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48、冷めていくもの

 3人の姿が人混みに紛れてから、僕は上げていた手を下ろした。

 袋の持ち手が指に食い込んでいた。握り直すと、中の箱が傾き、薄いビニール越しに擦れる音がした。

 彼女が好きだと言っていた菓子だった。

 最初に会った夜、甘いものは好きだけれど、甘すぎるものは苦手なのだと話していた。少し面倒な好みだと思ったが、その面倒なところも悪くなかった。どれを選べば喜ぶか考える時間は、仕事中に意味のない数字を打ち込んでいるより、ずっと楽しかった。

 結局、中身さえ見てもらえなかった。

 僕は袋を開き、箱の角が潰れていないか確かめた。問題はなかった。賞味期限もまだ先だった。

 だから、捨てる理由はなかった。

 通りの向こうで、信号が変わった。人が一斉に動き出し、さっきまで空いていた歩道が埋まった。

 僕は3人とは反対側へ歩いた。

 追いかければ、また嫌がられる。今は周りに人もいるし、あの2人が何か言うだろう。話を聞く気のない相手に、無理に説明したところで時間を浪費するだけだった。

 それくらいの分別は、僕にもある。

 駅へ向かう途中、ガラスに自分の姿が映った。

 眼鏡が少し下がっていたので直した。上着の肩には細い糸屑がついていて、指で摘まもうとしたが、うまく取れなかった。

 彼女は、あの男の袖を掴んでいた。

 糸屑が取れてからも、僕はしばらくガラスの前に立っていた。


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────────────


 帰りの電車では、端の席が空いていた。

 鞄を膝へ載せ、菓子の袋はその上に置いた。隣に座った女が窮屈そうに腕を引いたので、僕は少し身体を寄せた。

「すみません」

 女は小さく頷き、スマホへ目を戻した。

 こういうことは、普通にできる。

 相手が困っていれば気を遣うし、自分に非があれば謝る。会社でも、頼まれた仕事を放り出したことはない。今日だって、帰る直前になって修正を渡されたが、嫌な顔をせずに済ませてきた。

 それなのに、彼女の前では、僕だけが話の通じない人間にされる。

 車窓には向かいの席の人たちが薄く映り、その顔を駅の明かりが次々と横切った。

 500円。

 あの男は、そう言った。

 安いと思った。あまりにも安かったので、かえって信用できなかった。

 駅まで送るだけなら、僕は金など要らない。時間だって合わせられる。疲れていても、翌朝仕事があっても、それを理由に断ったりはしない。

 金を受け取る男の方へ行って、僕の差し出した袋は見もしなかった。

 何を間違えたのだろう。

 考えながら、袋の口を指で折った。

 彼女が最初から僕を嫌っていたわけではない。それは覚えている。

 初めて席についた時、彼女は僕の眼鏡を見て、会社の人に似ていると言った。それから、疲れているのかと聞いた。

 大丈夫だと答えると、無理しないでね、と笑った。

 あの時、誰に向けて笑っていたのか。

 僕の後ろに別の客はいなかったし、彼女の目は確かにこちらを向いていた。

 あの男は、その夜のことを知らない。

 何も知らないくせに、彼女の隣に立っていた。

 電車が揺れ、膝の上の箱が滑った。僕は手で押さえ、潰れない位置へ置き直した。

 部屋に帰ると、玄関に置いた靴が朝のまま揃っていた。

 照明をつけ、鞄をいつもの場所へ下ろす。上着は椅子に掛けず、ハンガーに通してから吊るした。そうしておかないと、明日になって皺が気になる。

 手を洗い、菓子の箱を机に置いた。

 冷蔵庫から水を出したところで、スマホが振動した。

 画面を見て、僕はコップを置いた。

 警察からだった。

 少し待ってから出ると、今日、彼女に声を掛けたかと聞かれた。

「ええ。偶然会ったので」

 向こうは、僕が何を言われているか覚えているかと聞いた。

「覚えています」

 会いに行くことも、話し掛けることもやめるようにと、また説明された。僕は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。

 それから、贈り物を渡そうとしただけだと答えた。

 相手が望んでいないという言葉が返ってきた。

 何度も聞いた言い方だった。

「……分かりました」

 通話を終えると、机の上の水に細かな泡が浮いていた。

 彼女はもう電話をしたのか。

 自分で思いついたのだろうか。それとも、あの2人のどちらかに言われたのか。

 僕はコップを持ち、半分ほど飲んだ。

 冷たかったが、喉の奥に残ったものは取れなかった。

 彼女が怖がっていることは分かっていた。

 分からないのは、なぜその怖さを、全部僕のせいにするのかだった。

 優しく話しても逃げる。何も言わずに待っていても、誰かを呼ぶ。何をしてほしいのか尋ねる前に、近づくなと言われる。

 それでは、直しようがない。

 机の引き出しを開けると、店で撮った写真が入っていた。

 彼女は片手で小さなハートを作り、僕はその横で少しぎこちなく笑っている。余白には、また来てね、と丸い字があった。

 僕は写真を机に置き、その文字を指でなぞった。

 書けと言った覚えはなかった。

 彼女が、自分で書いたものだった。

 しばらく眺めているうちに、店の外で見た顔が重なった。

 袖を掴んでいた指。僕が声を掛けた時に止まった唇。こちらを見たまま、少しずつ浅くなっていた呼吸。

 その顔には、店で見せる笑顔よりずっと、僕に向けられたものがある気がした。

 僕が来ただけで、あんなに変わる。

 そう思うと、さっきまで腹の中に溜まっていた重さが、少し違うものになった。

 怖がらせたいわけではない。

 ただ、僕が彼女に何の影響も与えない人間だと思うことには、耐えられなかった。

 気づくと口元が緩んでいて、僕は水をもう一口飲んだ。



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 クローゼットの奥から、黒いケースを出した。

 留め具を外すと、畳んだ緑色の服と、その上に置いたマスクが見えた。長い触角が内張りに収まり、黄色と黒の目が天井を向いている。

 昼間の服より、こちらの方が丁寧にしまってあった。

 僕はマスクを持ち上げ、机の端へ置いた。

 胸につけるコンバーターには、黒い管が繋がっている。今日は触らなかった。前に加減を間違えた時の、何もかもが愉快になってしまう感覚を覚えていた。

 あれでは、せっかくの時間を細かく覚えていられない。

 ケースの隅に収めたナイフを取り出し、鞘に入れたまま膝へ置いた。

 好きな相手には、最後まで責任を持つべきだと思う。

 都合が悪くなったからといって、ほかの誰かへ任せたり、いなかったことにしたりするのは違う。

 僕なら、最後まで見ていられる。

 彼女が泣いても、ひどいことを言っても、それで嫌いになったりはしない。息が止まる瞬間までそばにいることだって、僕にはできる。

 彼女も、いつか分かるはずだった。

 自分の最後を任せられるのは、これほど自分を思っている人間なのだと。

 机の上でスマホが光り、僕は顔を上げた。

 会社のグループに、明日の資料を確認してほしいという連絡が来ていた。

 ナイフをケースへ戻し、画面を開いた。

『承知しました。出社後に確認します』

 送ってから、写真の隣に置いた菓子の箱を見た。

 このままでは、食べ頃が過ぎてしまう。

 僕は箱を開けて1つ取り出し、小さなフォークで端を切った。

 思っていたより甘かった。

 彼女には少し甘すぎたかもしれないと考え、次は別のものにしようと思った。

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