41、同行
マスクの内側で、自分の息が頬に当たっていた。
駅のトイレで着替えるわけにもいかず、家から衣装を着てきたが、電車の中では膝に置いていたマスクを被ると、歩くだけでも勝手が違った。足元を見るには首ごと動かす必要があり、腹の痛みを庇って背中を丸めると、今度は襟が顎に引っかかる。
待ち合わせのコンビニの前で、ユイは俺を見るなりスマホを下ろした。
「……本当にそれで来たんだ」
「先に言いましたよね」
「聞いてたけど」
ユイの視線が、赤いマフラーからブーツまで下がっていった。
「逆に目立たない?」
「顔は分からないので」
「まあ、顔はね」
それ以上は何も言わず、ユイは店の窓に映った自分の前髪を直した。俺はポケットからスマホを取り出し、咲優との画面を開いた。
来る前に、行き先と柴崎の名前は伝えてある。昨日殴られたことまで話すと止められると思ったが、隠して後から説明する方が面倒だった。
『終わったら連絡して。あと、今日も何かされたら普通に110番だからね』
『分かりました』
返事をしたところで、ユイが俺の肩越しに手を振った。
「お待たせ」
柴崎は昨日までと同じ黒いパーカー姿だった。俺を見て一度足を止めたが、すぐに小さく笑った。
「それ、店に入る時は取ってもらえる?」
「顔を隠しておきたいんですけど」
「面接するのはユイちゃんだから。付き添いの人にまで何か書いてもらったりしないよ」
「それなら、このままでもいいですか」
柴崎は少し俺を見てから、店の人に聞いてみると言った。
歩き出した2人の後ろについていくと、昨日逃げ込んだ通りの入口が見えた。自然と歩幅が狭くなり、ユイが振り返った。
「痛い?」
「速く歩かなければ」
柴崎もこちらを見たが、理由は聞かなかった。
案内されたのは、1階に閉まった飲食店のあるビルだった。
階段を上がった2階の扉には、店名ではなく会社名らしい小さなプレートが貼られている。柴崎がインターホンを押すと、鍵の外れる音がした。
中は事務所だった。白い机にノートパソコンが2台あり、壁際には段ボールと未開封のペットボトルが積まれていた。甘い芳香剤の匂いに、温めた弁当の匂いが混じっている。
「ここがお店ですか」
「受付と面談はこっち。働く場所は別」
答えたのは、奥の机から立ち上がったスーツ姿の男だった。30代くらいで、ネクタイはしていない。俺の格好を見ても笑わず、入口から少し離れたところで足を止めた。
「そちらは?」
「付き添いです。こういう格好で便利屋やってるらしくて」
柴崎の説明に、男は「あ〜そうですか〜」と頷いた。
「三浦です。今日は条件を聞いてもらうだけですから、気楽にどうぞ」
ユイには机の前の椅子が勧められ、俺には入口側の丸椅子が出された。座る時に腹が痛み、思わず息を止めると、三浦がこちらを見た。
「具合悪いんですか」
「少し、腹が」
「無理しないでくださいね」
机に置かれた用紙には、勤務時間や報酬の割合が印刷されていた。三浦は指で項目を示しながら、今の勤務先と何が違うのかを説明した。
最低額の保証はあるが、出勤日数などの条件がつく。そこから引かれる費用もあり、俺が聞き返すたびに三浦は別の欄を示した。
「ここまで引いた後の金額が、実際にもらえる分ですか」
「そうです。ただ、お客さんがつけば上がります」
「つかなかった場合を聞きたいです」
「そのための保証ですね」
ユイは用紙を見つめたまま、爪の先でバッグの縫い目を擦っていた。
三浦のスマホが鳴り、説明が止まった。
「はい。……今、面談中。荷物は本人に確認してからにして」
男は立ち上がり、奥の扉へ向かった。
扉が開いた時、向こう側で椅子を引く音がした。狭い廊下の先に、明かりのついた部屋が見えた。
「だから、帰るって言ってるじゃん」
女の声だった。
三浦が中へ入ると扉は閉まったが、閉まりきる直前に「ミクちゃん」と呼ぶ声が聞こえた。
俺は膝の上の手を握った。
同じ名前の別人かもしれない。ここからでは姿も見えなかったし、聞こえた声を知っているわけでもない。
柴崎は用紙をユイの方へ寄せた。
「週何日くらい出られそう?」
「今のお店、辞めてからですよね」
「そこは調整できるから」
「すみません」
自分で思っていたより、大きな声が出た。
「トイレ、借りてもいいですか」
柴崎は奥の扉を指した。
「出て左。ほかの部屋は開けないでね」
立ち上がると、ユイが俺を見た。俺はスマホを握り直してから扉を開けた。
廊下の左にはトイレがあり、右奥の部屋の扉は少し開いていた。
「携帯返して。連絡するだけだから」
「帰りの話を先にしようって言ってるでしょう」
三浦の声に、俺は足を止めた。
隙間から見えた女性は、椅子に座っていた。髪は写真より乱れていて、黒い大きなバッグを両足の間に挟んでいたが、目元と頬の形には見覚えがあった。
女性が顔を上げた。
俺の格好に驚いたのか、口がわずかに開いた。その顔を見て、ポケットのスマホで写真を確認する必要はなくなった。
「ミクさんですか?」
三浦が振り返った。
「お知り合いですか?」
俺ではなく、女性に聞いていた。
ミクは首を横に振りかけて、途中で止めた。
「……誰?」
「友達に頼まれて、探してます」
後ろで扉が開いた。柴崎が廊下へ出てきて、俺と部屋の中を交互に見た。
「何してるの?」
「この人を探してました」
「いや、トイレって言ったよね」
俺は答えず、ミクを見た。
「連絡、取れますか。心配してました」
「携帯、そっちにある」
ミクが三浦の方を指した。机の上に、ピンク色のケースをつけたスマホが伏せてあった。
三浦はそれを取り上げると、ミクのバッグの上に置いた。
「返さないとは言ってないでしょう。落ち着いて話そうとしてただけで」
ミクはすぐにスマホを掴んだ。
画面を何度か触ってから、バッグを持って立ち上がる。三浦は動かなかったが、扉の前にいるため、そこを通るには身体を避けてもらう必要があった。
「帰りたいんですか…?」
俺が聞くと、ミクは頷いた。
「じゃあ、下まで一緒に」
「付き添いって、そういう付き添い?」
背後から、知らない声がした。
振り返ると、柴崎の向こうに灰色の上着が見えた。昨日、コンビニの袋を持っていた男だった。
男は俺のマスクを眺め、それから、腹を庇っていた左手へ目を落とした。
「あ、お前、昨日の?」
「……!」
喉が詰まり、返事ができなかった。
三浦が俺と男を見比べた。
「知ってんの?」
「その辺で写真見せて回ってた奴。たぶん」
俺は後ろへ下がりかけ、ミクがバッグを持って立っているのを見て止まった。
事務所の方からユイが顔を出した。
「何かあったんですか……?」
「ユイさん、先に外へ出ててください!」
灰色の上着の男が廊下へ入り、肩で扉を押し開けた。
「ねぇ、まだ話してんだけど」
俺はスマホを握ったまま、ミクが通れるように身体を横へずらした。




