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35、どうしよう

『お兄さん』

『どうしよう』

 画面に並んだ文字を見ながら、俺はしばらく動けなかった。

 どうしよう、と言われても困る。

 俺には払えない。払えたとしても、払うべきなのか分からない。

『今、店の中ですか』

『うん』

『担当も一緒?』

『今店の人と話してる』

 俺は時刻を確認した。

 夜の仕事を終えたばかりだった。

『行くだけなら行けます』

 既読はすぐに付いた。

『お願いします』

「…………」

 便利屋としての依頼なのかは分からない。

 報酬の話もしていない。

 また商売になっていない気がする。

 俺は駅とは反対方向へ歩き出した。

        


 指定された店は以前ユイと来た場所だった。

 ビルの前で仮面をバッグから取り出す。

 今日は便利屋の仕事をするつもりではなかったから、衣装は持ってきていない。

 あるのは仮面だけ。

「…………」

 これだけ着ける方が怪しい気がする。

 少し考えて、結局そのままバッグへ戻した。

 今日は望田奈雄として行く。

 エレベーターを降りると、派手な照明が視界に入った。

 受付でユイの名前を出す。

 少し待たされてから、奥へ案内された。

「お兄さん」

 ユイはソファに座っていた。

 テーブルの上には空になったグラスと、何本かのボトル。

 俺でも見覚えのあるものがあった。

 昼間、写真で見たやつだ。

「大丈夫ですか」

「うん」

「酔ってます?」

「ちょっと」

 顔が赤い。

 でも会話はできている。

「いくら足りないんですか」

 ユイが金額を口にした。

 さっき聞いた数字と同じだった。

「払えるんですか」

「だから無理だって」

「ですよね」

「お兄さん、もうちょっと言い方ない?」

「すみません」

 隣に座る。

 俺が来たところで状況は何も変わっていない。

「担当は?」

「あっち」

 ユイが店の奥を見る。

 担当が別の男と話していた。

 スーツ姿。

 店の従業員だろう。

「何の話してるんですか」

「分かんない」

「聞いてない?」

「担当が大丈夫って」

 またそれだ。

「ユイさん」

「ん?」

「前の190万も、こういう感じだったんですか」

 ユイの表情が止まった。

「……何が?」

「払えなくなって、担当が何とかするって」

「覚えてない」

「580万作ったの半年くらいですよね」

「うん」

「その間に何回くらいありました?」

「だから覚えてないって」

「そうですか」

 それ以上は聞かなかった。

 少しして、担当が戻ってきた。

「あれ」

 俺を見て笑う。

「今日はライダーじゃないんだ」

「仕事帰りなので」

「ユイが呼んだ?」

「はい」

「仲いいね、本当に」

「そうですか」

「彼氏みたい」

「違います」

 ユイも、

「違うよ」

 と否定した。

「そんな全力で否定しなくてもいいじゃん」

 担当は笑いながらユイの隣に座る。

「で、大丈夫だから」

 ユイが顔を上げた。

「ほんと?」

「うん。店とは話した」

「どうなるの?」

「今日の分、俺が持つ」

「…………」

 俺は担当を見る。

 ユイは数秒固まった後、

「でも」

「いいって」

「また増えるじゃん」

「今さらでしょ」

 担当は軽く笑った。

「ユイ最近頑張ってるし。俺もそれくらいしてあげたいから」

「でも……」

「俺の誕生日祝いに来てくれたんだからさ。ここでユイだけ困らせる方が嫌だよ」

 優しい言い方だった。

 怒っていない。

 責めてもいない。

 むしろユイを安心させようとしている。

「ありがとう」

 ユイが小さく言った。

「いいよ」

 担当が笑う。

 そこで俺は聞いた。

「いくら立て替えるんですか」

 担当が俺を見る。

「え?」

「今日の不足分です」

「ああ」

 金額を言う。

 ユイが俺に言ったものと同じ。

「それはユイさんの借金になります?」

 一瞬だけ空気が止まった。

「まあ、そうなるね」

「誰に対する?」

「俺」

「店じゃなくて?」

「俺が店に払うんだから、俺でしょ」

 理屈は分かる。

「何か残します?」

「何かって?」

「いくら立て替えたか分かるもの」

 担当の笑顔が少し薄くなった。

「君さ」

「はい」

「前から思ってたけど、何なの?」

「便利屋です」

「今日はその格好してないじゃん」

「今日は仕事じゃないので」

「じゃあ余計関係ないよね」

「はい」

 その通りだった。

「奈雄さん」

 ユイが小さく俺の名前を呼ぶ。

「大丈夫だから」

「そうですか」

「担当が払ってくれるって」

「はい」

 俺は黙った。

 担当がユイの肩に軽く手を置く。

「ほら。帰ろう。明日仕事なんでしょ?」

「うん」

「頑張ってきな」

「うん」

 さっきまで困っていたユイの顔が、少し明るくなっている。

 問題は解決した。

 今日の支払いは担当がする。

 ユイは帰れる。

 誰も怒鳴っていない。

 誰も脅していない。

 俺が来る必要なんてなかったように見えた。

        



 店を出た後、俺とユイは新宿駅方面へ歩いた。

 担当は店に残った。

「良かったですね」

 俺が言うと、ユイは頷いた。

「うん」

「帰れないかと思った」

「帰れないってことあるんですか」

「分かんない」

「…………」

 夜の歌舞伎町を歩く。

 ユイはさっきより機嫌が良かった。

「やっぱ優しいんだよ」

「担当?」

「うん」

「そうですね」

「普通、あんな金額払ってくれないじゃん」

「多分」

「私、ちゃんと返さないと」

 俺は歩きながらユイを見る。

「今日の分も?」

「当たり前じゃん」

「じゃあ580万に追加される?」

 ユイの足が少し遅くなった。

「……そうなるのかな」

「今までの190万も、そういう金ですか」

「だから分かんないって」

「確認した方が」

「奈雄さん」

 初めて少し強い声で遮られた。

「もういい」

「…………」

「担当のこと疑うの、やめて」

「すみません」

「私が悪いの。今日だって私が使ったんだから」

「はい」

「担当は助けてくれただけ」

「分かりました」

 また気まずくなる。

 駅が見えてきた。

「じゃあ」

 ユイが足を止める。

「今日はありがとう」

「俺、何もしてないですけど」

「来てくれたじゃん」

「それだけです」

「それでいい」

 ユイは少し笑った。

「またね」

「はい」

 人混みの中へ消えていく。

 俺はその後ろ姿を見送った。

        


 家に着いてから、机に座った。

 スマートフォンのメモを開く。

『580万』

 その下。

『店 約390万』

『担当立替 約190万』

 今日の金額を、そのさらに下へ追加する。

 数字を見る。

 ユイはこの1週間、働いた。

 かなり稼いだ。

 返済もした。

 なのに今日、担当への借金がまた増えた。

「…………」

 電卓を開く。

 以前の残額から、ユイが返したと聞いた金額を引く。

 そこへ今日の立替分を足す。

 正確な数字ではない。

 それでも分かる。

 減ってはいる。

 確かに減っている。

 でも、俺が思っていたほどではない。

 それ以上に気になることがあった。

 俺は新しくメモを作った。

『190万の内訳』

 今日、俺は初めて目の前で見た。

 ユイが払えない。

 担当が代わりに払うと言う。

 その金が、ユイの担当への借金になる。

 もし以前も同じことが繰り返されていたなら。

 190万円という数字が、突然現れたわけではないことになる。

 少しずつ。

 何度も。

 同じように積み上がった。

 俺は画面を眺めた。

 ユイは担当を信用している。

 担当も、少なくとも今日のユイには優しかった。

 困っているユイを助けた。

 それは事実だ。

 ただ。

 俺には1つだけ分からなかった。

 580万円を返すために始めた仕事で稼いだ金を、ユイは担当の店で使った。

 払えなくなった分を、その担当が立て替えた。

 そしてユイは、その金を返すためにまた働く。

「……これ」

 俺はメモに並んだ数字を見る。

「助かってるのか?」

 答えは出なかった。

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