36、次の紹介先
翌朝、目を覚まして最初に見たのは、昨日作ったメモだった。
寝る前にスマートフォンを触ったまま眠ってしまったらしく、画面には『190万の内訳』という文字が残っている。時刻は8時12分。いつもより少し早く目が覚めた俺は、布団の中でその数字を眺めながら、昨日の出来事をもう一度頭の中で整理してみた。
580万円のうち、ユイ自身が確認できている店への売掛が約390万円。残りの約190万円は、担当が代わりに支払ったとされている金で、領収書も振り込みの記録も、いつ、いくら支払ったのかという詳しい内訳もユイは確認していない。
そして昨日、俺は初めてその「立替」が発生するところを目の前で見た。
ユイが担当の誕生日を祝うために店へ行き、手持ち以上の金を使ってしまい、担当が店側と話した後で『今日の分、俺が持つ』と言った。結果としてユイはその場で金を用意する必要がなくなった代わりに、担当へ返さなければならない金が増えた。
もし以前にも同じことが繰り返されていたのなら、190万円まで積み上がったこと自体は不思議ではない。ただ、それなら逆に確認できるはずだった。何月何日にいくら立て替えたのか、それを足していけば190万円になる。書店なら本が1冊足りないだけでも原因を確認するのに、その何千倍もの金額が『俺が出しといたから』の一言だけで成立していることが、どうしても俺には理解できなかった。
俺はユイとのトーク画面を開いた。
『昨日の立替って、何か記録残ってますか』
しばらくすると返信が来た。
『朝からそれ?』
『気になったので』
『知らない』
『担当に聞けば分かります?』
『多分』
『じゃあ確認した方がいいと思います』
既読が付いたまま少し止まり、やがて返ってきたのは、
『昨日もうその話したじゃん』
『疑うのやめてって言ったよね』
という文章だった。
「…………」
怒らせてしまったらしい。
昨日もユイは、担当のことを疑わないでほしいと言っていた。本人が嫌がっている以上、これ以上俺が口を挟む理由はないのかもしれない。
『すみません』
そこで終わらせようとしたが、少ししてユイの方から、
『ごめん』
『昨日疲れてたから』
『別に怒ってない』
と続いた。多分、少しは怒っていたと思う。
『今日仕事ですか』
『うん』
『何時から?』
『夕方』
『担当の店には行くんですか』
『今日は行かない』
『本当に?』
『行かないって笑』
ならいい、と一瞬思ったものの、俺が安心する話なのかは分からなかった。
昼の仕事はいつも通りだった。
バックヤードへ運び込まれた段ボールを開け、伝票と照らし合わせながら本を仕分けていく。冊数が合わなければもう一度数え、それでも合わなければ別の箱や記録を確認するという、普段なら特に何も考えずにやっている作業だった。
その途中で、また190万円のことを思い出した。
俺の目の前にある本は、たった1冊足りないだけでも原因を確認する。それなのにユイは、自分が担当へ返さなければならない190万円について、いつ発生したのかも正確には把握していない。金の使い方なんて人それぞれだと言われればそれまでなのだろうが、俺にはやっぱり引っかかった。
昼休みに入ると、ユイへ聞く代わりに咲優へ連絡してみた。
『また聞きたいことある』
『嫌な予感しかしない』
『ホストの立替について』
『ほら』
俺は580万円の内訳と、昨日新しく立替が発生したことを簡単に説明した。
『こういうのってよくある?』
『あるにはある』
『担当が自分で店に払う?』
『そういう形になることもある』
『じゃあ変じゃない?』
『それだけじゃ分かんないって』
以前と同じ答えだった。
咲優は担当を庇っているわけでもなければ、ユイの話を信用していないわけでもない。ただ、確認できていないことを勝手に決めつけるなと言っているだけで、その点については俺も正しいと思う。
『確認する方法あります?』
『本人が店と担当に聞けば』
『本人が聞きたくないって』
『じゃあ無理』
『俺が店に聞くのは?』
『もっと無理』
『ですよね』
『他人の金の話を店がお兄さんに教えると思う?』
思わない。
『じゃあどうすれば』
『なんでお兄さんがそこまでやるの』
また同じことを聞かれた。
助けたいのかと言われれば、自分でもよく分からない。ユイは成人していて、自分で店へ行き、自分で金を使い、自分で今の仕事を選んだ。担当を信用するのも本人の自由で、俺がそこへ入り込む理由は本来ない。
『気になるだけ』
『だったら放っとけばいいじゃん』
その方がいいのだろう。
『そうします』
俺はそう返して、残っていた昼飯を食べた。
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その日の夜、少なくとも数時間は本当に放っておいた。
21時を過ぎ、夜の仕事の休憩中にスマートフォンを確認すると、ユイから札を何枚か並べた写真が届いていた。
『今日も稼げた』
『お疲れ様です』
『昨日の分も返せそう』
『昨日立て替えてもらった分?』
『うん』
『もう返すんですか』
『担当は急がなくていいって言ってるけど』
昨日あれだけの金額を代わりに払ったのに、急がなくていいと言っているらしい。少なくとも、それだけを聞けば担当がユイを追い詰めているようには思えない。
『今日はいくら返済に回します?』
『また計算?』
『気になっただけです』
教えられた金額は昨日の立替分より少なかったが、残りは生活費と貯金にするという。
『それがいいと思います』
『でしょ』
普通の会話だった。昨日のことさえなければ、俺もそれ以上気にしなかったと思う。
休憩を終えようとしたところで、ユイからもう一度連絡が入った。
『担当から連絡きた』
『店ですか』
『違う』
『今近くいるから会わない?って』
『会うんですか』
『少しだけ』
『今日は店行かないって言ってませんでした?』
『店じゃないよ笑』
確かに店ではない。
『外で会うだけ』
『分かりました』
『心配性すぎ笑』
俺はスマートフォンをポケットへ戻し、仕事に戻った。
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23時46分。
仕事を終えて新宿駅へ向かっていると、横断歩道の向こう側に見覚えのある顔があった。
担当だった。その隣にはユイもいる。
本当に外で会っていたらしく、2人は何か話しながら歩いている。俺は声をかける理由もなかったので、そのまますれ違うつもりで信号を渡った。
ユイはこちらに気づいていない。担当も同じだった。
人混みに紛れて横を通り過ぎた時、
「じゃ、あの件は俺から柴崎さんに言っとくから」
聞き覚えのある名前が耳に入った。
足を止めるほどではなかったが、自然と歩く速度が落ちた。
「え、柴崎さん?」
「うん。今の店、どう?」
「どうって?」
「稼げてる?」
「まあ……前よりは」
「だったらいいけど、もっと条件いいところもあるらしいからさ。ユイが早く返したいなら、話だけ聞いてみてもいいんじゃない?」
そこで雑踏に紛れ、2人の声は聞こえなくなった。
俺は振り返らず、そのまま駅へ向かった。
柴崎は、担当から紹介され、ファミレスでユイと俺に仕事の説明をした男だ。最初は九州の店を紹介しようとして、ユイが地方へ行くことを断ると、今度は歌舞伎町の風俗店を紹介した。
ユイがそこで働き始めて、まだそれほど経っていない。それなのに、もう次の仕事の話が出ている。
俺は歩きながら以前作ったメモを開いた。そこには『担当』『柴崎』『紹介先』という3つの言葉が並んでいて、その下へ『もっと条件のいい店?』と書き加えたところで、ファミレスで会った時の柴崎を思い出した。
あの男はユイの顔写真を受け取ると、本人が何も決めていない段階ですぐどこかへ回し、九州の候補が駄目になれば東京の店を出してきた。今回も同じなら、柴崎はまた別の紹介先を持っていることになる。
「……何軒あるんだ」
自分でも何を調べようとしているのか、少し分からなくなってきた。
翌日の昼休み。
『昨日奈雄さんいた?』
ユイからだった。
『いました』
『やっぱり』
『見たんですか』
『後ろ姿だけ』
『声かけてくれればよかったのに』
『邪魔かと思って』
『別に邪魔じゃないよ笑』
少し迷った後、昨日聞こえたことについて尋ねた。
『柴崎さんから、また仕事紹介されるんですか』
『聞いてたの?』
『名前だけ』
『まだ分かんないよ』
『今の店辞める?』
『辞めない』
『じゃあ何の仕事ですか』
『だからまだ聞いてないって』
そこで一度会話が途切れた。
しばらくして、ユイから『でも今より稼げるなら、ちょっと興味ある』と返ってきた。
俺は画面を見ながら、これまでの流れを思い返した。580万円を返すために高収入の仕事が必要になり、担当から柴崎を紹介され、柴崎から今の店を紹介された。実際にユイの収入は増えたが、その金の一部は再び担当の店へ戻り、払えなかった分は新しい立替になった。そして今度は、さらに稼げる仕事があると言われている。
個々に見れば、どれも本人が選んだことだった。それでも一続きにすると、どこへ向かっているのか分からない。
『話聞く時、俺も行きましょうか』
『なんで?』
『前も付き添ったので』
『今回は依頼してないよ』
『そうですね』
『また1,000円払わないといけないし笑』
『今回は無料でいいです』
『商売下手すぎ』
『よく言われます』
『それは本当に言われてそう』
少しして、『聞くだけなら』と返ってきた。
『分かりました』
俺はスマートフォンを伏せ、休憩室の時計を見た。
最初に気になっていたのは、担当が立て替えたという190万円の内訳だけだったはずだ。けれど、それを確認しようとするたびに別のものが出てきて、今では担当と柴崎が次にユイをどこへ連れていこうとしているのかまで気になっている。
昼休みが終わり、俺は席を立った。
次に柴崎と会った時には、前回より少し詳しく話を聞いてみようと思った。




