49、待ち合わせ
改札の向こうへ消えるまで、彼女は2回振り返った。
そのたびに咲優が手を振り、俺も軽く頭を下げた。
「乗れたって」
咲優がスマホを見せてきた。
画面には、電車の座席に座ったらしい膝元の写真があった。俺は頷き、ポケットの中の500円玉に触れた。
彼女は改札に入る前、両手で財布を開いて金を出した。受け取る時に礼を言われ、俺も礼を言った。仕事としては、それで終わっていた。
「お兄さん、帰る方向こっちだっけ」
「いや、逆」
「何でついてきてんの」
「咲優は、どこまで帰る?」
咲優が俺を見た。
言い方がおかしかったのかと思ったが、彼女は少ししてからスマホをしまった。
「私も送るつもり?」
「あの人に顔を見られたから」
「お兄さんもでしょ」
それはそうだった。
俺が最後に1人になることについては、特に考えていなかった。
「……人の多いところまで」
「じゃあ、コンビニ。飲み物買いたい」
駅を出ると、さっきまで服についていた肉の匂いは、もうほとんど分からなくなっていた。指先にだけ、石鹸と焦げた油の匂いが残っている。
咲優は隣を歩きながら、何度か後ろを見た。
「変な人だったね」
「うん」
「怒鳴るとか、そういうのじゃないんだ」
俺は米田の顔を思い出した。
声を荒らげたのは、むしろこちらの方だった。あの人はずっと、話を聞いてもらえずに困っているような顔をしていた。
「返事はしてくれるんだけど」
「けど?」
「嫌だって言った時だけ、聞いてなかった」
咲優はしばらく黙って歩いた。
信号待ちの列に並ぶと、横断歩道の向こうで客引きらしい男が誰かに手を振っていた。別の誰かを呼んでいるだけなのに、俺は一度、顔を確かめた。
「次も頼まれたら行くの?」
「時間が合えば」
「前みたいになるのは、やめてよ」
俺は右肩を少し動かした。
咲優はそれを見て、眉を寄せた。
「そういう意味だけじゃなくて」
「分かってる」
本当に分かっているかと聞かれたら、答えに困ったと思う。
ただ、三浦の顔を思い出す時、助けられたと言われたことより、柴崎に後ろから引かれた感触の方が先に戻ってくることは、咲優には言わなかった。
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次の依頼が来たのは、翌日の昼だった。
『明日、22時半くらいに終わります。お願いできますか』
本屋の休憩室でシフト表を開き、夜の仕事が入っていないことを確かめた。
『行けます。店の場所を教えてください』
住所と地図が届き、少し遅れて、別のメッセージが来た。
『店では、りなって名前です』
そういえば、昨日は名前も聞いていなかった。
俺は連絡先の表示を変え、待ち合わせ場所について聞いた。すると、店の入口ではなく、少し離れた交差点を指定された。
『お店の前だと、ほかの子にも分かるので』
俺は地図を拡大した。
そこへ来るまで、彼女は1人で歩くことになる。
『店内で待たせてもらうことはできますか』
『お客さんとして?』
『付き添いの迎えとしてです』
しばらく返信がなかったので、俺は食べかけのパンを袋から出した。
最後の一口を飲み込んだところで、スマホが震えた。
『店長に聞いたら大丈夫でした。入口で名前言ってくれればいいって』
その下に、料金を確認する文が続いていた。
昨日と同じ金額を返してから、家までの道は大丈夫なのかと聞いた。
『駅まで友達が来てくれます。しばらく泊めてもらうので』
俺はその返事を読み、ようやく地図を閉じた。
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翌日の22時20分、俺は雑居ビルの階段を上がっていた。
衣装は着ていなかった。
一度はケースを開けたが、店に迎えに行くだけであの格好をする理由が見つからなかった。米田にはもう素顔を見られているし、マスクを被ると周りが見えにくくなる。
代わりに、スマホは十分に充電してきた。
3階の扉を開くと、甘い香水と揚げ物の匂いがした。壁際の照明が薄い桃色で、カウンターの向こうでは、猫の耳をつけた女の子がグラスを拭いていた。
「あの、りなさんの迎えに来たんですが……」
女の子は俺を見てから、奥へ声を掛けた。
出てきたのは、黒いシャツを着た男性だった。
「お話は聞いてます。ただすみません、まだ片付けてるので…」
「はい、大丈夫です。待ちます」
入口に近い椅子へ案内された。
店内には客が数人いて、笑い声に混じって氷のぶつかる音がしていた。壁のモニターでは、音を消した映像が流れている。
店長だという男性が、俺の前に水を置いた。
「あの人、昨日もいたんですよね」
「はい」
「こっちでも、入れないようにはしてるんですけどね」
男性は入口の方を見た。
「顔はスタッフに共有してます。本人にも来ないでくれって話してるんですが、外で待たれると、こちらも気づけないことがあって…」
俺は水の入ったグラスを両手で持った。
「今日は、来ましたか」
「見てないです」
少しだけ肩の力が抜けた。
安心していいのかは分からなかったが、いないと聞いても緊張したままでいるのは疲れた。
奥の扉から、彼女が顔を出した。
「ごめ〜ん!あとちょっと!」
「あ、はい、大丈夫です」
昨日の白い上着ではなく、黒いリボンのついた衣装を着ていた。髪も結び直してあって、一瞬だけ別の人に見えた。
客の1人に呼ばれると、彼女は声を少し高くして返事をした。
俺はグラスへ目を落とした。
仕事の顔を、迎えに来た人間がずっと見ているのも変な気がした。
店を出たのは、22時43分だった。
「遅くなってごめん」
「くらい、と聞いてたので」
「細かいね」
彼女は少し笑い、スマホをバッグへしまった。
階段を下りる間は何も話さなかった。最後の踊り場で彼女が足を緩めたので、俺が先に外へ出た。
向かいには閉まった店のシャッターがあり、その前でスーツ姿の男が電話をしていた。米田ではなかった。
「大丈夫そうです」
彼女は俺の横へ出てきて、左右を見た。
歩き始めてからも、ガラス張りの店の前では足が遅くなった。映っている背後を確かめているのだと気づいて、俺も急がないようにした。
その後は、店で余ったポテトの話をした。持って帰ろうとしたら別の子が食べていて、結局夕食を買わなければならないらしかった。
改札が見えてきた頃には、彼女の歩く速さは少し戻っていた。
約束の500円を受け取り、向こうの駅に迎えが来ていることも確かめた。
「また、お願いしていい?」
「シフトを確認するので、早めに分かれば」
「分かった。今日はありがとう」
彼女が改札を通り、俺は脇へ寄ってスマホを取り出した。
咲優に、駅まで着いたと連絡する。
返信を待たずに帰ろうとした時、便利屋のアカウントに通知が出た。
知らない相手からの依頼だった。
『人の付き添いをお願いしたいです』
俺は立ち止まった。
『日時と場所を教えてください』
相手はすぐに返信した。
『今度の金曜、22時半からで。』
シフトを確認しようとしたところで、次の文が届いた。
『駅までなら500円でいいんですよね?』
俺は画面から顔を上げた。
咲優への画面を開き直し、今届いたやり取りを送った。
『この人に、アカウント教えた?』
文字の横に既読がついた。
すぐに着信へ切り替わり、俺は壁際へ移動して電話を取った。




