47、迎えに来ただけ
「歩いて10分くらい」
彼女が答えたところで、咲優はスマホの時計を見た。
「じゃあ、そろそろ行こ。みんなにも言ってくる」
俺は頷き、便利屋の画面を閉じた。料金は帰り道に決めてもいいと思ったが、さっき咲優に言われたばかりなので、やはり先に聞くことにした。
「付き添うのは、改札までで大丈夫ですか」
「うん。電車乗るとこまで行ければ」
答えながら、彼女の目が俺の肩越しへ動いた。
唇がわずかに開き、そのまま言葉が止まった。
俺は振り返った。
人の流れから外れたところに、眼鏡を掛けた男が立っていた。濃い灰色の上着に黒いズボンで、肩から小さな鞄を提げている。買い物の帰りなのか、片手にはコンビニの袋があった。
こちらを見ていること以外に、特別気になるところはなかった。
「こんばんは」
男は軽く頭を下げた。
俺も反射的に会釈しかけたが、袖が引かれたので止まった。
彼女の指が、さっきより強く布を掴んでいた。
「……あの人ですか」
小声で聞くと、頷く代わりに指へ力が入った。
男は数歩手前で足を止め、彼女の顔を覗くように少し首を傾けた。
「今日はお休みだったんだね」
換気扇の音が、頭上で鳴り続けていた。
誰も返事をしなかったが、男は特に気にした様子もなく、コンビニの袋を持ち上げた。
「甘いもの、好きだったでしょう。近くまで来たから」
「いらない」
彼女は俺の横から、短く答えた。
「中、見てからでもいいよ」
「いらないって」
袋がゆっくり下がった。
男はそこで初めて俺の顔をまともに見た。怒っているようには見えなかった。ただ、頭から靴まで確かめるように視線が動き、最後に彼女の手が掴んでいる袖で止まった。
「お友達ですか」
「付き添いです」
「付き添い?」
「駅まで、一緒に行きます」
それを聞いて、男は少し笑った。
「そうですか。僕も帰る方向なので、あとは大丈夫ですよ」
何が大丈夫なのか、すぐには分からなかった。
彼女の指は、まだ俺の袖から離れていなかった。
「この人と行くんで」
彼女が言った。
「うん。でも、その方にも都合があるでしょう」
「頼まれて来てるので」
俺が答えると、男はもう一度こちらへ向き直った。
「失礼ですけど、どういうお仕事ですか」
「便利屋です」
「ああ」
納得したように頷き、男は彼女を見た。
「お金を払ってるんだ」
彼女は答えなかった。
「そういうことなら、僕に言ってくれればよかったのに。送るくらい、何度でもするよ」
「あなたに頼みたくないから、別の人に頼んでるんだけど」
戻ってきた咲優が、俺たちの横で足を止めた。
男は眼鏡の位置を指で直し、咲優にも会釈した。
「こんばんは。何か誤解があるみたいで」
「何の?」
「僕は心配しているだけなんです。この辺り、遅い時間は危ないでしょう」
広場の方から、誰かが颯太を呼ぶ声がした。男の背後を、笑いながら歩く2人組が通り過ぎた。
いつもなら気にも留めない声が、今はやけに遠く聞こえた。
「前にも言ったよね。もう来ないでって」
彼女はバッグを胸元へ引き寄せた。
「警察の人にも言われたでしょ」
男の笑みが少し薄くなった。
「その話を、ここでする必要ある?」
「あるから言ってんじゃん」
「大きい声を出すと、周りの人が驚くよ」
咲優が口を開きかけたので、俺は先に聞いた。
「ここにいるのは、誰かから聞いたんですか」
「いえ。たまたま通りかかったので」
「さっき、近くまで来たと言ってましたけど」
「同じことですよね」
「今日、休みだとは知らなかったんですか」
男は答える前に、袋の持ち手を握り直した。
「お店にいなかったので、どうしたのかなとは思いました」
隣で彼女が息を吸った。
俺は言葉を選びながら、続けた。
「店にも行ったんですか」
「前を通っただけです。入ってませんよ」
男の声は穏やかだった。質問するたびに答えてくれるが、聞く前より分からないことが増えていった。
たまたま店の前を通り、たまたまここで見つけて、その手には彼女の好きなものが入っているらしかった。
「……名前、聞いてもいいですか」
「米田です。米田弘美」
男は、仕事で初めて会った相手にするような調子で名乗った。
「そちらは?」
答えかけたところで、咲優が俺を見た。
俺は一度口を閉じた。
「便利屋の連絡先ならあります」
「名前を聞いただけなんですけど」
「今日は、この人の付き添いなので」
米田はしばらく俺を見た後、そうですか、と言った。
怒鳴られる方が、まだ返事の仕方が分かる気がした。眼鏡の向こうにある目は静かで、俺が答え直すのを待っているようにも見えた。
「もう行こ」
咲優が彼女へ声を掛けた。
俺も壁際から離れたが、米田は通りの方へ半歩動いた。道を塞ぐほどではなかった。それでも彼女の足が止まったので、俺も止まらざるを得なかった。
「少しだけ、2人で話せないかな」
「嫌だ」
「ちゃんと話せば分かることもあるでしょう」
「話したくない」
米田は困ったように眉を下げた。
「嫌なことから逃げてばかりだと、何も解決しないよ」
俺は彼女の手元を見た。
袖を握っていた指が離れ、今度は自分の上着の裾を強く握っていた。爪の飾りが布に引っかかっているのに、本人は気づいていないようだった。
「今日は話さないそうです」
「あなたには分からないと思います」
「分からないです」
そう答えると、米田が黙った。
「でも、帰りたいとは聞いてます」
俺は通りの明るい方へ身体を向けた。彼女がついてきて、咲優も反対側に並んだ。
背後から、米田の声がした。
「送ってもらったら、何か返さなきゃいけなくなるんじゃない?」
彼女の歩幅が小さくなった。
「親切にしてくれる人が、みんないい人とは限らないよ」
俺は足を止め、振り返った。
「料金のことなら、先に決めます」
米田は一瞬、何の話か分からないという顔をした。
俺は彼女へ聞いた。
「今日は駅まで、500円でいいですか。それ以外は要りません」
「……うん」
「じゃあ、それで」
咲優が俺の背中を軽く押した。
歩き出してからも、後ろに足音が増えないか気になった。店先のガラスに映る人影を見たが、重なり合う姿の中から、1人を見分けるのは難しかった。
「ついてきてる?」
彼女が小さく聞いた。
咲優が振り返った。
「今は、あそこにいる」
俺も一度だけ見た。
米田はさっきの場所に立っていた。手に提げた袋が看板の明かりを透かし、白い指の輪郭が浮かんでいた。
目が合うと、彼は軽く手を上げた。
俺は前へ向き直り、2人の歩く速さに合わせた。
「警察に連絡する時、俺たちも見たって言っていいよ」
咲優が彼女に言った。
彼女は頷き、スマホを取り出した。画面を押す指が何度か止まったので、俺たちもコンビニの明かりの下で足を止めた。
通話が繋がるまで、咲優は彼女の隣にいた。俺は少し離れ、今歩いてきた道の方を向いて立った。




