50、ナゾの相手
「私、その人知らない」
電話に出ると、咲優は挨拶より先に言った。
俺は改札の前を行き交う人から少し身体を背け、スマホを耳へ押し当てた。構内放送が頭上で流れ、途中の言葉が聞き取れなくなった。
「……誰にも教えてない?」
「便利屋やってるって話はしたけど、アカウントまで見せたのは、りなちゃんだけ。で、その人には何て返した?」
「日時と場所を聞いた」
「受けてはないんだよね」
「まだ」
電話の向こうで、扉の閉まる音がした。それまで聞こえていた話し声が遠ざかり、咲優の声がはっきりした。
「米田じゃないの」
「そうかもしれない」
「あの時、500円って聞いてたじゃん」
俺もそこが気になっていた。
ただ、りなが友人に料金を話した可能性もあった。昨日の食事の時には何人もいたし、便利屋のアカウント自体は誰でも見られる。
「誰から聞いたか、確認する」
「変な場所で待ち合わせしないでよ」
「うん」
「あと、今どこ?」
「まだ駅」
「そのまま帰って。画面見ながら歩かないでね」
分かった、と答えて通話を終えた。
夜の駅には、急ぐ人と動かない人がいた。柱に寄りかかってスマホを見ている男が何人もいて、俺もその1人だった。
さっきまで送る側だったのに、今は誰かの視線がこちらを向くだけで、画面を伏せたくなった。
『料金は、どなたから聞きましたか』
返事を待つ間に相手のプロフィールを開いた。
名前はアルファベット1文字で、画像は初期設定のままだった。投稿はなく、作成されたのは今月らしい。
それだけで何かが分かるわけではなかった。依頼するためにアカウントを作る人もいる。
新しい通知が出た。
『知り合いです』
『差し支えなければ、お名前を教えてください』
『紹介がないと受けてもらえないんですか』
俺は入力した文を一度消した。
別に、紹介制ではなかった。
『依頼内容によって料金が変わるので、確認しています。どこからどこまでの付き添いですか』
『駅までです。前と同じで』
俺はスマホを持つ手を下げた。
改札の向こうから出てきた人の列が、目の前を通り過ぎた。キャリーケースの車輪が床の継ぎ目を越えるたび、小さな音が連なった。
前と同じ。
誰の、どの依頼のことを言っているのか。
聞こうとしていた内容が、少しずつ俺の方へ戻されていた。
帰りの電車で、りなから連絡が来た。
『友達と合流しました。今日もありがとう』
迎えが来ているとは聞いていたが、実際に合流したと分かると、ようやく息を長く吐けた。
『便利屋のアカウントを、誰かに教えましたか』
すぐに返信が来た。
『今日の店長と、同じ店の子に話した。なんかあった?』
俺は届いた依頼について簡単に伝え、500円という金額まで話したかを聞いた。
『値段は言ってないと思う』
その後に、少し間を置いて文章が増えた。
『米田?』
『まだ分かりません』
そう返してから、余計な心配を増やしたかもしれないと思った。
ただ、分かっていないのに違うとも言えなかった。
『何か分かったら連絡します。今夜は友達のところにいてください』
送った後、自分が誰かに指示を出せる立場ではないことを思い出した。それでも、消して書き直すほど間違ったことではない気がした。
窓に映った自分の顔は、思っていたより疲れていた。
駅まで歩いて500円を受け取っただけなのに、まだ仕事が終わっていなかった。
帰宅して、パソコンでやり取りを開いた。
相手からは、その後もメッセージが来ていた。
『男は対象外ですか』
『女性しか受けないなら、そう書いておいた方がいいと思います』
俺は椅子に座る前に上着を脱いだ。部屋の中は少し蒸していたが、窓を開ける気にはならず、換気扇だけ回した。
依頼の画面を保存し、最初の文から読み直す。
集合場所も、駅の名前も、付き添う理由も分かっていない。
分かっているのは、相手が金曜の22時半を指定してきたことと、俺が別の依頼で受け取った金額を知っていることだけだった。
『性別でお断りはしていません。待ち合わせ場所と、ご依頼の理由を教えてください』
画面を開いたまま台所へ行き、水を飲んだ。
流しには、朝使った茶碗が置いてあった。水に浸けていなかったので、縁に残った米が乾いている。
洗おうとして蛇口を開けたところで、通知音がした。
『怖い人がいるので、1人で帰りたくありません』
俺は濡れた指をズボンで拭いた。
その文だけなら、りなから受けた依頼と変わらなかった。
誰かが本当に困っていて、質問の仕方に腹を立てているだけかもしれない。文章では、言い方がきつく見えることもある。
『その方から、何か被害を受けていますか』
『大切な人を連れていかれました』
換気扇の音が、急にはっきり聞こえた。
俺は椅子へ座り、両足を床につけた。
『米田さんですか』
返事は、しばらく来なかった。
入力欄にカーソルが点滅していた。相手の顔が見えないせいか、昨夜の穏やかな声が、勝手に文章へついた。
『人違いだったら失礼だと思いませんか』
俺は画面を見たまま、背もたれへ身体を預けた。
否定はされなかった。
ただ、それを肯定だと決めることもできなかった。
『付き添いの内容を確認できないため、今回のご依頼はお受けできません』
そこまで打って、一度読み直してから送った。
相手からはすぐに返ってきた。
『困っていると言っているのに?』
続けて、もう1通届いた。
『助ける相手は選ぶんですね』
俺は指をキーボードから離した。
選んでいる。
犯罪に関わるものは断るし、仕事の時間が重なれば行けない。自分にできそうかどうかも考えている。そうしなければ、便利屋というより、何を頼まれても引き受ける人になる。
それでも、言われると少し嫌だった。
りなには行くと言って、この相手には断っている。その違いを、相手が納得する言葉で説明しようとすると、いくらでも時間を使ってしまいそうだった。
俺は画面を閉じかけ、咲優へ一連のやり取りを送った。
すぐに返事が来た。
『もう返さなくていい』
その下に、もう1つ。
『お兄さん、全部に答えなくていいんだよ』
俺は入力欄に残していた文を消した。
翌日の昼休み、昨夜の画面をもう一度開いた。
追加のメッセージはなかった。
りなに、相手が米田かどうかは分からないが、依頼は断ったと伝えた。彼女からは、店長にも見せていいかと聞かれたので、構わないと答えた。
それから咲優の連絡を開いた。
『りなちゃん、何も悪くないからね。それは言っといて』
俺は少し考えてから、りなへ文を足した。
『相談したことを気にしなくて大丈夫です』
送信した直後に、昼休みが残り10分になっていることに気づいた。弁当は、まだ半分も減っていなかった。
午後は、入荷した本の検品をして過ごした。
背表紙の角が潰れていないか、注文した冊数と合っているか。一つずつ確かめている間は、画面の向こうの相手について考えずに済んだ。
閉店前、社員さんに頼まれて売り場へ本を運んだ。
台車を棚の脇へ寄せ、しゃがんで下の段へ本を差し込んでいると、頭上から声がした。
「すみません」
「はい」
立ち上がりかけて、手が止まった。
棚の向こうに、米田がいた。
今日はスーツを着ていて、片手に黒い鞄を持っていた。眼鏡の奥の目が、俺の顔から胸元へ動いた。
名札を見ているのだと気づいた時には、もう遅かった。
「ああ。望田さんっていうんですね」
米田は初めて知ったことを喜ぶように、軽く頷いた。
俺は台車の持ち手を握った。
「……何か、お探しですか」
「ええ」
差し出されたスマホには、書籍の表紙が表示されていた。
「これ、在庫ありますか」
俺は題名を見たが、すぐには頭へ入ってこなかった。
「確認します」
「お願いします」
米田はスマホをしまい、通路を空けた。
俺は台車をその場へ残し、レジの方へ歩いた。
社員さんの横に立ってから、声を落とした。




