している。
実際、戦闘が始まった途端、その動きは今までの雑魚とは明らかに違った。
前衛を押さえる槍兵。
隙間を抜いて後衛を狙う弓兵。
さらに、こちらの回復役であるエルーサを優先して狙う個体までいる。
個々の能力はそこまで高くない代わりに、全体が1つの小さな軍隊として動いているのだ。
「うわ、統率型かぁ」
ネネの目が、また楽しそうに輝いた。
「可愛い顔して、やること嫌だねぇ」
「敵AIの切り替えもかなり速いです☆ こちらの配置変更に合わせて、攻撃対象を変えていますね☆」
ミルキーは右手の盾を構えながら一度だけ後ろを確認すると、わざとエルーサの周辺を薄くするように立ち位置を変えた。
「では、あえてエルーサさんの周囲を空けましょう☆」
「え、いいの?」
「狙わせます☆」
ミルキーには迷いがない。
そしてエルーサ自身も、その意図を理解したらしく静かに杖を胸元へ寄せた。
「お任せください」
回復役の周囲が手薄になった瞬間、お菓子の兵隊達の隊列が露骨に変わった。
槍兵が左右から道を開き、その中央を弓兵と軽装の兵士達が一気にエルーサへ向けて進んでくる。
完全に食いついた。
「《浄化》します」
エルーサが古びた杖を掲げる。
柔らかな白い光が足元から広がり、殺到してきた兵隊達を包み込んだ。光を浴びた周囲の床が泥濘のように重く変わり、小さな足が次々と沈み込んで動きを止める。
「ミーナ!」
「はい」
そこへ小さな炎の輪が走った。
動けなくなったお菓子の兵隊達をまとめて包み込み、そのまま一気に光の粒子へ変えていく。
焼き上げた、と表現するのが妙に似合いすぎていて少し嫌だ。
「今の誘導は綺麗でしたね☆」
ミルキーが戦況を確認しながら、小さく息を吐いた。
「敵がこちらの陣形の穴を探してくるのであれば、その穴の先にこちらの答えを置いておけばいい☆」
「いいねぇ」
ネネも短剣を肩へ乗せ、満足そうに笑う。
「塔がこっちを読んでくるなら、こっちも読まれることを利用すればいいだけだもんね」
この2人、攻略が難しくなればなるほど元気になっていないだろうか。
◇
その傾向は、第44階層を越えてからさらに顕著になった。
第44階層では、何度倒しても身体を再構成する巨大なプリン。
第45階層では、これまで遭遇した口だけの魔物を小型化し、複数同時に配置した捕食球。
第46階層では、広間全体へ毒性のある果実を撒き散らす巨大な樹木型モンスター。
どれも完全な初見というわけではない。
以前の階層で見た敵やギミックの発展形で、見覚えのある要素が必ずどこかに存在している。
しかし、だから簡単かと言えば真逆だった。
巨大プリンは再生の核を身体の内部で移動させ、同じ場所を狙い続けても仕留めきれない。複数の捕食球はミーナの魔力反応へ敏感に食いつき、大魔法を準備しようとした瞬間に四方から詠唱を邪魔しに来る。果実の樹に至っては、ネネの隠密を視覚ではなく匂いの判定で追跡してきた。
完璧な陣形を作れば、そのわずかな隙間を探される。
全員で固まれば範囲攻撃を重ねられる。
逆に散開すれば、それぞれを分断して各個撃破しようとしてくる。
ならば、私達も全部を守ることをやめた。
「右側、薄くするよ」
「了解です」
「じゃあ私は一旦消えるね」
「ミーナ、次は詠唱短めで」
「合わせます」
会話はそれだけで十分だった。
あえて守りの薄い場所を作り、相手に弱点だと思わせる。
敵がそこへ食いついた瞬間、ミルキーが右手の大盾で進路を変え、ベルナデッタが正面を塞ぐ。ネネが死角へ入り込み、私が骨兵を展開して逃げ場を潰したところへミーナの魔法が飛ぶ。
誰かが削られれば、エルーサがすぐに回復する。
広間の隅に設置された罠や厄介な仕掛けは、トビー・トミー率いるゴブリン隊が先回りして潰していく。
最初は敵の攻撃に対応していたはずなのに、階層を上がるにつれて、いつの間にか私達の方が敵に行動を選ばせるようになっていた。
もちろん、同じことを繰り返しているわけではない。
敵の種類も、狙われる弱点も、要求される対応も1戦ごとに変わる。
それでも、私達と眷属達の呼吸は戦うたびに噛み合っていった。
「なんかさ」
第47階層の敵を倒したところで、ネネが肩をぐるりと回しながら呟いた。
「塔がこっちを学習してるはずなのに、こっちも塔の考え方に慣れてきてるよね」
「そうですね☆」
ミルキーが頷く。
表情そのものは真剣なのに、目だけは明らかに楽しそうだった。
「学習し合っている、と言った方が近いかもしれません☆ 敵を配置する意図、こちらの誘導へ反応する条件、弱点を発見してから攻撃へ移るまでの速度。階層が上がるほど、塔側の精度も確実に上がっています☆」
「で、その精度が上がってること自体を、今度はこっちが利用する」
ネネが嬉しそうに笑う。
「めちゃくちゃ攻略してる感ある」
「分かります☆」
ミルキーが即答した。
本当に一切の間がなかった。
「相手の設計意図を考え、それを読み切った上で突破する。この感覚は、攻略者として非常に楽しいです☆」
「ミルキーさん、めちゃくちゃテンション上がってるね」
「否定はしません☆」
むしろ堂々と認めた。
右手の大盾を持ち直しながら、ミルキーはまだ見えない上階へ視線を向ける。
「ここまで来たら、第50階層が私達をどのような方法で迎えるつもりなのか、確認せずにはいられません☆」
「分かるー」
ネネも悪い笑みを浮かべた。
「怖いけど見たい。絶対ろくでもないのは分かってるけど、だからこそ中身を見たい」
「ゲーマーって面倒くさい生き物だねぇ」
そう言いながら、その感覚を誰より理解できてしまう私も十分同類なのだろう。
危険だと分かっている。
絶対に面倒なものが待っているのも分かっている。
それでも、まだ誰も見たことのない仕組みが先にあると言われたら、自分の目で確かめたくなってしまう。
◇
第48階層と第49階層は、まさしくここまでの総復習だった。
太ったイノシシが使った軌道を変える突進。
オークが仕掛けてきた防御崩し。
お菓子の兵隊達が見せた統率行動。
クリームスライム系の拘束。
そして、メタルグラトニーを思わせる攻撃への回避反応。
ここまでの塔で経験した複数の要素が、1つの戦闘の中へ少しずつ混ぜ込まれている。
普通に考えれば、かなり厄介だった。
けれど、私達はもう、その全部を1度は見ている。
どんな対策をしてくるかではなく、こちらが何を見せた時に、塔がどう反応しようとするのか。その考え方自体が、少しずつ分かるようになっていた。
だからこそ、私達は最後まで『完璧な陣形』を作ろうとはしなかった。
あえて穴を開け、敵を誘い込む。
私が囮になって前へ出ることもあれば、ミーナがわざと狙いやすい位置へ立つこともある。ネネが逃げ道を作ったように見せかけて、その先へ罠を置くこともあれば、ミルキーがあえて受けないように見せて、最後の瞬間だけ右手の大盾を差し込むこともあった。
塔がこちらの行動を読むのであれば、こちらは『読まれること』まで含めて動けばいい。
弱点を突かれないよう必死に隠すのではなく、こちらから弱点を差し出し、そこへ手を伸ばした瞬間を全員で刈り取る。
第48階層を越え、第49階層の戦闘も終盤に入った頃には、そのやり取りはほとんど会話すら必要なくなっていた。
私が半歩下がれば、ミルキーが前へ出る。
ミルキーが盾を傾ければ、ネネがその逆側へ回る。
ネネが敵の視線を一瞬だけ引けば、その時にはもうミーナの魔法が飛ぶ準備を終えている。
崩れたところをベルナデッタが支え、エルーサが回復し、トビー・トミー達が細かい穴を埋める。
誰か1人が突出して戦っているわけではない。
全員が、相手と味方の動きを見ながら、自分が今どこへ入れば一番綺麗に噛み合うのかを分かっている。
そうして、第49階層最後の魔物が光の粒子へ変わった。
戦闘終了を告げる静かな音と共に、広間の奥へ新しい階段が姿を現す。
今までよりも細く、真っ直ぐ上へ伸びた階段だった。
その先にあるのは、第50階層。
暴食の塔、その最上階だ。
ここまでずっと漂っていた菓子や料理の甘い香りは、もうほとんど感じられない。
代わりに階段の上から流れてくるのは、もっと輪郭の掴めない気配だった。
食べたい、という程度のものではない。
どれだけ食べても足りず、何を取り込んでも決して満たされない。そんな空腹そのものが形を持って、階段の先でじっとこちらを待っているような、妙な感覚がある。
私は周囲に浮かべていた骨剣を自分の側へ引き寄せ、改めて仲間達を見回した。
ミーナが隣へ並び、杖を握り直す。
ネネは両手の短剣を軽く回し、刃の状態を確かめている。
ミルキーも右手の大盾を構え直し、ベルナデッタとエルーサはその少し後ろで静かに頷いた。トビー・トミーとゴブリン達にも、ここまで登ってきた疲労はある。それでも、誰1人として引き返そうとはしていない。
「ここまで来たね」
私が呟くと、ミーナが階段の先を見たまま答えた。
「はい。第50階層――塔の最上階です」
「いやぁ、いいねいいね~。正直、途中で誰か1人くらいは乙ると思ってたんだけど」
ネネが笑う。
その顔には疲労も、緊張も、ここまで攻略してきた高揚感も全部入り混じっていた。
「いよいよ暴食の塔の本命だねぇ……んふふ」
「ネネさん、完全に楽しんでいますね☆」
「ミルキーもでしょ?」
「否定はしません☆」
ミルキーは一度深く息を吸い、階段の上へ視線を固定した。
「ただし、油断だけはしないようにしましょう☆ ここから先で待っている相手は、これまで私達が塔の中で見せてきた戦い方を、すべて知っている可能性があります☆」
「そうだね」
私は2人を見て、思わず笑った。
みんな疲れている。
HPを戻せても、MPを回復できても、ここまで積み重ねてきた戦闘の疲労まですべて消せるわけではない。それでも誰1人として目は死んでいないし、むしろ最後に何が待っているのかを見たいという気持ちの方が強そうだった。
だったら、行こう。
ここまで私達が使った技も、見せた弱点も、積み重ねてきた連携も、塔は全部見てきた。
それを食べて、学んで、最後にどんな答えを用意したのか。
向こうがこちらのすべてを知って待っているというのなら、私達もここまで積み上げたすべてを持って挑むしかない。
「さあ、行こう」
私は骨剣を従えたまま、第50階層へ続く最後の階段へ足をかける。
ミーナ、ネネ、ミルキーが続き、その後ろからベルナデッタ達も歩き出す。
階段を上るほど、空気は静かになっていった。
そして私達は、暴食の塔の頂上へ向けて、最後の階段を上り始めた。




