40、マスクを被る理由
昼の休憩に入ったところで、ミクを探している依頼人からメッセージが届いた。
『前に迎えに行った場所、見つかりました』
続けて送られてきた地図には、職安通りから少し南へ入った場所に印が付いていた。俺は弁当を膝に置いたまま、その周辺を拡大した。昨日まで調べていた店とは、通りが一本違っている。
『ここがお店ですか』
『お店かどうかは分からないです。荷物を取りに来てって言われて、行っただけなので』
『ミクさんもいましたか』
『いました。下で待ってて、一緒にタクシー乗りました』
それはいつだったのかと聞くと、1ヶ月ほど前だという。少なくとも、その時点ではミクが実際にいた場所だった。
俺は地図を保存してから、昨日のやり取りまで画面を戻した。
ユイに仕事を紹介している柴崎と、ミクに仕事を紹介した男。依頼人はプロフィール写真を見て『この人』と答えたが、それだけで柴崎がミクの失踪に関わっているとは言えない。そもそも、ミクが自分の意思で連絡を絶った可能性も残っている。
ただ、同じ男が仕事を紹介した女性の一方と、連絡が取れなくなっている。
ユイが次の店を決める前に、何か分かればいいと思った。
『今日、近くまで行ってみます』
『あの人には言わないでください』
『言いません』
返事をしてから弁当の蓋を開けると、箸が入っていなかった。残りの休憩時間を確認して、俺は立ち上がった。
仕事が終わってから一度帰宅し、衣装を入れたケースを持って新宿へ向かった。
使う予定はなかったが、匿名で始めた便利屋の仕事で、素顔のまま知らない人に会い続けているのも変な話だった。必要になったら着ればいいと思って持ってきたものの、途中で都合よく着替えられる場所があるわけでもない。
駅を出てしばらく歩くうちに、ケースの持ち手が指の同じ場所に食い込んできた。
教えられた建物は、飲食店と古いマンションの間にある4階建ての雑居ビルだった。入口の脇に縦長の看板があり、店名らしいものがいくつか並んでいるが、空白のままの段もある。奥の階段には明かりがついていて、外から見える範囲に人はいなかった。
俺は依頼人に建物の写真を送り、ここで間違いないという返事を待ってから、隣の店の前で段ボールを畳んでいる男性に声を掛けた。
「すみません。人を探してるんですけど」
男性は手を止めずに俺を見た。ミクの写真を出したスマホを向けると、一度だけ顔を近づけてから首を横に振った。
「分かんないね」
「この隣の建物って、何の店が入ってるか分かりますか」
「上は知らない。出入りも多いし」
礼を言って離れ、建物の正面へ戻った。依頼人に何階だったか聞こうとした時、背後から声がした。
「誰か待ってる?」
振り返ると、薄い灰色の上着を着た男が立っていた。年齢は俺より少し上くらいで、片手にはコンビニの袋を提げている。その後ろに、黒いTシャツ姿の男がもう1人いた。
「人を探していて」
「さっき写真見せてた子?」
「……はい」
「見せて」
俺はスマホを持つ手を下げた。
向こうから何か知っていると言われたわけではない。さっき自分から写真を見せておいて妙ではあるが、依頼人に念を押されたことが頭に引っかかった。
「この建物の方ですか」
「そういうのいいから。誰を探してんの」
灰色の上着の男が手を出した。画面を見るためというより、端末そのものを受け取るような出し方だった。
「名前を教えてもらえれば、知ってるか確認しますけど」
「お前が見せれば済むだろ」
後ろの男が、俺の右側へ回った。
道を塞がれたわけではなかったが、2人の間に立っているのが急に嫌になった。俺はスマホの画面を消して、ポケットに入れた。
「すみません。もう帰ります……」
「ちょっと待てって〜」
腕を掴まれ、反射的に振り払った。ケースが男の脚に当たり、コンビニの袋が音を立てた。
謝るより先に、俺は大通りの方へ走り出していた。
数歩でケースが膝にぶつかった。持ち直そうとしたところで後ろから肩を引かれ、足がもつれたまま壁にぶつかった。
「何で逃げんの?」
「いや、帰るのd…」
振り向いた腹に、拳が入った。
息が変な音になって漏れ、俺は口を開けたまま身体を折った。吸おうとしているのに空気が入らず、ケースを手放した音だけがやけにはっきり聞こえた。
「スマホ出せよ、」
ポケットへ伸びてきた手を押さえると、今度は腕を殴られた。痛みで指が緩み、慌てて両腕を胸の前に寄せたところを突き飛ばされた。
尻から路面に落ちた。手をついた場所で砂が擦れ、腹の奥が遅れて強く痛み始めた。
「弱っ!」
黒いTシャツの男が笑った。
俺は相手の顔を見上げたが、殴り返すどころか、立ち上がっていいのかも分からなかった。動いたら蹴られる気がして、男の靴から目を離せなかった。
喧嘩なんて、したことがない。
相手が腕を振った時に避ける方法も、掴まれた手を外す方法も知らない。頭では逃げなければと思っているのに、腹を庇った身体がなかなか伸びなかった。
「誰に頼まれたの。あの子の何?」
「……し、知り合いに…!」
「その知り合い、誰?」
灰色の上着の男が屈み、俺の肩を掴んだ。
その時、すぐ脇の扉が開いた。
「そこ、入口なんだけど」
前掛けをした男性が、ゴミ袋を持ってこちらを見ていた。肩を掴む手が緩み、2人の顔がそちらを向いた。
俺はケースの持ち手を掴んで立ち上がった。腹が痛んで背中は伸ばせなかったが、そのまま明るい通りへ走った。
後ろで何か言われた。追ってきているか確かめる余裕はなく、通行人の間を抜け、客の並んでいるラーメン屋の前でようやく足を止めた。
振り返っても、2人はいなかった。
俺は店の壁に寄りかかり、呼吸が戻るまでケースを足元に置いていた。スマホを出そうとしたら、指が震えてポケットの縁に引っかかった。
『大丈夫でしたか』
依頼人からの連絡に返事をしたのは、駅まで戻ってからだった。
『建物は分かりました。ミクさんには会えていません』
男に写真を見せろと言われたことも伝えると、すぐに着信が入った。
「見せたんですか」
「その人たちには見せてないです。名前も言ってません」
電話の向こうで息を吐く音がした。
「すみません。あそこ、行ってもらって」
「ミクさんと会った時、その男たちはいましたか?」
服装と見た目を説明したが、分からないと言われた。依頼人も建物の中には入っていないらしい。
「ミクとは、その後も会ってますか」
「……会ってないです。連絡は取ってたけど」
「最後に直接会ったのが、あそこですか」
「はい」
俺は駅の柱に背中を預けた。あの2人がミクを知っているのかさえ、結局分からないままだった。
「今日は、これ以上は調べられません」
「はい。すみません」
謝られるたびに、5,000円で引き受けていい仕事だったのかと考えた。ただ、その金額を自分で了承したことも覚えていた。
帰宅して服を脱ぐと、上腕に赤紫の痣ができていた。腹は見た目にはそれほど変わっていなかったが、屈む時と咳をした時に痛んだ。
ケースを開けると、マスクが横向きに収まっていた。
今日これを被っていたとしても、殴られれば同じだったと思う。衣装の下にいるのは俺で、大学のサークルでもポーズを取って写真を撮っていただけだ。
机の上でスマホが振動した。
『明日21時に、柴崎さんとお店見に行くことになりました』
ユイからだった。続けて位置情報が届き、地図を開いた俺は、画面を少し広げて今日の建物を探した。
徒歩で数分の距離だった。
近いからといって同じ関係者の店とは限らない。それでも、今日の男たちに聞かれたことを思い出すと、何も言わずに画面を閉じる気にはなれなかった。
『俺も行っていいですか』
『いいけど、仕事は?』
『終わってから行けます』
そこまで打ってから、明日になって動けなければ迷惑が掛かると思い、少し付け足した。
『今日、人を探していて殴られたので、歩くのは遅いかもしれません』
『え、大丈夫なの?』
『帰っては来られました』
『いや、そういうことじゃなくて』
俺は椅子に座り直そうとして、途中でやめた。腹を曲げずに済む位置が、なかなか見つからなかった。
『それでも来るの?』
『行きます』
返事をして、ケースの中からマスクを持ち上げた。
あの2人には顔を見られている。明日、近くでまた会ったら、向こうは俺だと分かる。
こんな格好で歩けば目立つし、柴崎にも理由を聞かれるだろう。ただ、道の向こうからでも顔を見て追いかけてこられるよりはよかった。
俺は内側に入っていた手袋を取り出し、マスクと並べてケースに収めた。




