あれからとこれから
尻尾事件から、数日が経った。
あの夜、私の腰から確かに生えていたはずの黒い尻尾は、翌朝になると跡形もなく消えていた。ただ、ミーナが無言のまま執念で撮影していた高画質動画と、テーブルの脚に生々しく残った小さな擦り傷、そして何より、私の中にだけこびりついている“動かせるはずだった筋肉の感覚”だけが、あれを決して夢や幻の類ではなかったと証明している。
それ以降、現実の身体に分かりやすい変化は起きていない。突然魔力が迸って電子機器を壊すとか、背中から蝙蝠の羽が生えてくるとか、あるいは寝起きにまた尻尾がこんにちはしているとか、そういう分かりやすくて致命的な事件は起きていなかった。
そのため、ミーナが毎日つけている観察メモも、ここ数日は『異常なし』という言葉ばかりが並んでいる。安心できるはずなのに、嵐の前の静けさのようで逆に不気味に思えてしまうのは、私の警戒心が強すぎるせいだろうか。
ただ、変わったことが本当に何もなかったのかと言われると、そうでもなかった。明確に、ミーナとの距離感が少し変わったのだ。
今まではそれぞれ自分の寝室で寝て、朝になったら私が先に起き、ミーナの部屋へ行き、どうにかこうにかベッドから引きずり出して朝の雑談配信まで連行するという、同居人というより介護担当に近い生活リズムだった。しかし尻尾事件以降、私はミーナの寝室で一緒に寝ることが多くなっていた。
理由は単純明快である。現実侵食の経過観察という真っ当な建前と、朝が絶望的に弱いミーナを毎回別の部屋から剥がして連れてくるのがあまりにも大変だったからだ。同じ部屋で寝ていれば、物理的な移動距離が減る分、起こす手間も少しは省けるという、極めて実務的な判断によるものだった。決して、決して他意はない。
ないのだが、我が魔王軍の臣民たちは、やけにそういうところだけ野生の勘が鋭い。今朝の雑談配信でも、私が配信用デスクでカメラを回していると、寝ぼけたミーナがふらふらと部屋に入ってきて、「リエラさぁん、ベッド戻ろ……?」とマイクにばっちり甘えた声を乗せてしまったのだ。
さらに、私の寝起きの髪が少し跳ねていたことや、背景の空気がいつもより妙な生活感を帯びていたことなど、観察眼だけ無駄に鍛えられたコメントが滝のように流れ、挙げ句の果てには、『ついにミーナちゃんと結ばれた?』『魔王様、ついに正妻をお迎えに』『朝からイチャイチャを見せつけられる臣民の身にもなってほしい』などという、聞き流せばいいのに絶妙に聞き流しづらいコメントの弾幕が形成されてしまった。
そのせいで私は一瞬だけ完全にフリーズしてしまい、結果として何も否定できていない意味深な空白を配信に残すという、痛恨のミスを犯してしまったのである。
違う。違うんだ臣民。私たちはただ、朝の弱い魔術師を毎日決まった時間に稼働させるため、最も効率のいい運用方法を模索した結果、同じ部屋で寝た方が早いという結論に至っただけなのだ。そこに甘酸っぱい百合の花園を見出すのは自由だが、こちらとしては朝の配信準備と夜に控える塔クエストの予定で、それどころではないのである。
「じゃあ臣民のみんな、次はいよいよミルキーとのコラボ、レベル70の塔クエストだから……絶対見逃さないでよね! わかった?」
私はできるだけ魔王らしい余裕を声に乗せ、最後に軽く手を振ってから配信を切った。急に静かになった部屋の空気を1度だけ深く吸い込む。
配信中は、自分でも不思議なくらい“リエラ”というキャラクターに入り込める。臣民の前に立つ堂々たる魔王で、捕食スキルを持つ高VITの前衛で、最近は死霊術まで使い始めた、ちょっと絵面の悪いサキュバス系美少女配信者。でも、カメラの赤いランプが消えた瞬間、私はただの私に戻ってしまうのだ。
「……よし」
余計なことを考え始める前に、私は勢いよく椅子から立ち上がり、廊下へ出た。
今日の予定はみっちり詰まっている。朝の雑談配信は終わった。昼にはネネとの撮影、そこから塔クエストの入念な準備をして、夕方からは羽衛ミルキーとのコラボ配信、そして本番の塔クエストに挑む。
レベル70制限の塔。石碑クエストと深く関係している可能性が高く、エタファン世界の根幹の謎に踏み込むかもしれない、いかにも物語の節目みたいな重要な場所だ。そんな大事な日に限って、最初の難関がゲーム内の凶悪なボスではなく、現実のベッドの中にいるのだから、人生というのは本当に油断ならない。
「ミーナ、配信終わったよ。起きてる?」
先ほどふらふらと戻っていった寝室の扉を軽くノックしてから開けると、カーテンの隙間から差し込む眩しい朝の光の中で、ベッドの上の布団の山がもぞりと動いた。返事はない。ただ、掛け布団の隙間から、特徴的な赤い髪が少しだけ覗いている。
「ミーナ、今日は塔クエストの日だよ。起きないと準備が間に合わないからね?」
「……ぎゅって」
布団の奥から、くぐもったかすれ声が聞こえた。
「はい?」
「ぎゅってしてくれなきゃ、やだー……やだやだー……」
私は扉の前で一瞬だけ固まった。
寝起きのミーナには、一切の理屈が通じない。普段の彼女は、戦術担当としてはかなり優秀だし、配信の導線も的確に考えられるし、火力ビルドに切り替えた時の判断力も怖いくらいキレキレなのだが、朝だけは完全に別の生き物に成り下がる。いや、別の生き物というより、理性をすべて布団に吸い取られた駄目な魔術師だ。
「はいはい、分かったから。ぎゅってしたら起きてね」
「うん……」
この「うん」を素直に信用してはいけない。私は過去数日の同室生活の経験からそれを骨の髄まで学んでいたが、だからといって完全に無視すると、後で「リエラちゃんが冷たい」と半泣きで拗ねて非常に面倒なことになるので、結局こちらが折れるしかないのだ。
ベッドの横に膝をつき、布団から少しだけ顔を出したミーナを軽く抱きしめると、彼女は寝ぼけたまま満足そうにふにゃっと息を吐き、私の背中に腕を回してきた。
「リエラさん、ふわふわぁ〜……」
「はいはい、ふわふわですよ。だから起きようね」
「もうちょっと……」
「『もうちょっと』は、昨日も一昨日も最終的に30分コースになったからダメ」
そう言ってぴしゃりと撥ね除け、身体を離そうとした瞬間だった。ミーナの細い腕に思ったより強い力がこもり、私はそのまま抗う間もなく布団の中へ引きずり込まれかけた。
「ちょ、待って待って、そうはいくか……!」
慌てて踏ん張ろうとしたが、ベッドの端に中腰で膝をついていたせいで体勢が最悪だった。足に力を入れた瞬間、重心がふわっと崩れる。しまった、と思った時にはもう遅い。
「ぐえっ」
私はミーナごと布団の上に勢いよく倒れ込み、柔らかい寝具の沈み込みに身体を取られ、起き上がろうとしても変に力が逃げてしまってもがく羽目になった。現実の私は、ゲーム内のリエラと違ってVIT1600超えの歩く要塞ではないのだ。
しかも今は、寝起きのミーナという強力な布団属性の拘束魔法に囚われている。
「リエラさん、あったかい……えへへ……」
「いかんいかんいかん、流されるな私。今日は絶対に甘やかしちゃダメな日だ」
自分自身に言い聞かせるように呟くと、ミーナは目を閉じたまま、ふふっと小さく笑った。
「塔、夕方でしょ……?」
「昼から準備するの! 攻略記事見るし、装備も確認するし、ミルキーとの打ち合わせもあるし、ネネも来るし……私たちは今日、ちゃんと魔王軍として動く重要な日なの!」
「じゃあ、魔王様の命令であと5分だけ……」
「その命令権は私にあるんだよなぁ!?」
私は布団の中でどうにか身体をひねり、ミーナのホールドから抜け出そうと試みたが、彼女は寝ぼけているくせに絶妙な関節の極め方でしがみついてくるので、こちらも変に力を入れられない。
尻尾があれば、それを引っかけて距離を取れたかもしれない――などと一瞬思ってしまい、私は自分でその考えに至ったことに少しだけ背筋を冷やした。
ない。今の私に、尻尾はない。それなのに、まるで『あるもの』として無意識に計算に入れてしまった。
「……リエラさん?」
「ん、なんでもない。ほら、起きるよ」
私はわざと明るい声を出し、抵抗を諦めて最後の手段に出ることにした。ミーナの耳元に顔を寄せ、とびきり甘い声で小さく囁く。
「起きたら……ちゅってしてあげる」
「起きます」
ミーナはバチッと即座に目を開け、布団を跳ね除けて直立不動になった。効きすぎである。
◇
昼前には、ネネがエタファン内のクランハウスではなく、現実側の通話アプリに顔を出し、画面越しにいつもの軽い調子で手を振っていた。
『おはよ〜。ミーナちゃん、今日はちゃんと起きてる?』
「起きてます。リエラさんに起こしてもらいました(ドヤ顔)」
『あはは、じゃあ元気だね〜』
「どういうことよ!」
画面越しのネネの生温かい視線にミーナが抗議している間、私は共有フォルダにまとめられた塔クエスト関連の膨大な検証メモを開いた。
レベル70の塔クエスト。そう聞くと、単純にレベル70以上なら挑める中堅向けコンテンツのように聞こえるが、実際にはエタファンの中でもトップクラスに癖の強いクエストとして知られているらしい。
理由は、完全なる『自動生成』。塔の内部構造、出現する敵の種類、厄介なギミック、試練の内容が、挑戦するパーティの職構成、過去に取得した称号、さらには一部の行動履歴に合わせてリアルタイムで変化するのだ。
つまり、どれだけ攻略記事を読み込んでも「この階層にはこの敵が出ます」という確定情報が存在しない。
せいぜい分かるのは、火力偏重の敵が出やすいとか、状態異常対策が必須になりやすいとか、飛行系または高低差を利用した嫌らしいギミックが混ざりやすいとか、そういう大まかな傾向の話だけだった。
「これ、攻略記事というより、ただの災害対策マニュアルだね」
私が画面をスクロールしながら溜息まじりに呟くと、ミーナは真面目な顔で頷いた。
「そうですね。固定攻略の手順が一切通じないから、塔は難しいと言われています。特に私たちの場合、リエラさんの規格外の捕食、死霊術、ネネさんの高レベル斥候、ミルキーさんの特殊な立ち回りがあるので、普通のパーティとは違うイレギュラーな判定を受ける可能性が非常に高いです」
『しかも魔王軍って名前でしょ〜? 塔側が変な反応したら面白いよね〜』
「面白くないです」
真顔で即答したミーナに、私は思わず苦笑する。
だが、ネネの言うことは冗談で済まされない部分があった。エタファンは、ただのゲームとして片づけるには、あまりにも妙な反応が多すぎるのだ。
石碑に刻まれた読めない文字、魔王という単語にだけ走る謎のノイズ、NPCの自我めいた生々しい挙動、そして――現実に1度だけ現れた、私の尻尾。
それらが全部、ただの別々のバグだと笑って言い切れるほど、私はもう楽観的ではいられなかった。
「とりあえず対策としては、状態異常回復、飛行または高低差ギミックへの対応、物理耐久と魔法耐性の底上げ、長期戦を見越した継戦能力、視界妨害、罠探知……あと、精神干渉っぽい演出にも注意って感じ?」
「ですね。リエラさんは前衛と召喚壁によるヘイト管理、私は範囲火力と地形破壊、ネネさんは索敵と罠解除。ミルキーさんは本人のビルド次第ですが、前回の動きを見る限り、かなり器用に合わせてくれると思います」
『じゃあ、細々としたアイテムの準備とミーナちゃんのスキル回しは、私が詰めるね〜。塔用にきっちり確認しよっか』
「あー、確かに、朝迷惑をかけてしまいましたし……私がやっておきますよ」
『うん。リエラちゃんはたぶん、やれること多すぎて、考えると沼りそうだから、作戦は私たちに任せていったん外で甘いものでも食べてきなよ〜』
画面の向こうで、ネネがにこにこと人の良い笑みを浮かべた。
さらっと、見事なまでに見抜かれている。
「私、そんなに分かりやすい?」
「少し沼りかけてました」
「ミーナまで即答」
ミーナは少しだけ困ったように優しく笑ってから、こちらを見た。
「でも、ネネさんの言う通りです。リエラさん、ここ数日とっても真面目で『ふふん♪』みたいなあの軽いノリなかったですもん。配信では取れ高含め期待してますので少し外の空気を吸ってきてください」
「魔王が呑気に甘いもの食べに行ってる間に、臣下が必死に準備するのってどうなの?」
『ザ・魔王ムーブってことでいいじゃん? 優秀な臣下の大事な仕事ってことで〜』
「うちの臣下、優秀ね」
「あ、その代わりSNS用の自撮りだけお願いしますね」
「ちゃっかりしてるわね……」
私は冗談めかしてそう言いながらも、内心では彼女たちの気遣いに深く感謝し、少しだけ助かっていた。
塔の資料を読み込めば読み込むほど、あの消えた尻尾の感覚が腰の奥で疼くような気がして、自分が今、現実にいるのかゲームの中にいるのか、一瞬分からなくなる瞬間があったからだ。
だから私は素直に甘えて、2人に準備を任せることにした。
お待たせしましたっ。書き溜めたので頑張って更新します。




