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42、手を離すまで

 扉が閉まるより先に、ユイがミクの腕を引いた。

 2人の姿が廊下へ消え、灰色の上着の男が舌打ちして後を追う。靴音が階段の方へ向かった瞬間、俺は机についていた左手に力を込めた。

「待って」

 身体を起こそうとした途端、右肩の奥に痛みが走った。腕は背中側に押さえられたままで、顔だけが机に近づいた。

「動くと痛いですよ」

 三浦が、耳元で言った。

 俺は左手を後ろへ回し、上着を掴もうとした。指先が布を引っかいただけで、すぐに手首を取られた。机から身体を引き剥がされたかと思うと、背中が棚にぶつかり、ペットボトルが何本も落ちてきた。

 プラスチックが床で弾け、水が散った。

 右腕が自由になった。それなのに、上げようとすると肩が痛んで、胸の高さまで持ってこられなかった。

「何しに来たんですか、あなた」

 三浦は俺の前に立っていた。

「人を、探しに」

「見つかったでしょう?だったら普通に話をすればいいじゃないですか」

「帰ろうと……しただけです…」

 横を抜けようとすると、胸を押された。

 俺はその手を払おうとした途端、腹に硬い拳が食い込んだ。ちょうど昨日殴られたところだった。

 息が白く弾けると同時に膝が折れた。床につく前に襟を掴まれ、持ち上げられる。足が宙に浮いた次の瞬間、横向きに叩きつけられた。

 マスクの側面が床に当たり、乾いた音がした。内張りが片眼を塞ぎ、視界が斜めにずれる。鼻の奥が熱くなった。

「ほら。こうなるから…」

 靴がズカズカと近づいてきた。

 俺は顔を庇ったが、蹴られたのは腹の下の方だった。靴先が内臓の奥まで届いたみたいで、身体が勝手に縮まる。喉の奥から、酸っぱいものが上がってきた。恐らく胃酸だろう。

 痛い、と口に出したつもりだった。息に混じった変な声しか聞こえなかった。

 二発目が同じ場所に入る。床を舐めるように身体が動き、マスクの縁から血が垂れた。

「三浦さん、もういいでしょ」

 柴崎の声がした。

「そっちのスマホ拾って」

 三浦はそれには答えずに指示をした。

 俺は床に手をついて、出口を探した。右手では体重を支えられず、肘から崩れた。マスクの中にこもった息が熱く、吐いた空気をそのまま吸い直している気がした。血の匂いが内側で広がる。

 取れば呼吸が楽になる。

 そう思ったが、近くにある靴を見て、手を顔から離せなかった。

 階段の方で、大きな音がした。壁を殴るような鈍い響きと、何かが転がり落ちる音。

「離してってば!」

 ミクの声だった。

 三浦が振り返り、俺から離れた。開いた扉の向こうで、灰色の上着の男がミクのバッグを掴んでいた。肩紐が腕に絡み、ミクは踊り場の壁に身体を寄せている。

 ユイの声は、もう少し下から聞こえた。

「今、電話してます! 警察!」

「切れよ」

 男が階段を覗き込んだ隙に、ミクがバッグを引いた。男の手が外れ、彼女の背中が壁に当たった。肩が鳴ったみたいな小さい音がした。

 三浦が扉を出た。

「携帯取ってきて」

 灰色の上着の男が下へ向かい、代わりに三浦がミクの腕を掴んだ。指が腕に食い込み、ミクの身体が扉の方へ引き戻される。

 俺は机の脚を左手で握った。

 足を立てようとすると、腹の中が引き攣った。立ってもまた殴られる。さっきは拳を当てることさえできなかったし、次も同じだと思った。

 それでも、手は机から離れなかった。離したら、あの手がミクの腕に残る。

 ミクが部屋へ引き戻され、扉の枠に手を掛けた。

「帰るから、もう」

 声が途中で詰まった。

 三浦がその手を剥がしていた。爪が枠を滑る。

 俺は机の脚から手を離し、どうにか立った。

 相手の名前を呼ぼうとしたが、息が続かなかった。そのまま近づき、ミクを掴んでいる手首に左手を掛けた。

 三浦がこちらを見た。

「まだやるの?」

「離して…ください……!」

 掴んだ手を引く。

 指が、自分でも驚くほど沈んだ。手袋の内側で三浦の骨に当たる。相手の顔が、初めて引き締まった。

 空いている方の腕で顔を殴られた。

 マスクが鼻にぶつかった。目の前が一瞬白くなり、後ろへよろけた。鼻腔が熱い。マスクの内側を血が伝って、口の端まで落ちてくる。

 それでも指は離れなかった。

 殴られたことは分かった。身体を丸めて待とうとは思わなかった。待ったら、その手がまたミクへ戻る。

 右手も添えた。肩がどうなっているのか、うまく分からなかった。添えた瞬間、三浦の手首が内側へよじれた。

 低い音がした。関節の音だった。

「痛いって。手ェ離せ」

 三浦の声が変わった。

 俺は首を横に振り、相手の腕を下へ引いた。足が滑る。床の水を踏んで、お互いの体重が一つの方向へ倒れる。

 三浦の手首が、掌の中で形を変えた。指がもう一段階沈む。向こうが悲鳴に近い息を吐いたところで、ミクの腕から手が外れた。

「行って!」

 彼女が脇をすり抜けた。

 三浦が空いた左手で俺の襟を掴む。首が締まるより先に、俺は前へ出ていた。離れるとまた殴られる、ではなかった。離したら、また誰かの腕を掴む。

 マスクの額を、三浦の顔へ打ちつけた。

 柔らかいものと、硬いものが同時に潰れた。鼻が横へずれる感触が、マスクの内側に伝わってくる。三浦の手が襟から落ち、血が俺の口のあたりまで跳ねた。自分の血か、向こうの血か、マスクの中では区別がつかない。

 三浦が後ろへ下がった。下がった先が机だった。

 俺も止まれなかった。

 肩を入れてぶつかる。机が床を削って壁まで走る。紙とノートパソコンが飛び、画面が裏返ったまま割れた。三浦の腰が縁に乗り、上体が机の向こうへ落ちかける。

 俺は上着を握ったまま、相手を机の上へ押し倒した。右肩が内側で違う音を立てた。痛みはあった。止まらなかった。

「どけよ」

 三浦の肘が俺の耳の後ろを払う。音が一度消える。次の拳が来る前に、俺はマスクをもう一度ぶつけた。机の天板と三浦の顔の間に、自分の頭を打ち込む。天板が鳴った。三浦の後頭部も鳴った。

 骨が折れる音がしたのか、机が割れたのか、マスクの中では同じだった。

 三浦が膝を上げ、腹に当たる。息が抜けた。身体が折れかけても、両手は上着を離さなかった。折れたまま体重を預け、相手の胸の上へ膝を乗せる。

 乗った方が、重かった。

 自分の拳を、三浦の顔へ叩きつけた。まるで上から拳を下ろしてスイカを粉々に砕くような感じだ。血が手袋の甲まで来る。

 もう一回、叩きつけた。

 三浦の手が俺の顔を探る。マスクを剥がそうとする指を、俺は掌で机に押しつけた。押しつけた方の手首が、さっきより深く曲がる。三浦の声が途切れた。

 棚が揺れて、残っていたボトルが頭上から落ちる。一つが三浦の肩で弾け、水と血が同じ色に見えた。

「分かったからッ!離せよッ!」

 言葉の途中で、俺は相手の襟を短く持ち替えて引き上げた。三浦の上体が机から浮く。浮いたまま、棚へ派手に投げた。

 背中が棚板を貫くみたいに沈み、ペットボトルがまとめて崩れる。三浦が床へ滑り落ちて、横を向いた。口から赤いものが出ていた。

 まだ、手を出していた。

 俺はそこに歩いた。腹が引き攣って、まっすぐではなかった。それでも距離は消えた。起き上がろうとした三浦の胸を、靴底で踏んだ。

 昨日殴られた場所と同じ高さだった。踏んだ先で、三浦の息が短く切れる。

 もう一度、踏んだ。

 今度は顔の横だった。マスクがずれた隙間から、三浦の眼が見えた。こちらを見ていた。見ていた眼が、靴の陰に入る。

「おい、止めろッ!」

 誰かの手が背中に掛かった。

 払おうとして肩を回すと、柴崎の顔が近かった。引かれる。身体が後ろへずれるのに、視線だけが床の三浦から外れない。

「もう出た。2人とも下に行ったから」

 扉の方へ顔を向けた。ずれたマスクの隙間から、誰もいない廊下が見えた。睫にかかった血で、廊下が赤い。

「警察来るって!離せ!」

 柴崎の声が耳の中で割れた。

 三浦は机の脚に片手をかけていた。かけたまま、上がれずにいた。上着の袖は肩から裂け、曲がった方の手首が、自分の膝の内側でぶら下がっている。

 それを見ている自分の手が、まだ開いていなかった。

 柴崎がもう一度引いたところで、膝から力が抜けた。

 俺は机の縁を擦りながら床へ落ちた。立とうとしたが、脚が震えて靴を引き寄せられなかった。マスクの中で、自分が荒い音を立てている。吐いた息が血の味で、吸い返すたびに喉が鳴った。

 三浦は床に顔をつけたまま、乱れた息を整えていた。こちらを見ない。見られない向きで止まっていた。

 階下から、ユイの声が聞こえた。

「奈雄さん!」

 返事の代わりに手を上げようとして、俺は右腕を抱えた。上げた左手の指が、まだ曲がったまま開かなかった。手袋が真っ赤だった。



────────────────────



 マスクを外しても、しばらく息はうまく吸えなかった。

 ビルの外で縁石に座り、俺は両足の間にマスクを置いていた。内側が赤黒く濡れている。鼻の下に手をやると血がついたので、ユイにもらったティッシュを押し当てた。すぐ赤くなった。自分の鼻からだけとは思えなかった。

 警察官が1人、俺の前にしゃがんでいた。もう1人はビルの入口で柴崎と話している。入口の奥で、別の人が三浦の方を屈んでいた。

 何があったのか説明しようとしたが、歯が細かく鳴って、言葉が途切れた。寒いわけではないのに、左手まで震えていた。握っていた方の指が、まだ自分のものみたいでなかった。

「救急車も来ますから、そのままで」

 俺は頷いた。

 さっきまで立っていたのが嘘みたいに、腹も肩も痛かった。少し姿勢を変えるだけで吐き気がして、背中を丸めることも伸ばすこともできなかった。口の中が鉄の味で、唾を飲み込むたびに鼻の奥が熱い。

 アドレナリンでも出ていたのかと思ったが、考えても痛みは引かなかった。むしろ、現場を離れた今の方が、自分の手がどこまで行ったかを思い出し始めていた。

 ミクは少し離れた場所で電話をしていた。

「うん。私。……ごめん」

 片手にバッグを抱え、何度も頷いていた。その声を聞いてから、俺はポケットを探った。

「スマホ、これですよね……?」

 ユイが差し出した。柴崎から受け取ったらしい。画面の端にひびが入っていたが、電源はついた。

 依頼人との画面を開くと、メッセージが届いていた。

『ミクさんから電話来ました』

 俺は返事を打とうとして、同じ文字を2回押した。消そうとした指も別の場所に触れて、諦めてユイへ渡した。

「見つかりましたって、返してもらえますか?」

「はい……」

 ユイは俺の横にしゃがみ、画面を操作した。

 そのスマホではなく、彼女自身のバッグの中で着信音が鳴った。ユイは一度そちらを見たが、取り出さなかった。

「返しましたよ……」

「ありがとうございます」

 スマホを受け取る時に右手を動かしてしまい、俺は息を止めた。肩の奥が、熱い針みたいに走った。

 ユイが何か言いかけたところへ、電話を終えたミクが戻ってきた。

「友達、迎えに来るって」

「……そうですか」

「このバッグ、ここ置いていい…ですか…?」

 俺が頷くと、ミクは足元へバッグを下ろした。ユイは救急車の音がする方向を見てから、転がりかけたマスクを拾い、自分の膝に載せた。

 内側を見ないように、表を上にした。

 俺は左手を、右の掌で押さえた。

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